5
姉のいない日々。
凍えるような毎日であれど、月日の流れは止まることを知らない。
ぼくの気持ちとは裏腹に万物は流れゆく。
「…………」
姉の生き甲斐が、ぼくの小説を読むことだとしたら、
ぼくの生き甲斐は、姉に小説を読んでもらうことだった。
そのためだけに書いてきた。
そのためだけに生きてきた。
「…………」
それがなくなったぼくは、いったいどうしたらいい?
どうやってこの人生を生きたらいい?
ぼくは最も大事な人を失ってしまった。
生きる理由を失ってしまったのだ。
「…………」
姉さんのいない日々に意味なんてない。
意味なんてないから、生きなくてもいい。
死んでしまえばいい。
そうすれば、ほら。
姉さんのいるところへ行けるじゃないか。
そうだよ、自殺すればいいんだよ。
「…………」
また姉さんといっしょになるんだ。
あの世で姉さんに甘えるんだ。
死ねば、幸せになれるんだ。
「…………」
じゃあね。
ばいばい。
二度と会うこともないでしょう。
さようなら。
『ああそうだ。死ね』
姉さんの声が聞こえた気がした。
たぶんぼくの脳内が作り出した架空の姉さんだ。
姉さんならきっとそういうだろう――ぼくにはそれがわかっている。
『死ぬなら死ねばいいんだよ。死を拒否するな――死を受け入れろ』
ほら。
見てみろよ。
わかってたんだよ。
姉さんだってこう言っているじゃないか。
姉さんは。
死を受け入れていたんだ。
ならぼくも。
死を受け入れなくちゃ。
『ああ。死ぬのは怖くないからな――死んじゃダメなんて、わたしは言わない』
うん。
そうだね。
前はわからなかったけど。
今なら姉さんの気持ちも。
よくわかるよ。
『死は負けじゃない。死は逃げじゃない――死は人生における選択肢の一つだ。死を選んだって、なにも恥ずかしいことはない』
わかったよ。
ぼくもそっちに行くよ。
死ぬのは怖くない。
死は負けじゃない。
死は逃げじゃない。
生きていればいつか死ぬんだ。
結局は死んでしまうんだ。
なら今死んでもいいんだ。
死んだっていいんだ。
死ぬことは罪じゃないんだ
姉さん。
大好き。
ぼく死ぬよ。
また会おう。
今度はもっと。
いっぱい甘えさせて。
『だが』
なに。
『その前によく聞け』
なんだよ。
これから死ぬんだよ。
これ以上の御託はいらないよ。
もういいよ。
死なせてよ。
『どうせ死ぬなら、やりたいことをやり尽くしてから死ね』
なにいってんだよ。
今すぐに死なせてくれよ。
早く姉さんに会いたいんだよ。
『死んだら、もう後戻りはできない――それなら、死ぬまでに好きなことをやり尽くしておくほうが賢明だろ?』
冗談言わないでよ。
ぼくに好きなことなんてないよ。
姉さんしか好きじゃないんだよ。
『小説は好きじゃないのか?』
小説なんて好きなわけないだろ。
姉さんが読みたいっていうから書いてただけだよ。
あんなもの、ほんとうは嫌いで嫌いでしかたなかった。
『どうして嫌いなんだ?』
面倒臭いんだよ。
小説を書くのはとても面倒臭いことなんだ。
その面倒臭さを乗り切っても、読んでくれる人は数少ない。
頑張った結果が実らない。
虚しいだけ。
だから小説は嫌いなんだよ。
『読んでもらえないから、小説は嫌いなのか?』
そうだよ。
姉さんは必ず読んでくれてた。
けど、ぼくの小説はつまらないんだ。
だから、ほかの人は誰も読んでくれない。
誰も読んでくれない小説なんて。
書き続けられるもんか。
小説なんて嫌いだ。
『バカだな。それなら読んでもらえる小説を書けばいいだけだろ』
ふざけないでよ。
そんなかんたんに書けるわけないだろ。
読んでもらうっていうのは、一番難しいことなんだ。
そこがわからないんだよ。
『なに言ってんだ。難しくなんてないだろ――お前が読みたい小説を、書けばいいんだ』
ぼくの読みたい小説?
そんなものを書いたって……ぼくしか読みやしないよ。
『そんなことない。お前の読みたいものは、誰かが読みたいものだ』
だけどさ。
ぼくの書いている小説は、読まれないんだよ。
『それはな、人と違ったことをやろうとか、誰にもできないことをしようとか、そんふうに書くこと自体に満足を見出してるからだ』
書くこと自体に満足しているから読まれない。
読む人の気持ちで考えれば、読んでもらえるの?
『そうだ』
ぼくが読みたいって思ったものを、そのまま書けばいいの?
それでぼくの小説は読まれるようになるの?
