20話 さあ、楽しい楽しい正義の時間ですよ
澄み渡る青空の下、広々とした屋敷の中庭には、コンッ、カンッ!と、硬い木剣が激しくぶつかり合う小気味良い音が響き渡っていた。
「甘いよ! そこ、右が空いてる!」
「くっ……まだまだぁ! 踏み込みが単調になってるわよ!」
声の主は、まだ十歳にも満たないであろう二人の幼い少女だった。
一人は汗で髪を額に張り付かせながらも、野性味溢れる鋭い踏み込みで木剣を振るう少女。もう一人は、その荒削りな連撃を冷静に見極め、美しい姿勢で的確に受け流しながら反撃の隙を窺う少女。
性格も戦い方もまるで違う二人だったが、その実力は完全に互角。どちらかが一撃を入れれば、すかさずもう一方がやり返す。剣を交えるその表情は真剣そのものだが、彼女たちの瞳の奥には、互いを高め合うような純粋な楽しさと信頼がキラキラと輝いていた。
「はははっ、見ろよ。あいつら、また腕を上げたな。俺が教えた型をもう自分なりにアレンジしてやがる」
その様子を中庭のテラスから腕を組んで見守っていたのは、大柄な体格をした一人の男性だった。彼が身に纏うのは、王都の平和を守る誇り高き聖騎士の証である、純白の軍服。
彼の隣で温かいお茶を淹れていた母親らしき女性が、ふふっと優しく微笑んだ。
「ええ、本当に。毎日毎日、泥だらけになって飽きもせずに……。でも、あの子たちのあんなに楽しそうな顔を見ていると、こちらまで嬉しくなってしまいますね」
「ああ。うちの自慢の双璧だ。……なあ、どっちが先に、俺と同じ聖騎士団の真っ白なマントを羽織るようになると思う? 俺は、あの負けず嫌いの長女の方だと思うがね」
「あら、私は次女の方だと思いますよ。あの子のあの思い切りの良さは、きっと戦場で化けますから」
両親は、庭で転げ回りながらも笑い声を上げる二人の娘――ビターとミルクの姿を、心底愛おしそうに、そして誇らしげに眺めていた。
その頃のビターは、狂信的な正義に囚われた冷酷な総隊長などではなく、一人の聖騎士の父に憧れる、ごく普通の心優しい少女だった。
姉のビターと妹のミルク。二人は双子のように背丈も実力も同じくらいで、何かにつけて競い合い、励まし合う、どこにでもいる仲の良い姉妹だったのだ。
*
「私はね、絶対に聖騎士団に入って、一番強い騎士になるんだ!」
その日の夜。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる温かい食卓で、妹のミルクがスプーンを片手に身を乗り出して、目を輝かせながら夢を語り始めた。
「一番強くなって、お父さんみたいに悪い奴らをバッタバッタって倒して、王都のみんなが安心して暮らせるようにするの! 私がみんなを守るんだから!」
「ふふん、一番強い騎士? それなら私は、その上を行くわよ」
姉のビターも負けじと、スープを飲み込んでから誇らしげに胸を張った。
「私は聖騎士団の『隊長』になって、たくさんの騎士たちを指揮するの。お父さんみたいに一人で戦うのもかっこいいけど、みんなで力を合わせれば、もっとたくさんの人を守れるでしょ?」
「むっ……隊長! じゃあ、じゃあ私は『総隊長』になる! 隊長たちをみんなまとめる、一番えらい人!」
「なっ、ずるい! それなら私は、女王様を一番近くでお守りする近衛騎士のトップになるわ! 誰も私を倒せないくらいの、無敵の盾になるんだから!」
「私は誰よりも速く敵を倒す、最強の剣になるもん! おっきな剣をぶんぶん振り回して、嵐みたいに敵を吹き飛ばすの!」
身振りを交えながら、どんどんエスカレートしていく二人の『夢の大きさ比べ』。
あっちが総隊長ならこっちは最強の近衛騎士、あっちが嵐ならこっちは絶対の盾。尽きることのない子供たちの可愛らしい口喧嘩を、父親は苦笑しながら見守っていた。
「はいはい、二人ともストップ」
白熱する姉妹の頭に、父親の大きな手がポン、ポンと乗せられた。
「総隊長になるのも、最強の騎士になるのも大いに結構だ。俺の娘たちなら、きっといつか叶えられるって信じてるよ。……だがな」
父親はニヤリと笑い、ビターとミルクのお皿を指差した。
