18話 裏都市の少女マリィ
「ほらアザゼルちゃん、こっち!みんなのところに行こう!」
私が最後の一口を飲み干すや否や、マリィは空になったお椀を受け取り、もう片方の小さな手で私のボロ布の袖をぐいっと引っ張った。
「おい、待て。私はここで見張りを……引っ張るな、転ぶだろうが」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ!アザゼルちゃんも、火の近くでちゃんと休まないとダメなんだから!」
普段なら下等な人間に触れられることすら嫌悪するはずなのに、その小さな手のひらから伝わる強引で無邪気な温もりに、私はなぜか振り払うことができなかった。
渋々といった体で、私はマリィに手を引かれるまま、避難所の奥――人々が身を寄せ合う中心部へと足を踏み入れた。
薄暗い地下の貯水池跡地には、あちこちにドラム缶の焚き火や旧式のランタンが灯され、オレンジ色の柔らかな光が泥と煤にまみれた空間を照らしていた。
「あ、マリィちゃん!こっちにおいで」
「さっきはスープのお手伝い、ありがとうな。おじさん、すごく助かったよ」
「怪我はないかい?ほら、おばちゃんのところで少し火に当たりな」
私に引っ張られて明かりの中へ入っていくなり、マリィはすぐに避難民の大人たちに取り囲まれた。
疲れ切って絶望の色を隠せない大人たちにとって、マリィのような幼い子供が元気に動き回る姿は、明日への希望そのものなのだ。屈強な男たちも、傷ついた女性たちも、皆が一様に目尻を下げてマリィの頭を撫で、煤けた頬を優しく指で拭ってやっている。
マリィもまた「えへへ、マリィはへっちゃらだよ!」と笑い、大人たちの間に小さな花を咲かせるように愛嬌を振りまいていた。
「…………」
私はその温かい人の輪に加わることはせず、少し離れた瓦礫の山に腰を下ろし、腕を組んでその光景を静かに眺めていた。
天界の美しく完璧な白亜の宮殿では、こんな泥臭い光景は絶対にあり得なかった。あそこにあるのは、規律と冷たい調和だけだ。
だが、家を焼かれ、仲間を奪われ、文字通り地の底へと追いやられたこの人間たちは、絶望の淵に立たされてなお、こうして寄り添い合い、小さな子供の笑顔一つで救われたような顔をしている。
愚かで、弱くて、脆い生き物。
それなのに、なぜだろうか。私の目に映る彼らの姿は、上層の白亜の街で張り付いたような笑顔を浮かべていた人間たちよりも、ずっと『生きている』ように見えた。
「――お前も、輪に入ってくりゃいいのに」
ふと、横から声がした。
視線を向けると、先ほどまで避難民たちと作戦を練っていたリドが、首から下げたゴーグルを指で弾きながら歩み寄ってくるところだった。
彼の手は地下道を示す図面を書くためのチョークの粉で真っ白になっており、顔にもいくらか疲労が滲んでいる。
リドは私の隣にある瓦礫に「どっこいしょ」と腰を下ろし、大きく伸びをした後、同じように遠くで大人たちに囲まれて笑うマリィの姿に目をやった。
「マリィ……あいつはな、昔、俺が上層から落ちてきたスクラップのゴミ捨て場で見つけたんだ」
リドは、焚き火の明かりに照らされて笑うマリィの姿から目を離さないまま、ぽつりと静かに語り始めた。
その横顔には、普段の軽口を叩く盗賊の顔ではなく、一人の不器用な兄のような、あるいは父親のような柔らかさが滲んでいた。
「王都から捨てられた廃棄物の山を漁るのは、俺たち裏都市の底辺の日常だった。あの日も酷い酸性雨が降ってて、俺は金になりそうなガラクタを探してゴミ山を掘り返してた。……そしたら、サビだらけのトタンの陰に、ボロ布に包まった小さな塊が転がってたんだ」
リドは自嘲するように、チョークの粉で真っ白になった手をズボンで拭った。
「息も絶え絶えで、ガリガリに痩せ細ったガキだった。最初は死体かと思ったが、微かに動いてやがった。……正直な話、最初はな、見て見ぬふりをするつもりだったんだ。人が一人増えるってことは、それだけ俺たちの少ない食いぶちが減るってことだ。今日を生き延びるのも必死な泥水生活で、何も生み出せない食べ盛りの子供を拾うなんて、自殺行為以外の何物でもなかったからな」
彼は深く息を吐き出し、地下の冷たい空気を肺に満たした。
「俺は背を向けて、そのまま歩き出そうとした。裏都市じゃ、他人の不幸に首を突っ込めば自分が死ぬ。それが当たり前のルールだった。……けどな」
リドは少しだけ顔を伏せ、当時の光景を思い出すように目を細めた。
「背中を向けた俺のコートの裾を、あいつが力のない手でギュッと掴んだんだ。俺は『泣きついてきても無駄だぞ』って怒鳴りつけてやろうと思って振り返った。……でも、マリィは泣いてなかった」
「泣いていなかった……?」
「ああ。恐怖も、絶望もない、ただまっすぐな目で俺を見てた。そして……あいつ、震える手で、自分のボロ服のポケットから何かを取り出して、俺に差し出したんだ」
リドの声が、微かに震えた。
「それは、カチカチに硬くなった、半分カビの生えた黒パンの欠片だった。ゴミ山で見つけて、自分が生き延びるために大事に取っておいたはずの、最後の食い物だ。……あいつはそれを俺に突き出して、笑ったんだよ。『お兄ちゃんも、お腹すいてるの?これ、半分あげる』ってな」
私は言葉を失った。