『そうだ』
誰かと被ってもいいの?
ありきたりでもいいの?
あざとい、わざとらしい小説を書いてもいいの?
『いいんだ。読者はそんなの気にしない――無駄な技巧は必要ない。ただお前が読みたいと思えるものを書け』
……でもさ。
そんなこといわれたって、ぼくは小説を書きたくないんだよ。
もう疲れたんだ。
終わらせたいんだ。
『ああ。疲れたんなら諦めてもいい。後がなくなったら、そのときに死ねばいいんだ』
諦めてもいい。
死んでもいい。
いいんだ?
『いいんだ。だからな――ほんとうに動けなくなるまで、書き続けちまえよ』
ほんとうに動けなくなるまで?
なに言ってんだよ。
ぼくはもう、ほんとうに動けないんだよ。
『なに言ってんだ。お前にはまだ力が残ってるはずだろ――自殺する力があるくらいなら、小説を書く力だって残ってるだろ』
ぼくにはまだ残っているのか。
小説を書く力が。
『諦めるのは限界にたどり着いた時にしておけ。それまでは文字通り死ぬ気で書いておけ』
…………。
…………。
死ぬ気で書く。
それは。
つまり。
どういうこと。
なの。
『死ぬまで書き続けろ』
それは。
つまり。
小説を書き続けられる限り――死ぬな。
って。
そういうこと?
『まぁな』
そっか。
そっか。
そうなんだ。
結局は。
姉さんも。
自殺を止めるんだね。
ぼくに生きてほしいんだね。
死を否定するんだね。
『止めちゃいないさ』
そうだね。
そうかもしれない。
『なにか不満でもあるのか?』
ううん。
そんなことはない。
不満なんて何一つないよ。
姉さんの言ってることは正しいよ。
諦めてもいい。
死んでもいい。
でもどうせ死ぬのなら、好きなことをやってからのほうがいい。
その通りだ。
なにも間違ってないんだ。
ぼくも同じ気持ちだ。
好きなことをやってから死にたいって思うんだ。
だから。
ねえ。
姉さん。
『なんだ?』
――生きるよ。
ぼく。
もうすこしだけ。
生きることにするよ。
小説を書き続けられる限り――生きる。
そう。
するよ。
『そうか』
どうせ死ぬのなら。
好きなことをやり尽くしてから死ぬ。
それでいいなら。
ぼくは書いていける。
上手くいかないだろうし、そんなすぐには前進できないだろうけど。
でも姉さんの、『読む人の気持ちになって書いてみろ』っていう助言を無碍にするのも嫌だし。
それに。
――やっぱり小説を書くのは好きだし。
『そうか。いい子だ』
書いていくうちに楽しくなってきたんだよ。
その楽しさを手放したくはないんだよ。
小説を書いているぼくでありたいんだよ。
『ならもういいな』
うん。
姉さん。
ありがとう――
ぼくは立ち上がった。
にじみ出ていた涙を拭う。
まだ生きるんだ。
姉さんのことを思い出して、死ぬのは後回しにしようと思ったんだ。
「……よし」
いいだろう。
死ぬまで書き続けてやろう。
限界ってやつにたどり着いてやろう。
たとえ文章が下手くそでも、関係ない。
たとえストーリーが破綻していても、関係ない。
たとえ読者が惨めになるほど少なくても、関係ない。
そんなもの書いているうちに上手くなるものだ。
経験を積めばいいだけの話だ。
今は無我夢中に書いていればいい。
それで小説を書くことが生き甲斐になったら、儲け物だ。
「さあ、何を書こうか」
姉の助言――読んでもらうには、読者の気持ちになって考えること。
ぼくが読んでみたい小説?
それは、なんだろう?
思い出す。
『おいおい。最近お前の小説面白くなくなったんじゃないのか?』
『暗いんだよ、話の設定が。わたしは笑いたいんだぞ? こんなんじゃぜんぜん満足できないね』
『笑える小説を読ませてくれよ?』
『ふ、ふふっ……』
『この場面。いいじゃないか――こういうのを読みたかったんだ、わたしは』
姉の笑顔を思い出す。
ぼくも笑顔になる。
「そんなの決まりきってるよな」
姉さん。
ぼくは。
読んだ人が笑顔になれる作品を、書くことにするよ。
それを。
みんなに読んでもらおうと思うよ。
「やるぞ……」
ぼくは原稿用紙を取り出す。
ぼくは鉛筆を走らせる。
死ぬ瞬間まで――姉さんが小説を読んでくれたように。
死ぬ瞬間まで――ぼくも小説を書いていくよ。
「どうせ諦めるなら限界に行ってからだ!」
ただ一人の読者がいなくなっても、ぼくは、書くことを諦めなかった。
いつか必ず読んでくれる人が現れると、信じた。