「そんな立派な夢を叶えるためには、まずはこのお皿に残ってる『人参』と『ピーマン』を、好き嫌いせずに残さず食べることだ。立派な騎士は、野菜もちゃんと食うもんだぞ?」
「「うぇぇ……っ」」
図星を突かれた二人は、まるで鏡写しのように全く同じタイミングで露骨に顔をしかめ、ぷぅっと頬を膨らませた。
「もうっ! お父さんったら、いつもそうやって誤魔化すんだから!」
「そうよ! 私たちが立派な騎士になったら、絶対にお父さんのこと言い負かしてやるんだからね!」
むくれる二人を見て、両親は声を上げて笑った。
ビターとミルクも、最初は怒ったふりをしていたが、やがて顔を見合わせて吹き出し、コロコロと楽しそうに笑い合った。
「……よし、ミルク! 明日の朝は私が絶対に勝つわよ! 覚悟しておきなさい!」
「望むところだよ、お姉ちゃん! 私だって、明日こそ一本取るんだから!」
無邪気な笑い声が、温かい暖炉の火と共に部屋を満たす。
それは、どこまでも平和で、希望に満ちた姉妹の約束だった。
――次の瞬間。
鼓膜を破るような爆発音と、肉が焼ける悪臭が、世界を乱暴に塗り替えた。
『――ッ、――!!』
視界を覆うのは、灰色の硝煙と、べっとりとこびりついた暗赤色の血。
純白だったはずの軍服を泥と肉片で汚し、ミルクは戦場のど真ん中で、目を見開いたまま呆然と立ち尽くしていた。
ゴッ!!
「あぐッ……!」
突如、横っ面を硬い籠手で殴り飛ばされ、ミルクはもんどり打って泥濘む大地へと倒れ込んだ。
口の中に鉄の味が広がり、脳が激しく揺れる。霞む視界の中で、倒れた彼女を見下ろすように立っていたのは、返り血で顔を染めた反乱軍の巨漢兵士だった。
「死ね、王国の犬が」
巨漢の兵士が、無慈悲に刃こぼれした大剣を振り上げ、ミルクの細い首筋へと突きつける。
死の冷気が、肌を粟立たせた。
「……あ、あぁぁぁァァァッ!!」
ミルクは獣のような咆哮を上げ、泥を蹴って跳ね起きた。
突き下ろされる大剣を紙一重で躱し、手にした剣を狂ったように敵の腹部へと深々と突き刺す。ゴボッ、と兵士の口から血が溢れ、巨大な体が崩れ落ちた。
「行け! 止まるな! 前線を押し上げろ!」
「ミルク、こっちだ! 走れ!!」
「は、はいッ……!」
ミルクは剣を引き抜き、生き残った数名の仲間たちと共に、再び地獄の底のような戦場を走り進んだ。
これが、彼女の『最初の戦場』だった。
*
少し前。
ビターとミルクの姉妹は、共に競い合いながら鍛錬を続けていた。
しかし、聖騎士団への入団試験を先に突破したのは、ずば抜けた剣の才能を開花させた妹のミルクだった。
『お父さん、お母さん、お姉ちゃん! 私、立派な聖騎士になってみせます! 今まで、ありがとうございました!』
出発の朝。真新しい純白のマントを羽織ったミルクは、眩しいほどの笑顔で家族に敬礼をした。
両親は涙ぐみながら、心から妹を誇りに思っていた。ビターもまた、そこに嫉妬など微塵もなかった。ただ純粋に妹の背中を誇りに思い、自分も後に続こうと、父親の指導のもとで一層の鍛錬に励んでいた。
現在も、屋敷の中庭では、ビターが父親の声に合わせて真剣な顔で木刀を振るっている。
平和な木剣の風切り音。
希望に満ちた、温かい日々。
だが、ミルクが送られた最前線は、訓練とは名ばかりの、底なしの殺戮領域だった。
覚悟はしていた。自分は王国を守るために命を懸けるのだと。
しかし、現実はあまりにも凄惨だった。
隊長は開戦から数分で頭を吹き飛ばされて死んだ。
ミルクを庇ってくれた、自分よりもずっと腕の立つベテランの騎士たちも、次々と泥の中に倒れ、悲鳴を上げて死んでいった。
最初こそ、ミルクは自らを奮い立たせ、「私たちが正義です! 突撃しましょう!」と士気を高め続けて敵陣に突っ込んだ。
だが、多勢に無勢。
どれだけ剣を振っても、敵はうじゃうじゃと湧いてくる。
そして今、ミルクの周囲で動いている純白の軍服は――もう、自分一人だけだった。
「……あ……」
ミルクは、血に濡れた剣を力なく下げ、暗く淀んだ戦場の空を見上げた。
絶望。
どれだけ理想を叫んでも、どれだけ剣の才能があっても、圧倒的な暴力と数の前には無意味だった。
