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19話 私は心を殺すのですのよ

「そのためには……ド・ガンを、奪われた裏都市の人々を、必ず助け出さないとな」

「……ああ、もちろんだ!」

 私とリドが力強く頷き合い、明日の決戦に向けた静かな闘志を燃やしていた、その時だった。

「あ!リド!アザゼルちゃん!」

 パタパタと軽い足音を立てながら、紫色の髪の髪を揺らして、マリィが私たちの元へ駆け寄ってきた。

 彼女は満面の笑みを浮かべながら、私とリドの間にちょこんと入り込むと、小さな両手で私の手とリドの手をそれぞれギュッと握り、ぐいぐいと引っ張った。

「むずかしいお話はもうおしまい?あっちでね、おじちゃんたちが焚き火の周りで、裏都市に伝わるお歌を歌ってくれるんだって!だから、二人も一緒に来よう?機械のお兄ちゃんも、手拍子して待ってるよ!」

 泥だらけの顔を輝かせ、無邪気に私たちを引っ張るマリィ。

 その温かくて小さな手のひらに引かれ、リドは先ほどまでの険しい顔を嘘のように解き、吹き出すように笑い声を上げた。

「ははっ、そうだな。明日の大仕事の前に、今は少しでも笑っとかねぇとな!」

 リドはマリィの手を優しく引き寄せると、「よっと!」という掛け声と共に、その小さな身体をふわりと軽々と抱き上げた。

 そしてそのまま、ヒョイと自分の肩の上に乗せ、肩車を作った。

「わぁっ!たかいたかーい!」

 突然視界が高くなったマリィは、目を丸くして歓声を上げた。

 リドの肩という特等席に座った彼女は、嬉しそうに足をバタバタと揺らし、バランスを取るようにリドのくせっ毛をポムポムと叩く。

「へへー、マリィすっごくおっきくなったよ! アザゼルちゃんよりもおっきい!」

「おいおい、髪の毛引っ張るなよ、マリィ。振り落とされないようにしっかり捕まってろよ!」

「うんっ!リド、お馬さんみたい!進めー!」

 マリィが短い腕をぴんと前方に突き出して号令をかけると、リドは「はいはい、お馬さんが通りますよっと」と苦笑いしながら、わざと大きく足踏みをして避難所の中心へと歩き出した。

 その二人の背中を見つめながら、私は呆れたように短く息を吐いた。

 薄暗く、じめじめとした地下の貯水池跡。明日には死ぬかもしれないという極限状況の中で、あんな風に心から笑い合えるなんて、本当に人間という生き物は度し難く、理解に苦しむ。

 だが。

 不思議なことに、私の口元もまた、微かに綻んでいた。

「……神の眷属を差し置いて、随分と偉くなったものだ」

 私はポツリと呟き、大人しくマリィに手を引かれるまま、焚き火の明かりが揺れる輪の中へと歩みを進めた。

 遠くからは、ザントの「お、主役のお出ましだぜ!」という能天気な声と、避難民たちの温かい手拍子が聞こえてくる。

 この泥とサビにまみれた、不格好で温かい光。

 私がかつて居た、完璧で無機質な白亜の天界には決して存在しなかった、命の輝き。

(……明日、あの女王に教えてやろう)

 私は焚き火の光に照らされるマリィの笑顔を見上げながら、胸の奥で静かに誓った。

 この泥臭い命の強さこそが、貴様の完璧な楽園を食い破るのだと。


***


「紫色の髪の毛の少女を……殺せと?」

 張り詰めた静寂が支配する純白の玉座の間で、聖騎士団総隊長ビターの声が微かに震えた。

 彼女は冷たい大理石の床に片膝をつき、深く頭を垂れたまま、信じられないものを見るような目で玉座を見上げていた。

「そうです」

 女王エノクは、豪華な装飾が施された玉座にゆったりと腰掛け、手元のティーカップを優雅に傾けながら淡々と答えた。その鈴を転がすような美しい声には、一切の感情の揺らぎも、躊躇いもない。

 ビターは唇を強く噛み締めた。白磁のバイオリンを抱える手に、ギリッと力がこもる。

「……お言葉ですが」

 ビターは、絞り出すような声で抗議を口にした。

「あの者たちの中にいる紫色の髪の毛の少女は、まだほんの幼い子供です。そのような力のない子供を、まず最優先で、真っ先に手にかけるなどとは……我ら聖騎士団が掲げる『騎士道精神』に反するものになります」

