第6話 ビジネスと判断―経営者が見つめた正義の相対性―
Shunya の告白の後、直也は、その日の夜間に、Shunya のために簡素な部屋を用意することにした。
Jacob の時と同じく、牢ではなく、関所の客間だ。その部屋には、窓がある。窓からは、夜の空が見える。逃げようと思えば、逃げられる。だが、Shunya も、その夜、逃げようとしなかった。
その夜、直也は、Shunya を訪ねた。
Shunya は、窓際に座って、月を見つめていた。その背中は、疲れに満ちていた。
「眠れないですか」
直也は、聞いた。
「眠れない。眠りたくない。ここで眠ることは、あまりに無責任に思える」
Shunya は、そう言った。その言葉には、経営者としての責任感が見える。
「…なぜ、あなたは、僕を一人にしてくれたのですか」
Shunya は、窓から目を離して、直也を見た。
「逃げられるチャンスをくれるとは、経営者として、理解できません。企業なら、このような失態は許されない。…あるいは、あなたも、転移者ですか」
「いいえ。この時代に生まれた者です」
直也は、Shunya の隣に座った。
「ですが、考えました。あなたが逃げるとは思いませんでした。あなたは、既に、ここにいることを受け入れている。逃げようとしていない」
Shunya は、その言葉に、静かに頷いた。
「…そうかもしれません。逃げたくない。あなたという人物に、直面したいと思う」
Shunya は、その言葉を続けた。
「Jacob という男は、我たちの組織から情報を得て、あなたに通されたということですね。それは、非常に異例です。我たちの組織では、転移者が関所で見破られることはあっても、通されることは予想していなかった」
「そうですか」
直也は、その言葉に注目した。
「Jacob を通した理由は、わかりません。ただ、その時点で、それが正しいと思った。それだけです」
「気まぐれですか」
Shunya は、その言葉を口にした。
「はい。気まぐれです」
直也は、素直に答えた。
「…正義とは何ですか」
Shunya は、その問いを発した。
「あなたは、Jacob を通した。それは、正義なのですか。それとも、単なる気まぐれなのですか。その二つを、どう区別しますか」
その問いは、重かった。その問いの中には、Shunya というビジネスマンの本質が見える。彼は、正義と利益の関係を、常に考えている。その思考が、その問いに現れている。
「…わかりません」
直也は、答えた。
「正義も、気まぐれも、同じかもしれません。人間が何かを判断する時、その判断の基準は、その時その時で、変わります。昨日は正義だったことが、今日は気まぐれだと思うかもしれない。逆もしかり。その曖昧さの中で、人間は、生きていくのだと思います」
「…それは、経営ではできません」
Shunya は、その言葉を述べた。
「ビジネスでは、判断基準は、常に明確でなければならない。利益。効率。効果。それらの数字に基づいて、判断する。その判断に、曖昧さは許されない」
「そうですね」
直也は、その言葉に頷いた。
「だから、ビジネスマンは、大変なのだと思います。常に、判断基準を明確にしなければならない。その結果、人間的な部分は、失われるのかもしれない」
「…人間的な部分」
Shunya は、その言葉を繰り返した。
「僕は、21世紀で、何人の人間をリストラしたか。何社の企業を買収したか。何万人の雇用を削減したか。その全てが、『正義』だと思っていた。企業の経営が、より効率的になるためには、必要な判断だと。…ですが、あなたという人物を見ていると、その『正義』が、本当に正義なのか、わからなくなります」
Shunya の言葉は、重かった。その中には、経営者としての揺らぎが見える。
「だから、僕は、通されたいのかもしれません」
Shunya は、そう言った。
「僕は、この江戸時代で、あなたのような判断をしたいと思った。気まぐれで、曖昧で、だが、人間的な判断を。その判断が、何をもたらすのか、わかりません。ですが、その判断をしてみたいと思った」
直也は、その言葉を聞いて、Shunya の本質を理解した。
