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17話 空に帰らなくていいマリィ達の天使ちゃん

王都の地下水路のさらに奥深く。


 ザントに連れられて迷路のような旧区画を歩いていた私たちは、ふと、湿った風に乗って微かな『声』が聞こえてくるのに気がついた。

 最初は水音の反響かと思ったが、違う。複数人の、低く押し殺したような話し声や、子供の泣き声だった。

「……おい、誰かいるぞ」

 リドがナイフの柄に手をかけ、鋭く目を細める。

 警戒しながら暗いトンネルの角を曲がると、そこには開けた巨大な地下貯水池の跡地があった。

 そして、驚くべき光景が広がっていた。

「……お前ら、生きてたのか」

 リドが呆然と呟く。

 そこには、王都の聖騎士団による『浄化作戦』から奇跡的に逃れ、命からがら避難してきた裏都市の住人たちが、数百人規模で身を寄せ合っていたのだ。

 ボロボロになった服、煤にまみれた顔、包帯を巻いた怪我人たち。彼らは崩れかけた鉄骨やトタン屋根をかき集めて仮設のテントを張り、わずかな明かりを頼りに息を潜めていた。

 どうやら、ここが裏都市の生き残りたちの最後の避難場所となっているらしい。

 私たちが姿を現すと、最初は聖騎士団の追手かとパニックになりかけたが、リドの顔を見たことで安堵の波が広がった。

 それから数時間が経過し、私たちはこの避難所に一時的に滞在することになった。

 避難所は、悲壮感に包まれながらも、生き延びるための活気に満ちていた。

「よし、ここの水路の構造なら、あの白服どもも大型の兵器は持ち込めねぇ。問題は、明日の聖誕祭で俺たちがどうやって広場まで抜けるかだ。……おい、そこの第4通路の図面を持ってる奴、ちょっと貸してくれ!」

 リドは広場の中央で焚き火を囲み、裏都市の古株やレジスタンスの生き残りたちと共に、地面にチョークで地図を描きながら真剣な顔で作戦を練っていた。盗賊として培った彼の知識は、明日の決死の強行突破に向けて必要不可欠なものとなっていた。

「おらよっと! はい、次はどこの瓦礫をどかせばいい? なんせ俺の腕は馬力だけは一級品だからね!」

 一方のザントは、持ち前のサイボーグの身体をフルに活かして、避難所の環境整備に大活躍していた。

 大の大人十人がかりでも動かせないような巨大な鉄骨や、崩落しそうな天井を支える支柱を、軽々と片手で持ち上げては運んでいく。

「すげえ! 機械のお兄ちゃん、かっこいい!」と群がる子供たちに「へいへい、サインは後でな!」と軽口を叩きながら、汗一つかかずに(そもそも汗などかかないが)力仕事を引き受けていた。彼が元・聖騎士団の隊長であることは伏せているようだが、その働きぶりで完全に避難民たちの心を掴んでいる。

「はい、熱いから気をつけてね! こっちのおじちゃんも、いっぱい食べて!」

 そしてマリィは、少し元気を取り戻したのか、大人たちの女性に混ざって配給の手伝いをしていた。

 自分の背丈ほどもある大きな鍋を一生懸命にかき混ぜ、お椀に『少しだけマシになった泥スープ』を注いで回っている。その小さな存在が、絶望に暮れていた大人たちの心に、どれだけの安らぎを与えているかは火を見るより明らかだった。

 ――そんな喧騒から少し離れた場所。

 私は、避難所の入り口に積まれた鉄屑の『仮の門』のような場所に背中を預け、一人、暗いトンネルの先をジッと見つめていた。

「…………」

 右手の小指は、まだジンジンと熱を持っている。

 私がここから見つめているのは、王都の方角か、それとも燃え落ちた裏都市の方角か、自分でもよく分からなかった。

 天界へ帰る。

 その目的のためなら、下等な人間どもの生死など本来はどうでもいいはずだった。

 なのに、あの狂った女王がこの泥臭い街を蹂躙した事実が、私の中でどうしようもなく重い怒りとなって渦巻いている。

 神の箱庭から落ちた私が、なぜこんなゴミ溜めのような場所で、人間たちのために命を懸けようとしているのか。

「アザゼルちゃん」

 ふと、静かな声が足元から聞こえた。

 視線を落とすと、両手で温かいスープの入ったお椀を大事そうに抱えたマリィが、私を見上げていた。

「何をしてるの。ずっとそこに立って、遠くを見てるね」

 マリィは不思議そうに首を傾げ、私の隣にちょこんと立った。

「アザゼルちゃんも、いっぱいいっぱい戦って、疲れてるでしょ。……休んだ方がいいよ。リドも機械のお兄ちゃんも、アザゼルちゃんが倒れちゃったら、きっとすごく悲しむから」