極限の飢餓状態にありながら、見ず知らずの他人に自分の最後の命綱を差し出す。人間の、それもあんな小さな子供が、そんな自己犠牲の精神を持てるはずがない。それは天界の理からしても、生存本能という絶対のルールから完全に逸脱している。
「馬鹿だろう?あんなゴミ溜めの中で、自分が死にかけてるのに他人の心配をするなんて。……でも、そのカビたパンの欠片を見た瞬間、俺の中で張り詰めてた何かが、ポキッと折れちまったんだ」
リドは照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。
「俺はあいつを抱き上げて、ド・ガンのオッサンの工房に転がり込んだ。オッサンも最初は『正気か!?』って怒ってたけど、マリィの顔を見た途端、涙ぐんでスープを温め始めやがった。……それからだ。俺とオッサン、それにマリィの三人で、なんちゃって家族みたいな生活が始まったのは」
リドは再び顔を上げ、避難民のおばさんから木の実をもらって大喜びしているマリィを見つめた。
「俺たちは、泥をすすって、嘘をついて、盗みをして生きてきた。手が汚れてることは百も承知だ。でも、マリィだけは違う。あいつは、この薄汚れた泥とサビの街で俺たちが見つけた、たった一つの『綺麗なもの』なんだ。あいつが笑ってくれるなら、俺はどんな汚い仕事だってできるし、どんな悪党にだってなってやる」
リドは私の方へ顔を向け、真っ直ぐな瞳で言った。
「だから……明日の聖誕祭。エノクの野郎をぶっ飛ばして、あの狂った女王の支配からこの街を、マリィの明日を取り戻す……だから、力を貸してくれ、アザゼル」
それは、打算でも利用でもない。
一人の人間としての、切実で純粋な願いだった。
私は、彼の強い覚悟が宿った目を見返し――無言のまま、ゆっくりと一度だけ、深く頷いた。
リドの強い覚悟が宿った瞳を見返し、私はゆっくりと一度だけ深く頷いた後、ふっと静かに息を吐き出した。
「ふむ……貴様のその選択、非効率で、哀憐な……」
私が静かにそう呟くと、リドの肩がピクリと動き、その表情に微かな落胆の色が走った。
私が彼の語った人間特有の脆い感情や自己犠牲を、いつものように『下等な生き物の愚かな感傷』として嘲笑したのだと受け取ったのだろう。彼は反論することなく、ただ自嘲するように視線を落とそうとした。
だが、私はその言葉の続きを、冷たい地下の空気に溶かすように紡いだ。
「――初めて出会った時の言葉、撤回しよう」
その響きに、リドはハッとして顔を上げた。
煤で汚れた彼の顔に、純粋な驚きと困惑が浮かんでいる。
「撤回……?お前、何を……」
「言葉通りの意味だ」
私は組んでいた腕を解き、真っ直ぐにリドの瞳を見据えた。
かつてのように見下ろすような視線ではない。同じ泥の上に立ち、同じ明日を睨みつける者としての、対等な視線で。
「初めて出会った時、私は貴様らを利用すると言った……それを撤回すると言ったのだ」
「アザゼル……」
「これからは、貴様らが私を存分に利用するといい」
私がはっきりとそう告げると、リドは息を呑んだ。
私はボロ布のコートを翻し、わずかに胸を張った。翼を奪われ、薄汚れた布を纏っていようとも、その誇りだけは神の眷属だったあの頃と何一つ変わらない。
「私も、貴様らのその期待に必ずや応えてみせよう。……今の私に残された魔力は微力だ、今あるこの小指の先から放つ豊穣の力も、かつてのように、一振りで軍勢を消し飛ばすような絶対的な力はない。だが――」
私は自分のこめかみを、トン、と指先で叩いた。
「幾千の年月を天界で過ごし、無数の戦場を俯瞰してきた『戦いにおいての頭脳』はそのまま残っている。あの単細胞な鉄屑の馬力や、貴様の盗賊としての機動力だけでは、隊長格が揃い踏みする明日の聖騎士団の本隊は突破できない。だからこそ、私が貴様らに、神の眷属たる『争いの知恵』を与えるとしよう」
完璧な神の箱庭では、弱者を守るという非効率な戦術は存在しなかった。
だが、今の私には、この泥臭い人間たちの生き様が、決して弱さだとは思えなくなっていた。だからこそ、私の持つ全ての知識と戦略を、この人間たちのために使い尽くしてやろうと決めたのだ。
リドは驚いたように目を丸くしていたが、やがてその口元からフッと息が漏れ、泣き笑いのような、心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「……ああ。頼りにしてるぜ、俺たちの『天使様』」
「フン、調子に乗るな」
私は照れ隠しにふいっと顔を背け、避難所の奥――燃え盛る裏都市から逃げてきた人々が身を寄せ合う、そのさらに向こうの暗闇を睨みつけた。
「そのためには……」
声のトーンを一段階落とし、私は静かに、だが確かな決意を込めて言った。
「ド・ガンを、奪われた裏都市の人々を、必ず助け出さないとな」
「……ああ、もちろんだ!」
リドが力強く頷き、パンッと勢いよく自分の両頬を叩いて気合を入れ直した。
奪われた者たちを取り戻し、狂った女王の支配を終わらせる。
そして、私は私自身の居場所を取り戻すために天界への塔を昇る。
目的は違えど、私たちの進むべき道は完全に一つに重なっていた。決戦の地、王都の広場『ドロステ城』へと続く、長く険しい道へと。