「では、あなたの目的は、本当に、江戸時代の商業を支配することなのですか」
「…わかりません。最初は、そのつもりでした。企業の指示を受けて、江戸時代に来た。その指示は、『江戸時代の商業を改変しろ』というものでした。ですが、この時代に来て、Jacob に出会い、あなたに見破られて…」
Shunya は、その言葉を続けた。
「…もう、その目的は、重要ではなくなった。重要なのは、あなたが、僕をどうするか、ということだけです」
その時点で、直也は、決断を下したのだ。
翌日の朝。
直也は、決断を役人の田中と山本に知らせた。
「昨日の商人は、通す」
田中の眼が、再び驚きで大きくなった。
「代官殿。…昨日は、あの者が何かの企業組織に属していることを…」
「知っています」
直也は、その言葉を遮った。
「ですが、考えました。あの者を逮捕することが、この関所の役割であるのか。あるいは、あの者を通すことが、この関所の役割であるのか」
直也は、その言葉を続けた。
「ビジネスマンが、一人、江戸時代に来たからといって、その時代の秩序が、すぐに破壊されるわけではない。あの者が、何かの悪事を働くつもりなら、別です。ですが、今の時点では、あの者は、ただの旅人に過ぎない。そして、その旅人は、この江戸時代で、何かを学びたいと思っている。その学びを、妨害する理由は、ない」
直也は、その言葉と同時に、自分が、この関所の代官として、確かに権力を行使していることに気づいた。その権力は、江戸の役所の指示によるものではなく、自分自身の判断によるものだ。その判断の正当性は、この関所の代官という立場の中に、ある。
その昼、Shunya は、許可証を手に、関所を通った。
その時、Shunya は、直也に一言だけ言った。
「ありがとう。あなたの判断は、正しかったのか、間違っていたのか、それは時間が証明するでしょう。だが、少なくとも、あなたは決定した。その決定を下す勇気を、僕たちのような者は、失っていた」
直也は、その言葉に、何も返さなかった。ただ、Shunya の背中を見送った。
Shunya は、昼間の光の中を、静かに去っていった。
その背中は、Jacob の背中と違い、より希望に満ちたものに見えた。ビジネスマンとして、彼は、この江戸時代で、新しい何かを作ろうとしているのだろう。その新しい何かが、何であるか、直也には、わかりません。だが、Shunya という人物は、その道を歩み始めたのだ。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
その中に、Shunya の名前を書くことにした。「伊藤田進一」。その名前で。
Shunya という本名を、「伊藤田進一」という別の名前で、江戸時代の記録に残すのだ。その変形により、Shunya は、この江戸の記録に、ごく小さな痕跡を残すことになった。
その痕跡は、後の調査者たちが、見ても、何の意味もないだろう。だが、直也の記憶には、その人物が、本当は何であったのか、すべてが刻まれている。
直也は、その夜、考えていた。
Jacob は、秘密組織の幹部だった。その組織は、権力を求めていた。
Shunya は、グローバル大企業の経営者だった。その企業は、利益を求めていた。
その二人を、直也は、通した。
その決断が、正しいのか、間違っているのか、直也には、わかりません。だが、その決断は、下されたのだ。
直也は、その時、何かに気づいた。
自分は、この江戸時代で、確かに何かを始めたのだ。
転移者たちと、この江戸の秩序の間に、何かの橋を架けようとしているのだ。
その橋が何であるか、自分自身、完全には理解していない。だが、その道の上を、自分は歩み始めているのだ。
直也は、月を見つめていた。
江戸時代の月だ。その月の下で、また新しい秘密が、この関所に向かって、ゆっくりと歩み始めていたのだろう。
直也は、その月の下で、待ち続けることにした。
次の転移者が、この関所に到達する日まで。
そして、その時ごとに、直也は、判断を下し続けるのだ。
気まぐれで、時には誤るかもしれない。だが、その判断こそが、この江戸の関所での、この代官の仕事なのだ。