 マリィはそう言って、ホカホカと湯気を立てるお椀を私へ差し出した。

「……私は神の眷属だ。お前たち人間のように、すぐにへばったりはしない」

 私は少しぶっきらぼうに返しつつも、そのお椀を受け取った。

 手から伝わってくる温もりが、疲労した身体に染み渡る。

 私が少しだけ目を伏せてスープを口にしようとすると、マリィは私のボロ布の裾を小さな手でぎゅっと握り、まだ立ち去ろうとせずに話しかけてきた。

「ねえ、アザゼルちゃん」

 マリィは私のボロ布の裾を小さな手でぎゅっと握ったまま、背伸びをするようにして私の顔を覗き込んできた。

「……なんだ」

「アザゼルちゃんは、いつも『自分は天使だ』って言うよね」

「事実だからな。お前たちのような、泥にまみれて地を這う生き物とは違う」

 私がフンと鼻を鳴らしてそっぽを向くと、マリィは怒るどころか、少し首を傾けて、えへへと花が咲いたように嬉しそうに笑った。その大きな瞳には、私への微塵の恐れも、疑いも映っていない。

「でもね、アザゼルちゃんの手、とっても温かいよ。それに、甘いお砂糖を食べてる時のお顔、マリィと一緒だもん。ほっぺたが落ちそうに、すっごく幸せそう」

「……馬鹿なことを言うな。あれは消耗したエネルギーを補給するための効率的な作業だ。人間のように味覚に振り回されているわけではない」

 私が呆れたように顔を背けて否定すると、マリィは「ふふん」と得意げに鼻を鳴らし、両手を腰に当てて、まるで私の秘密を全部知っているとでも言うようなませた態度をとった。

「それにね。アザゼルちゃんは、口では怖いことばっかり言うけど、本当はすごく優しいもん。マリィたちが危ない時、いつも一番に前に出て、助けてくれる」

「……それは、お前たちが私の目的のために必要な手駒だからだ。勘違いするな」

「ううん、違うよ」

 マリィは力強く、ぶんぶんと首を横に振った。そして、一歩踏み出して私の足元にすり寄ると、今度は両手で私の空いている手をきゅっと包み込んできた。泥と煤で汚れた小さな手は、見た目に反してひどく温かい。

「アザゼルちゃんは、あのお空の上の神様に怒られて、おっこちてきちゃったんでしょ?」

「……ああ。私の完璧な美しさと誇りが、あの狭い箱庭には合わなかったのだ」

「だったらさ」

 マリィは、泥だらけの顔をぱぁっと輝かせ、陽だまりのように無邪気で、一切の濁りがない笑顔を向けた。

「お空の神様がアザゼルちゃんをいらないって言うなら、マリィたちがもらうよ」

「……は?」

「リドも、機械のお兄ちゃんも、ド・ガンのおじちゃんも、みーんなアザゼルちゃんのこと大切だもん。だから、お空になんて帰らなくていいよ。だって、アザゼルちゃんはもう、マリィたちの天使さんだもん!」

 えっへん、と胸を張って、自分の宝物を自慢するような誇らしげな声。

 その言葉に、私は思わず少し目を見開いた。

 神に見捨てられ、翼をもがれ、復讐と天界への帰還だけを心の拠り所にしてきた。

 それなのに、こんな泥とサビの底辺で生きる小さな子供が、私を「自分たちのものだ」と胸を張って宣言しているのだ。

 神から堕ちた私を、彼女たちは一切の迷いなく拾い上げようとしている。

「…………」

 あまりの馬鹿馬鹿しさと、そして胸の奥をじんわりと満たしていく妙な温かさに。

「……ぷはっ」

 気づけば私は、肩の力を抜いて、軽く声を上げて笑っていた。

「ふふっ……ふふふっ、あはははっ!」

「あ! アザゼルちゃん、笑った!」

 マリィがパァンと両手を叩き、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして喜んだ。

「笑いもするさ……。たかが人間の子供が、高位の存在を拾って飼おうなどと……本当に、お前たちは度し難いな」

 私は笑いながら、マリィの柔らかい頭を少しだけ乱暴に撫で回した。

「きゃあ、やめてよぉ! 髪の毛くしゃくしゃになっちゃう!」

 そう言いながらも全く嫌がる素振りを見せず、むしろ子犬のように目を細めて私の手にすり寄ってくるマリィを見つめながら、私はスープを一口飲む。

 裏都市の濁った泥スープ。

 けれど、あのポケットの最高級の角砂糖など入れなくても――今の私には、これが酷く温かく、美味しいものに感じられた。

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