彼女は、己の死期を完全に悟った。
*
遠く離れた平和な王都の中庭で。
ビターが、踏み込みと共に鋭く木刀を振るう。
血と泥に塗れた最前線で。
反乱軍の兵士が、無慈悲に鋼の剣を振り下ろす。
ビターが木刀を振ると、訓練用のダミーの『的』が勢いよく倒れた。
敵兵が剣を振ると、最後まで共に走っていた『仲間』の胴体が両断され、泥の中に倒れた。
ドフッ、と。
倒れた的が破れ、中から飛び出した白い緩衝材が、風に乗ってビターの美しい顔にふわりと当たった。
ベチャッ、と。
倒れた仲間が裂け、吹き出した血みどろの色とりどりの内臓が、ミルクの青ざめた顔にべっとりと張り付いた。
ビターは、顔についた緩衝材を払いもせず、立派な聖騎士になるという決心に満ちた、真っ直ぐで真剣な顔のまま、次の的へと向き直る。
ミルクは、顔から滑り落ちる生温かい臓物に嘔吐しそうになりながら、心が完全に壊れ、萎えきった絶望の顔のまま、迫り来る敵の群れを見つめていた。
「はぁぁぁッ!!」
ビターの、希望に満ちた澄んだ気合いの声が青空に響き渡る。
「は……ぁ……あ、あ……、ぁぁ……ッ!」
ミルクは、恐怖にガタガタと震える血まみれの両手を見つめ、声にならない絶望の嗚咽を漏らした。
同じ夢を見た姉妹の運命は、この瞬間、決定的に、そして残酷に分たれてしまったのだった。
立ち尽くすミルクの視界の先から、地鳴りのような雄叫びと共に、血に飢えた無数の反乱軍が雪崩れ込んでくる。
震える膝を叩き、ミルクは消えかけた士気を無理矢理に引きずり起こした。両手で握りしめた剣の柄に、ありったけの力を込める。
(負けない……! 私は、ドロステの……!)
――王都の平和な中庭。
ビターが、真剣な眼差しで弓を引き絞る。キリキリと弦が限界まで引き絞られ、澄んだ風の音と共に放たれた一本の矢が、見事、的の『中心』を深々と射抜いた。
――ズドスッ!!
戦場。
突撃しようと踏み出したミルクの薄い腹部を、どこからか飛来した無骨な矢が深々と貫いていた。
「あ、がッ……!」
背中へと抜け出た矢尻から、どくどくと鮮血が噴き出す。ごぼりと口から血の塊を吐き出しながらも、ミルクは倒れなかった。
視界が明滅し、激痛が脳を焼き切ろうとする中、彼女はなおも絶望に抗い、刺さった矢を無視して敵軍へと折れない心で立ち向かおうとする。
――中庭。
ビターが鋭い踏み込みと共に木刀を薙ぎ払い、二つ目のダミー人形の『胴体』を完璧な型で両断する。
――戦場。
先陣を切ってきた敵兵の刃が、ミルクの肩口から胸にかけてを無慈悲に斬り裂いた。
それを皮切りに、凄惨な蹂躙が始まった。
前から、後ろから、横から。
無数の敵兵が群がり、純白だった少女の小さな身体に、次々と狂ったように刃を突き立てていく。
肉を断ち、骨を砕き、内臓を貫く嫌な音が連続する。
剣が、槍が、斧が、何本も何本も、ミルクの全身に深々と刺さっていく。
「…………、……」
すでに、声すら出なかった。
支えを失い、崩れ落ちるはずのミルクの身体は――皮肉なことに、前後左右から彼女を『串刺し』にしている無数の武器の柄によって支えられ、地面に倒れることすら許されなかった。
その双眸からは完全に命の光が失われ、ただ虚ろなガラス玉のように濁りきり、宙を彷徨っている。
「オオオオオッ!!」
「やったぞ! 王国の犬を討ち取ったぞォッ!!」
完全なる勝利の確信。
血だるまになり、ハリネズミのように武器を突き立てられた少女を取り囲み、敵軍は武器を天に掲げて耳をつんざくような歓喜の咆哮を上げた。
(……ああ。うるさい、な……)
薄れゆく意識の底で、虚ろな目をまたたきながら、ミルクはただ漠然とそう思っていた。
痛みは、もうとっくに遠い。熱もない。ただ、自分をなぶり殺しにした者たちが喚き散らす下品な声が、頭の中にガンガンと響いて、ひどく不快だった。
誰も助けに来てはくれない。
姉と語り合った立派な夢も、王都の平和を守るという誓いも、この泥と血に塗れた戦場では何一つの意味を持たなかったのだ。
「せいぎ……な……んか……」
血の泡を吹きながら、掠れきった声が絶望の淵からこぼれ落ちる。
――その、瞬間だった。
ゴォォォォン……ッ!!
