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25話 天使は血を浴びて立ち上がる

「ガガガガガガガッ……!!」


ザントの鋼鉄の腕から、限界を超えた歯車とシリンダーが悲鳴を上げる凄まじい摩擦音が響き渡る。

普段のド・ガンであれば、いくら大柄で力自慢とはいえ、サイボーグであるザントのフルパワーを押し込めるはずがない。だが、洗脳ガスによって脳のリミッターを完全に焼き切られた彼は、筋肉が断裂し骨が軋むことすら意に介さない、文字通りの『生きた質量兵器』と化していた。


「く、そぉっ……! 出力が、負けて……ッ!」


ザントの顔が苦痛に歪み、足元の石畳がメキメキと崩れていく。

そして――バキンッ!という嫌な破断音と共に、ザントの左腕の関節パーツが耐えきれずに弾け飛んだ。


「しまっ――」

「オオオォォォォッ!!」


防御の崩れたザントの胸ぐらを、ド・ガンは空いた片手で無造作に掴み上げ、まるで羽虫でも払うかのように、凄まじい膂力で瓦礫の山へと放り投げた。

轟音を立ててザントが瓦礫に埋もれ、我々を守る最大の盾が失われる。


「おっちゃん!! やめろ!! 目を覚ましてくれ!!」


血を流しながら、リドが絶叫と共にド・ガンの背中へと飛びかかった。その太い首に両腕を回し、全体重をかけて押し倒そうとする。

それに呼応するように、周囲で固まっていた裏都市の大人たちも、我に返ったように一斉に群がった。

「ド・ガン! 俺だ、顔を思い出せ!」

「誰か、ハンマーを持つ腕を抑えろ! 足を引っ張れ!」

五人、十人と、泥だらけの手がド・ガンの身体に絡みつき、鎖のように彼を地面に縫い止めようと必死に足掻いた。


だが、洗脳された巨漢の歩みは、わずかに鈍っただけだった。


「ガァァァァァッ!!」


ド・ガンが獣の咆哮を上げ、全身の筋肉を異常なほどに膨張させて身を捩った。ただそれだけで、群がっていた屈強な男たちが、まるで枯れ葉のように次々と中空へ弾き飛ばされていく。

背中にしがみついていたリドも、ド・ガンに太い腕で背越しに掴まれ、石畳に思い切り叩きつけられた。


「がはッ……! あ、あぁ……ッ」

肋骨が折れる音。リドは血を吐き、ピクピクと痙攣して完全に動けなくなってしまった。


邪魔者をすべて排除したド・ガンは、濁りきった虚無の瞳を、再び真っ直ぐに下方へと向けた。

その視線の先にあるのは――魔力を使い果たし、へたり込んでいる私と。

私の豊穣の力によって、奇跡的に塞がった傷跡から浅い呼吸を繰り返し、ようやくうっすらと意識を取り戻したばかりの、小さなマリィの姿だった。


「……おじ、ちゃん……?」


血と泥にまみれたマリィが、虚ろな目を細め、目の前に立つ巨大な影を見上げて呟いた。

彼女の視界はひどく霞んでいたのだろう。振り上げられた巨大なハンマーの凶悪さにも、ド・ガンの異常な様子にも気づいていないようだった。

ただ、大好きだった家族が目の前に帰ってきてくれたのだと、その小さな唇に、ひどく安堵したような、無邪気で優しい笑みを浮かべたのだ。


「よかったぁ……。かえって、きて、くれたん、だね……」


震える細い手を、ド・ガンへ向けて伸ばすマリィ。

しかし、その純粋な愛情が、洗脳された機械の心に届くことはなかった。


ド・ガンは、伸ばされたその小さな手を一切見下ろすことなく、両手で固く握りしめた巨大な鋼鉄のハンマーを、朝日の逆光を背に受けて、天高く振りかぶった。

ハンマーが太陽の光を遮り、巨大な黒い死の影が、私とマリィの身体をすっぽりと覆い隠す。

「ま、ま、り……」


「や、やめろ……ッ!!」


私は叫び、覆い被さるようにマリィの身体を庇おうとした。だが、豊穣の力を限界まで絞り出した私の体は鉛のように重く、指一本動かすことすらできなかった。


「マリィィィィィィィィッ!!!」

背後で、瓦礫に埋もれたザントと、倒れたリドの悲痛な絶叫が木霊する。


ブォンッ!!