 ビターの瞳に、強い葛藤が浮かぶ。

 完璧な正義を体現しなければならないという彼女の強迫観念の中にあっても、無抵抗な幼児を率先して殺戮するなどという行為は、一線を越えていた。

「いくらエノク様の命令となっても……。罪なき弱者を、それも子供を真っ先に標的とするような作戦は……承諾は出来ません」

 ビターが明確な拒絶を示した瞬間、エノクはカップをソーサーに静かに置くと、氷のように冷たく、昏い視線をビターへと下ろした。

「ビターあなたは一つ、大きな勘違いをしていますよ」

 エノクの艶やかな唇が、残酷な弧を描く。

「これは『戦争』ではありません。単なる『浄化』なのです」

「……浄化、ですか」

「ええ。あなたは自室の掃除をする時に、どのゴミを先に片付けるか、どれを残すかなどといちいち考えますか? ゴミを憐れみ、ゴミに情けをかけますか?」

 ビターは息を呑んだ。

 エノクの目には、裏都市の人間が同じ命を持つ者としてすら映っていない。ただの、取り除くべき汚水か塵の類なのだ。

「第一」と、エノクは長い足を組み替えながら続けた。

「裏都市の人間どもは、許されざる大罪を犯しました。あの薄汚いネズミどもは、王城の地下水脈に猛毒を流し込み、私の愛しの国民たちを皆殺しにしようとしたのですよ?そんな恐ろしい企てをする外道に情けをかけること……それこそが、あなたの守るべき『騎士道精神』に反するものなのではなくて?」

「しかし……ッ!」

 ビターは思わず顔を上げ、激しく反論した。

「あの幼い少女が、毒殺計画に関与していたとは到底思えません!仮に大人たちが罪を犯していたとしても、その罪を何も知らない子供にまで背負わせるなど――」

「ビター」

 エノクの声が、一段と低く、そして重く響いた。

 その絶対的な権力と狂気を孕んだ威圧感に、ビターは金縛りに遭ったように言葉を失う。

「そもそも、あそこには天界より落ちし『堕天使』がいます」

 エノクは冷酷な事実を突きつけるように、冷ややかに言葉を紡いだ。

「この世界の絶対的なルールとして、神に見捨てられた堕天使は、発見次第即座に抹殺するか、奴らの持つ神の頭脳と長き寿命を利用し、永遠の奴隷として飼い殺すか。その二つに一つしかありません。これは我がドロステ王国だけのルールではない。他の国々も従っている、この世界、この世の中の絶対の理なのです」

 エノクは立ち上がり、玉座の階段をゆっくりと下りて、跪くビターの目の前まで歩み寄った。

「その世界の理に背き、忌まわしき堕天使を匿い、あろうことか協力してこの国に反逆するなど……。それこそ、最底辺の極みでございましょう」

 エノクはビターの顎を扇子でそっと持ち上げ、彼女の揺れ動く瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。

「あそこにいる者たちは全員、一つの例外もなく、世界を脅かす『害悪』です。……私の完璧な聖騎士団の総隊長であるあなたが、まさかその害悪を庇うとは言いませんね?」

 逃げ場のない、完璧な狂気の論理。

 ビターは、エノクの冷酷な瞳の前に、ただ深く、深く頭を垂れることしかできなかった。

「……あの紫髪の少女は、突如として裏都市に現れました」

 エノクはビターの顎から扇子を離し、再びゆっくりと玉座への階段を上り始めた。

 その背中から放たれるのは、一切の温もりを持たない、底知れぬ冷酷な悪意だった。

「あの少女が現れたせいで、長きにわたり憂鬱で晦冥だった裏都市のネズミどもは、不必要な活気を取り戻してしまった。……少女はあの裏都市のムードメーカー、いわば、ゴミ溜めの中で無自覚に光る『希望の象徴』。それなのです」

 玉座に腰を下ろしたエノクは、扇子をパチンと閉じ、その先端で虚空を指し示した。

「だからこそ、です。あの少女をまず見せしめとして惨殺すれば、あの下劣な集団は即座に士気を下げ、絶望に打ちひしがれるでしょう。希望が潰える瞬間こそが、最も彼らの心をへし折るのです。さすれば、我らの浄化作戦は無駄な血を流すこともなく、成功したも同然」

 エノクは妖艶に微笑み、うっとりとした表情で目を細めた。

「もっとも。……無駄に足掻き、無駄に士気のあるゴミは、いずれは我が国に牙を剥く病巣となります。早急に摘み取り、完全に焼き払わなければならないのですがね」

「……お待ちください、エノク様!」

 ビターは、たまらず大理石の床に額が擦れるほど深く平伏しながら、悲痛な声で叫んだ。

「戦術としてそれが有効であることは理解できます。しかし……希望をへし折るためだけに無垢な子供を真っ先に惨殺するなど、それはただの恐怖政治、悪逆非道な振る舞いです!我々は誇り高き聖騎士団。王都の民を守護する剣と盾であり、決して快楽的に弱者をいたぶる死神ではありません!どうか、どうかその御命令だけは――」