鼓動が止まるほどの、異常な重低音が戦場を揺らした。
「……あ?」
敵兵の一人が、間の抜けた声を漏らす。
力なく垂れ下がっていたミルクの血まみれの両手から、突如として、白く発光する『得体の知れない尋常ならざるオーラ』が陽炎のように立ち上り始めたのだ。
それは瞬く間にミルクの全身を包み込み、絶対的な力を孕んだ光の奔流となって渦を巻く。
「な、なんだ!? おい、こいつまだ……ッ!」
バギュゥゥゥゥンッ!!!
空気が爆発したかのような、凄まじい破裂音。
次の瞬間、ミルクの全身に深々と突き刺さっていた無数の剣や槍が、まるで内側から弾け飛ぶかのように、一斉に四方八方へと猛烈な勢いで吹き飛ばされた。
「ぎゃあぁぁぁッ!?」
「ぐはァッ!?」
吹き飛ばされた武器の柄を握っていた敵兵たち、そして彼女を取り囲んでいた数十人の軍勢が、不可視の巨大な衝撃波に巻き込まれ、悲鳴を上げながら木の葉のように宙を舞った。
土煙が晴れた戦場に、ぽっかりとクレーターのような空白地帯が生まれる。
「…………え?」
その中心で。
致命傷を負い、串刺しにされていたはずのミルクは、自らの全身の傷が光と共に塞がっていくのを感じながら……自身の両手を包み込む、その圧倒的で暴力的な力の奔流を、ただ虚ろな目で見つめていた。
自分が死にかけていたことも。
先ほどまで感じていた絶望も。
なぜ敵が吹き飛んだのかも。
ただ一人、理解の及ばない事象の中心で、ミルクは困惑したように小さく首を傾げていた。
その後のことは、ミルク自身もよく覚えていなかった。
ただ漠然と記憶の底にこびりついているのは、自身の身体を貫いていた無数の剣や槍を、まるで抜けかけた棘でも取るかのように、無表情のまま次々と引き抜いていった手の感触だけだ。
致命傷であったはずの傷口は、両手から溢れ出す光のオーラに包まれるたびに、瞬く間に塞がっていった。
どれほどの時間が経ったのか。どれほどの血を浴びたのか。
死の淵から蘇った一人の少女は、押し寄せる無数の敵軍をたった一人で蹂躙し、気づけばその中心で、敵軍の長の首を無造作にぶら下げて立っていた。
数日後。
王都へ帰還する軍勢の中に、ミルクの姿があった。
他の部隊は、満身創痍で生還した者もいれば、大勝利を掲げて凱旋する者もいるなど様々だった。しかし、最前線を任されていた最も重要な部隊――ミルクの所属していた部隊で生きて王都の土を踏んだのは、ただ一人、彼女だけだった。
部隊は全滅。しかし、敵の総大将をいつの間にか討ち取り、戦局を決定的な勝利へと導いたその功績は、あまりにも巨大なものだった。
だが、ミルクが血まみれの帰還を果たした頃、ドロステ王国内はそれどころではない、未曾有の大パニックに陥っていた。
当時の王国を統べていた『セイレーン女王』。
彼女の全身に宿り、民を統率し、国を絶対的な平和へと導く象徴であった『神の権力(正義の力)』が、突如として完全に消失してしまったのだ。
正義の権力を失うということは、すなわち王国の屋台骨が崩れ去ることを意味する。指導者のカリスマが失われた王城は、終わりの見えない混乱の渦に飲み込まれていた。
そんな中。
ミルクは、自身の両手に宿った得体の知れない白いオーラを見つめ、ひどく掠れた声でポツリとこぼした。
「……これと似たようなものなら、私が持っていますけど」
その一言と、彼女の両手から放たれる圧倒的な光を見た瞬間。
王城の空気は一変した。
ミルクが戦場で覚醒させた謎の力、それこそが、セイレーン女王から失われた『正義の権力』そのものだったのだ。
神の力が、一介の新人騎士へと譲渡された。
その事実に気づいた人々は、たちまちミルクを取り囲み、口々に様々な言葉を投げかけた。