空気を重く切り裂く風切り音。


ド・ガンの無慈悲なハンマーが、重力と異常な筋力のすべてを乗せて、振り下ろされた。


――グチャァッ。


それは、人間の身体から鳴っていいはずのない、おぞましく、湿った破裂音だった。

硬い石畳の地面そのものが、クレーターのように深々と陥没するほどの破壊力。


「…………え?」


私の顔のすぐ横、数センチの距離に、血濡れた巨大な鋼鉄の塊がめり込んでいた。

地響きと共に舞い上がった土煙。

そして、私のボロボロのコートと、凍りついた私の頬に、べっとりと、生温かく赤い『何か』が降り注いだ。


ハンマーが、ゆっくりと引き抜かれる。

その下には――先程まで懸命に呼吸をし、私に笑顔を見せていた少女の形は、もうどこにも残っていなかった。


そこにあるのは、原型を留めないほどに平らに潰され、石畳の隙間にこびりついた、赤黒い肉の染みと、砕け散った白い骨の破片。

そして、血の海の中にポツンと浮かぶ、泥にまみれた紫色の髪の毛の束だけだった。


私が命を削り、神の奇跡を起こしてまで繋ぎ止めた小さな命は。

彼女が誰よりも慕い、自らの命を懸けてまで助け出そうとした、たった一人の家族の力によって。


一片の躊躇いもなく、虫けらのように、一瞬にしてすり潰されてしまったのだ。


「あ…………ぁ…………」


戦場から、すべての音が消え去った。

裏都市の住人たちも、リドも、ザントも、誰もが声を発することすらできず、ただ目を見開き、その凄惨すぎる地獄の光景を前にして、魂を砕かれたように立ち尽くしていた。

血の匂いが、むせ返るほどに朝の空気を汚染していく。


ド・ガンは、ハンマーから滴り落ちる肉片を払うこともせず、ただ機械的にハンマーを持ち上げ、次なる標的――呆然とへたり込む私を見下ろし、再びその凶器を高く振りかざした。


生温かい、鉄と泥の混じった不快な匂いが、朝の澄んだ空気を無残に侵食していく。


私の頬にべっとりと張り付いた、まだ微かに熱を持っている『それ』が、重力に従ってゆっくりと顎を伝い、ボロボロのコートへと滴り落ちた。白金の髪の毛は、そのなにかで汚される。

視界の端に映るのは、石畳の窪みに溜まった赤黒い水たまり。そして、そこに浮かぶ紫色の髪の毛。


さっきまで、確かにそこにいたのだ。

恐怖に震えながらも、私を頼り、私の服の裾を強く握りしめていた小さな手が。

私の豊穣の力で傷が塞がり、微弱ながらも確かに脈打っていた、温かい心臓が。

大好きな家族が帰ってきたと、泥だらけの顔に無邪気な笑顔を咲かせた、あの優しき魂が。


そのすべてが、たった一振りの無慈悲な鋼鉄の塊によって、文字通り『物理的な肉の染み』へと変えられてしまった。


「あ…………ぁ、あ……」


最初に静寂を破ったのは、肋骨を砕かれ、地面に倒れ伏していたリドだった。

彼の喉の奥から漏れ出したのは、言葉という形を成さない、ただ空気が千切れるようなヒュー、ヒューという乾いた音だった。

見開かれた彼の瞳孔は極限まで収縮し、眼球にはびっしりと血走った毛細血管が浮かび上がっている。彼は折れた肋骨が内臓に突き刺さる激痛など完全に忘れたかのように、這いつくばったまま、泥と血にまみれた指先で石畳をガリガリと掻き毟る


爪が折れる、爪が折れる、爪が折れる、爪が折れる、爪が折れる、爪が折れる、爪が折れる、爪が折れる、爪が折れる、爪が折れる

爪が剝がれる、爪が剝がれる、爪が剝がれる、爪が剝がれる爪が剝がれ、マリィだった『肉の海』へと近寄ろうとしていた。


「うそだ……うそだうそだうそだうそだ……ッ!」


爪が剥がれ、指先から血が滲んでも、リドは止まらない。

自分が命を懸けて守ると誓った少女が、彼女が誰よりも慕っていた『家族』の手によって、紙屑のようにすり潰された。その圧倒的で不条理な現実を、彼の幼い精神が受け止めきれるはずがなかった。

「うそ、っうそ、うそ、うそうそうそうそ……あああ、あああああああぁぁああええええああああ」


「マリィ……! マリィ、マリィマリィマリィマリィマリィマリィッ……マリィ俺が、俺が守るって……約束、したのに……ッ!! あ、あああああああァァァァァァァァァァッ!!!」