「ビター」

 その声は、決して大きくはなかった。

 だが、謁見の間の空気が一瞬にして凍りつき、重力が何倍にも跳ね上がったかのような、絶対的な威圧感が空間を支配した。

「……ッ」

 ビターは喉の奥が引き攣り、言葉を強制的に断ち切られた。

 見上げると、エノクの美しい顔から一切の笑みが消え失せていた。

 張り詰めた氷の彫刻のような、冷酷で狂信的な怒りだけが、その瞳の奥で赤黒く燃え上がっている。

「この期に及んで……まだ、私の計画に納得しないと?」

 カツン、と。

 エノクのヒールの先が大理石を叩く音が、死の宣告のように響き渡った。

「あなたは何を守るために、その白い軍服を着ているのですか。この国は『正義の国』。王都の地下水脈に毒を流し込むという大罪を企てた下劣な人々を徹底的に裁き、我が愛しき国民の安寧を守り抜くことこそが……それこそが、我らの絶対的な『正義』なのではないのですか!?」

 女王の怒声が、雷鳴のように玉座の間に轟いた。

 それは、いかなる反論も許さない、狂気に満ちた神の託宣そのものだった。

「ビター!!!」

 自分の名を鋭く呼ばれ、ビターの肩が大きく跳ねた。

 純白の部屋の中で、完璧な正義を体現すべき総隊長の魂が、女王の放つ圧倒的な狂気と冷徹な論理の前に、じわじわと侵食されていく。

「私は……前任のミルクのような……強大な神の威光は……全軍を導く正義マーチの権力は、持ち合わせていません……」

 ビターの声は、絞り出すような、ひどく掠れたものだった。

 狂気に満ちた女王の威圧感に押し潰されそうになりながら、彼女は己の胸の奥底にある最も惨めな劣等感を吐露した。

 天才であった妹のように、己の存在だけで兵を熱狂させ、敵を絶望させるような圧倒的な『力』が自分にはない。だからこそ、せめて騎士としての規律と誇りだけは守りたかったのだと。

 だが、エノクはその痛切な告白を、ふっと鼻で笑い飛ばした。

「――それがどうしたと言うのですか、ビター」

 エノクは冷たく言い放つと、玉座の脇に置かれていた豪奢な細工の施された長箱へ歩み寄り、その蓋をゆっくりと開けた。

 そして、中から『あるもの』を取り出し、再び大理石の床に平伏するビターの目の前へと悠然と近づいてくる。

「顔を上げなさい」

 促されるままにビターが顔を上げると、彼女の目の前には、眩いほどの冷たい輝きを放つ武器が突きつけられていた。

 それは、透き通るような白銀の金属で打たれた、豪奢で巨大な『銀の弓矢』だった。

 弦には極細の特殊な鋼線が張られており、弓の本体には天界の文字とおぼしき緻密なルーンがびっしりと刻み込まれている。ただそこにあるだけで、空気がピンと張り詰めるような、尋常ではない魔力と冷気を放っていた。

「エノク様……これは……」

「遥か昔、天界の神より直接授かりし伝説の武器。……いかなる不浄をも貫き、世界を純白に染め上げる『正義の象徴』です」

 エノクは銀の弓矢を愛おしそうに撫でながら、妖艶に微笑んだ。

「この弓が放つ矢は、標的を追尾し、決して逃すことはありません。白磁のバイオリンを奏で、不可視の飛剣の雨を降らせるあなたには、これ以上なくピッタリの武器でしょう?」

「…………ッ」

 ビターは息を呑み、目の前に差し出された銀の弓矢をじっと見つめた。

 神の威光そのものである伝説の武器。これを与えられるということは、すなわち、女王の狂信的な『正義』を一点の曇りもなく執行する完全な傀儡になれという、逃れられない勅命だった。

 これを受け取れば、もう二度と「無力な子供を殺すのは騎士道に反する」などという甘い言葉を吐くことは許されない。

 重く、苦しい沈黙が、謁見の間に降り積もる。

 ビターの脳裏に、天真爛漫だった妹ミルクの背中と、裏都市で笑い合う無垢な子供の姿が交錯し――やがて、そのすべてが氷のように冷たい『完璧への執着』によって塗り潰されていった。

 凡人である自分が、天才の妹を超えるためには。

 この完璧な正義の国で、自身の存在価値を証明するためには。

 ……もう、後戻りなどできないのだ。

「……分かりました、エノク様」

 ビターの瞳から、人間らしい迷いや葛藤の色が、すっと抜け落ちた。

 彼女はゆっくりと立ち上がると、震えを帯びていた両手を伸ばし、エノクの手からその重く冷たい『銀の弓矢』を恭しく受け取った。

 弦が微かに鳴り、ビターの純白の軍服に、弓の放つ鋭い銀光が反射する。

 彼女は銀の弓矢を胸に抱き、再び深く、忠誠の礼をとった。

「私……第1番隊総隊長、ビター・アルカイデは。この完全なる正義の国の為……」

 その声には、もはや一切の迷いはなかった。

 ただ、凍てつくような冷酷な決意だけが、純白の空間に静かに響き渡った。

「明日の聖誕祭。裏都市のネズミどもと、あの紫髪の少女を……神の御名において、完璧に『浄化』してご覧に入れます」

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