「おお……! 神の権力は気まぐれで自分勝手だと聞く。こればかりは、神の思し召しなのだから致し方ないことだ!」
「だが、なぜあんな子供に……? まだ戦場に出たばかりの小娘ではないか」
「それに、セイレーン女王様はあの力を『全身』に宿しておられた。だが、あの少女は『両手』だけにしか力が宿っていないぞ。不完全なのではないか?」
畏怖、歓喜、嫉妬、そして疑念。
無数の視線と声がミルクに突き刺さる。だが、心の大半を戦場に置いてきてしまった彼女にとって、それは酷く遠い世界の出来事のようにしか感じられなかった。
――そして、その日を境に。
その後のことは、ミルクにとっては思いもしない、望んでもない『大出世ロード』の連続だった。
彼女は英雄として祭り上げられ、有無を言わさず部隊の『隊長』へと任命された。
かつて両親から教えられた「人々を守る優しい騎士」という教育方針とは全く違う、敵を徹底的に殲滅するための軍略や指導者としての立ち振る舞いが、無理矢理に彼女へと叩き込まれていった。
一方、王城の中枢でも劇的な政変が起きていた。
力を失ったセイレーン女王は、最初こそ玉座にしがみついていたものの、やがて突如として現れた一人の女――エノクによって、その座を完全に追放されたのだ。
エノクは『神の権力』とは全く異なる、底知れぬ恐ろしい力を持って現れた。彼女が新たな女王として君臨してからは、圧倒的な統制が敷かれ、国は皮肉なほどに「安泰」となった。
しかし、エノクは玉座から動くことはなく、戦場に赴くことは滅多になかった。
その結果、反乱軍や外敵の排除といった血の伴う『大掃除』はすべて聖騎士団に丸投げされることとなり、現場の負担は以前とは比べ物にならないほどに激増した。
終わりなき戦い。増え続ける血と死体。
その最前線に立ち続け、あらゆる理不尽をその両手の権力で叩き潰し続けた少女は――やがて、全軍を統べる『総隊長』へと任命された。
ミルク・アルカイデ。
まだ聖騎士団に入隊して、わずか2年。年齢は、たったの17歳だった。
総隊長となった彼女が戦場に立つ姿は、異様でありながら、絶対的な希望そのものだった。
彼女の手には、剣も槍も握られてはいない。
代わりに握りしめているのは、ドロステ王国のシンボルが大きく描かれた、巨大な『一本の旗』だった。
刃のついていないただの布と棒。しかし、ミルクが両手に宿る『正義の権力』のオーラをその旗の棒に纏わせると、それは鋼をも打ち砕く無敵の棍へと変貌した。
彼女は、その巨大な旗の棒を棍術のように豪快に振り回し、暴風のごとく敵陣をなぎ倒していくのだ。
彼女がなぜ、剣を捨て、旗を武器に選んだのか。
ひとつの理由として、あの日、剣や槍を無数に刺され、刃物にトラウマを持ってるという理由と。
彼女の心がいまだに『あの日の最初の戦場』に縛られていたからだ。
(あの日……誰も導く者がいなかったから、みんな泥の中で死んでいった)
自分が無力だったから、仲間は散った。
そして自分が、意図せずとも女王から『正義の権力』を奪ってしまったせいで、王城は混乱に陥り、今の過酷な戦況が生まれたのだと、彼女は自分自身に強烈な呪いをかけていた。
だからこそ。
二度と、仲間を迷わせない。二度と、誰の背中も泥に倒れさせない。
自分が奪ってしまったこの力は、誰よりも前で、誰よりも高く掲げて使い切らなければならない絶対の義務なのだと、その重圧をバネにして己を奮い立たせていた。
「怯むなッ!! ドロステの誇り高き騎士たちよ!!」
戦場のド真ん中。
土煙と鮮血が舞う中、ミルクの澄んだ、しかし腹の底から響くような声が戦場全体を震わせた。
彼女の瞳は、決して虚ろになど冷え切ってはいなかった。むしろ、自らの命を薪にくべるような、悲壮なほどの熱気と強い光を放っていた。