ついに限界を超えたリドの絶叫が、血を吐くような慟哭となって、王都の空に悲痛に響き渡った。

それは、人間の魂が真っ二つにへし折れる音そのものだった。周囲で立ち尽くす裏都市の大人たちも、誰もが武器を取り落とし、顔を覆って嘔吐し、あるいは正気を失ったようにガタガタと震えを痙攣させている。


だが、そんな地獄の惨状にあっても、狂気をもたらした張本人であるド・ガンの瞳には、ただの一滴の涙も、微かな後悔の色も浮かぶことはなかった。


ギギ……ッ。


洗脳ガスによって完全に脳を焼き切られ、自我を失った巨漢は、自らの『娘』を肉片に変えたハンマーを、血の海から無造作に引き抜いた。

ドロリと、ハンマーの平らな面から赤黒い粘液が糸を引いて落ちる。

ド・ガンはそれを気にする素振りすら見せず、まるでプログラムされた作業を淡々とこなす機械のように、次の標的である私を見下ろした。


(……来る)


頭では理解しているのに、私の身体は微動だにしなかった。

豊穣の力を限界まで絞り出し、魔力も底を突いた私の肉体は、すでに指先一つ動かすことすら拒絶している。逃げることも、避けることもできない。

圧倒的な死の影が、再び私を覆い隠す。


「グルルゥゥ……ッ」


獣のような唸り声と共に、ド・ガンの太い腕の筋肉が異常なまでに隆起した。

マリィの血と肉をたっぷりと吸い込んだ巨大なハンマーが、朝の光を遮るように高く、高く振りかぶられる。

一切の慈悲も、躊躇いもない、完全なる殺意の塊。

それが私の頭蓋めがけて振り下ろされようとした、その刹那。


「――立ち上がれェェェッ!! 天使ィィィッ!!!」


ゴォォォォォォォォンッ!!!


鼓膜を突き破るような爆発音と共に、横合いから凄まじい青白い炎の塊が、ド・ガンの巨体へと猛スピードで突き刺さった。

ハンマーの軌道が僅かに逸れ、私のすぐ脇の石畳を粉砕して巨大なクレーターを穿つ。


「ザント……ッ!」


土煙の中で私を庇うように立っていたのは、左腕を失い、全身から火花と冷却水を噴き出しているサイボーグ、ザントだった。

彼は残された右腕と、背中のブースターの出力を限界突破させ、自らの機体が壊れることも厭わずに、捨て身のタックルでド・ガンを弾き飛ばしたのだ。


「ぐ、おぉぉぉぉッ……!!」

ザントは歯を食いしばり、機械の顎からオイルを血のように吐き出しながら、巨大なド・ガンの身体を無理やり押し返していく。


「いつまで座り込んでやがる……ッ! こんな悪趣味な盤面、ここで終わらせてたまるかよ……!!」

ザントの怒声が、凍りついていた私の鼓膜を強烈に打った。


「見ろ……ッ! 絶望してる暇なんて、一秒も残されちゃいねぇんだよ!!」


ザントの叫び声にハッと我に返り、私は弾かれたように顔を上げた。

彼が示す視線の先。

朝靄が晴れ始めた広場の向こう側から、無数の銀色の光が、太陽の光を反射して冷たく輝き始めていた。


カチャ、カチャ、カチャ……。

統率の取れた、不気味なほど静かな行軍の足音。

王国のシンボルを掲げ、純白のマントを翻す数百、数千の完全武装した騎士たち。

エノクとビターの命を受けたドロステ聖騎士団の本隊が、すでに我々を完全に包囲し、ジリジリと、しかし確実に死の輪を縮めてきていたのだ。


「……ッ」


内部では、洗脳され殺戮兵器と化した家族が暴れ狂い。

外部からは、感情を消した純白の軍隊が迫り来る。

逃げ場など、どこにもない。ここは王都の広場、完全に退路を断たれた吹き晒しの処刑場だ。


絶望の底で、私は強く唇を噛み締めた。血の味が口の中に広がる。

マリィの血に染まったコートの裾を握りしめ、私は震える両膝に無理やり力を込め、立ち上がった。


このふざけた盤面を敷いた狂気の女王と、心を殺した総隊長。

彼らの完璧な『正義』に、これ以上無残に踏みにじられるわけにはいかないのだ。

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