「私の背中から、決して目を逸らすな! この旗がはためく限り、我らに敗北はあり得ない!!」
ミルクが巨大な王国の旗を棍のように振り抜き、迫り来る敵兵の群れを衝撃波で豪快に吹き飛ばす。
大きくはためく純白の旗が、絶望に沈みかけていた騎士たちの目に、どれほど眩しく映ったことか。
「我に続けェッ!! この両手の権力は、決して折れぬ正義の象徴なり!!」
「「「オオオオオオオオオオッ!!」」」
総隊長の一声で、全軍の士気が爆発的に跳ね上がる。
恐怖にすくんでいた騎士たちが、死にかけの老兵が、若き新兵が、一斉に涙を流しながら武器を掲げ、少女の掲げる旗の元へと熱狂の渦となって突撃していく。
圧倒的なカリスマ。全軍を熱狂させる嵐のような統率力。
それは、17歳の少女が背負うにはあまりにも過酷で重すぎる呪いの産物だった。しかし、その身を削るような熱気こそが、皮肉にも前の聖騎士団の頃よりも一層に力を増し、王国を完全なる勝利へと導く『無敵の正義』となっていたのである。
ミルクが総隊長に就任してからの数年間は、ドロステ聖騎士団にとって、まさに黄金期とも呼べる輝かしい時代だった。
17歳という若き総隊長が背負う重圧は計り知れないものだったが、彼女の掲げる無敵の旗のもとで、聖騎士団はかつてないほどの成長を遂げた。兵たちの士気は常に天を衝き、その戦闘力と統率力は、世界中を見渡しても一、二を争うほどの強大な軍事力へと発展したのだ。
『今のドロステ聖騎士団が一つになれば、他国を容易く圧倒し、世界を支配することすら可能だろう』
他国からそう恐れられるほど、ミルク・アルカイデという一人の少女が放つカリスマは、絶対的な『正義の象徴』として君臨していた。
――しかし。
光が強ければ強いほど、その足元に落ちる影は濃く、そしてどす黒く歪んでいく。
無敵を誇ったはずのミルクが、突如として総隊長の座から降りることになる決定的な『要因』となる事件が起こったのだ。
それは、王都の境界で起こった大規模な防衛戦だった。
反乱軍による想定外の奇襲に対し、ミルクは三日三晩、文字通り不眠不休で最前線に立ち続け、自らの限界を超えて『正義の権力』を振るい続けた。結果として王都の中枢は守り抜かれ、人的被害も奇跡的に最小限に抑えられた。
だが、戦闘の余波で王都の「外縁部」の居住区が一部焼け落ちてしまったのだ。
その直後だった。彼女の心にトドメを刺したのは、敵の刃などではない。
彼女が血反吐を吐いて守り抜いたはずの、市民たちからの『評判』だった。
『神の力を持っているくせに、なぜ俺たちの家を守れなかったんだ!』
『聖騎士団の命ばかり優先して、市民の財産を見捨てたに違いない!』
『所詮は子供だ。前のセイレーン女王様なら、家屋の一つも燃やさずに完璧に国を守ってくださったはずだ!』
安全な場所に隠れていた外野からの、心ない罵声。そして際限なく膨れ上がる市民たちの「神の権力」への過剰な期待。
百を救っても、一つを取りこぼせば『悪』と糾弾される。どれだけ泥にまみれて戦っても、彼らにとってミルクは「自分たちのために完璧に働く都合の良い神様」でしかなくなっていたのだ。
その身勝手な期待と理不尽な文句の嵐に……ついに、少女の張り詰めていた糸は、プツリと音を立てて切れてしまった。
*
その忌まわしい事件の直後。
猛特訓の末、念願叶ってついに聖騎士団への入団を果たした姉のビターは、正式な配属の報告をするため、総隊長室を訪れた。
「ミルク! 私よ、ようやくお前の背中に追いついたわ。これからは姉妹で共に……!」
喜びに満ちた笑顔で扉を開けたビターは、しかし、室内の光景に言葉を失い、凍りついた。
そこには、戦場で勇ましく旗を振っていた英雄の姿はなかった。
薄暗い執務室の椅子に丸くなるようにして座っていたのは、信じられないほど痩せこけ、頬がこけ、目の下に濃い隈を作った、ひどくやつれた一人の少女だった。
あのキラキラと輝いていた双眸は、光の届かない深海のように濁りきっている。
「……お姉、ちゃん……」
ミルクの唇が、幽鬼のように微かに動いた。
「……聖騎士団を……もう、辞めたいの」
「な……、なんで!? どうしてそんなことを言うの!」
ビターは慌てて妹に駆け寄り、その細すぎる肩を掴んだ。
「お前はドロステの希望でしょう!? みんなを導く総隊長じゃない! あんな市民の心ない言葉なんて気にする必要ないわ。お前は立派に国を守ったのよ!?」
必死に叫ぶビターに対し、ミルクは虚ろな目を向けたまま、自嘲するように、壊れたように力なく笑った。
「正義って……何なのかな、お姉ちゃん」
「え……?」
「みんなを助けたくて、剣を振ってきた。……でも、みんなが求めているのは、私じゃない。『私の両手にある都合の良い力』だけ。少しでも間違えれば、少しでも疲れて立ち止まれば、彼らはすぐに石を投げてくる」
「.......私ね、正義なんて、本当はもうとっくに捨ててるの......」
ミルクの目から、ポロポロと、枯れ果てたはずの涙が零れ落ちた。
「お父さんみたいになりたかった……でも、もう無理だよ、私の心は、もう……みんなの『正義』に、食べられちゃった……」
士気を無くし、とうに正義を捨てたミルク、しかし皮肉な事に未だに神は彼女を見離すことがなく、未だにミルクの両手は神の権力で満ち溢れていた。
「要らない......こんな力......要らない......要らない......っ」
「ミルク……」
ビターは、何も言えなかった。
天才だと、遥か高みにいると信じていた妹の心は、すでにドロドロに溶けて、原型を留めないほどに崩壊していたのだ。
ミルクは震える冷たい手で、ビターの純白の軍服の袖を弱々しく握りしめた。
「……お姉ちゃん……私みたいには、ならないでね」
それが、姉妹として言葉を交わした、最後の日だった。
*
それから数日して、王都に激震が走った。
絶対的総隊長であるミルク・アルカイデが、突如として『失踪』したのだ。
捜索隊が裏都市へと続く廃棄区画で発見したのは、真っ二つにへし折られたあの巨大な『王国の旗』と……泥まみれになり、無惨にぐしゃぐしゃに踏み潰された、歴代の総隊長に授けられる『軍帽』だけだった。
凄惨な争いの痕跡すらなく、ただそれだけが残されていた。一部の現場の騎士たちの間では「市民の暴徒に暗殺されたのではないか」「他国に拉致されて死んだのではないか」と、絶望的な噂が飛び交った。
カリスマを失った聖騎士団は、再び混乱の渦に叩き落とされることとなる。
――そして。
誰よりも妹に憧れ、誰よりも妹の背中を追い続けてきたビターは。
妹の遺品である、泥だらけの軍帽をその手に拾い上げ……声も出さずに、ただ深く、深く項垂れた。
(……だから言ったのだ。心など持つから、理想など抱くから、愚かな弱者どもに喰い殺されるのだと)
妹を壊したのは、敵ではない。守るべき人間たちの弱さと身勝手さだ。
ならば。
もう誰も、何も信じない。
ビターは泥まみれの軍帽を強く握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、人間らしい感情が、妹への温かい愛情が、完全に削ぎ落とされていく。
(私が……私が、完璧にならなければならない。誰も文句を言えない、決して揺るがない、心を持たない絶対的な『正義』に)
悲劇の天才の妹に代わり、凡人である姉が這い上がる。
それこそが、冷酷無比な第1番隊総隊長『ビター・アルカイデ』が誕生した、呪われた瞬間の出来事だった。




