第56話 頼んでいない―同意なき記録をめぐる夜―
「その二十四人は、あなたに、そうしてくれと頼んでいません」
「一人残らず、頼んでいないはずです」
直也は、その言葉を、受けた。
受けて、しばらく、動かなかった。
田中が、部屋の隅で、身じろぎをした。何か言おうとしたのが、気配でわかった。
直也は、手で、それを制した。
そして、こう言った。
「宗次どの」
「はい」
「それは、正しくありません」
宗次の眉が、わずかに動いた。
「……正しくない、とは」
「一人残らず、ではありません」
直也は、そう言った。
「頼んだ者が、おります」
直也は、立ち上がった。
そして、机から、帳面を取ってきた。
宗次の前に、置いた。
「読んでいただいて、けっこうです」
「よろしいのですか」
「どうぞ」
宗次は、しばらく、その帳面を見ていた。
そして、手を伸ばした。
いちばん後ろの頁を、開いた。
二十四行が、そこにあった。
宗次は、それを、上から順に、読み始めた。
読むのが、速かった。
――名前を覚える仕事をしてきた者の読み方だ、と直也は思った。
一行ごとに、目が止まる。止まって、少し置いて、次へ行く。
十行目で、止まった。
「……高林二郎」
宗次は、そう読んだ。
「田代義久ですね」
「はい」
「藤原さんから、聞きました」
宗次は、そう言って、次へ行った。
十八行目で、また、止まった。
長く、止まった。
「これは」
「ユスフ・アブディという人です」
直也は、そう答えた。
「異国の生まれで、海賊でした。人を三人、殺しています」
直也は、そう言った。
「その者が、私に、こう言いました。『帳面に、書いてください』と」
宗次は、顔を上げた。
「……頼まれた」
「頼まれました」
直也は、そう言った。
「その男の罪は、この世のどこにも記録がありません。誰も知りません。被害者の遺族は、その男を赦しました。仲間は全員死にました。……その男が忘れれば、消えるのです」
直也は、そう言った。
「殺された男が、この世に一度いたということが、消える」
直也は、そう言った。
「それが、恐ろしいと言いました。だから、書いてくれと頼まれました」
宗次は、その行を、もう一度、読んだ。
「……被害者の名前まで、書いてありますね」
「本人が、口にしました」
直也は、そう言った。
「二十年、誰にも言わなかった名前だそうです」
宗次は、次の行へ進んだ。
十九行目。
「橘三郎為時」
「これは」
「四百年前の武者です」
直也は、そう答えた。
「講釈で語られる英雄です。燃える館から童七人を助けた、ということになっております」
直也は、そう言った。
「実際は、助けていません。怖くて逃げ込んで、童五人の隣で震えていただけです」
宗次は、その行を読んだ。
そして、こう言った。
「……この人は、書かないでくれと言ったのでは」
「言いました」
直也は、そう答えた。
宗次の目が、上がった。
「言ったのに、書いたのですか」
「書きました」
直也は、そう言った。
「ですから、あなたの言われたことは、半分、当たっています」
直也は、そう言って、少し、間を置いた。
「頼んだ者がおります。頼まれずに書いた者もおります。断られたのに書いた者も、一人、おります」
直也は、そう言った。
「はじめの十七人は、頼まれておりません。あの者たちは、名を偽って書かれることしか、知りません。いちばん後ろの頁に、こういうものがあることを、知らずに行きました」
直也は、そう言った。
「その十七人については、あなたの言われる通りです。私は、勝手に書きました」
宗次は、答えなかった。
「後の七人は、知っております」
直也は、そう言った。
「書くと言って、書きました。何を書くかも、言いました。……為時どのだけは、断られたのに、書きました。あれは、私が押し切りました」
直也は、そう言った。
「押し切った理由は、申し上げられます。ですが、押し切ったことに、変わりはありません」
宗次は、しばらく、直也を見ていた。
そして、こう言った。
「正直ですね」
「正直でないと、話が進みませんので」
「間宮さん」
宗次は、そう言った。
「はい」
「では、十七人については、どうなさるおつもりですか」
「わかりません」
直也は、そう答えた。
「消しますか」
「消しません」
「なぜです」
「消せば、なかったことになりますので」
直也は、そう言った。
「その十七人は、私に頼んでおりません。ですが、頼んでいないことを理由に消すと、あの者たちは、この世のどこにも、いなかったことになります」
直也は、そう言った。
「勝手に書いたことと、勝手に消すことは、同じくらい、勝手です」
宗次は、しばらく、黙っていた。
そして、こう言った。
「……その理屈は、危ういですよ」
「危ういですね」
直也は、そう答えた。
「『本人のためだ』と言えば、何でもできてしまいます」
宗次は、そう言った。
「私は、それを、二十二年、見てきました」
宗次は、そう言った。
「役所の言葉です。『あなたのためを思って』。あれで、どれだけの人が、勝手に決められたか」
宗次は、そう言った。
「間宮さん。あなたは今、それを言っています」
直也は、頷いた。
「言っております」
直也は、そう答えた。
「ですから、危ういと申し上げました」
行灯に、火が入った。
外は、暗くなり始めていた。
弥生が、無言で、茶を替えていった。
田中と山本は、隅で、動かずにいた。
「宗次どの」
直也は、そう言った。
「はい」
「一つ、伺ってよろしいか」
「どうぞ」
「あなたの名簿には、八十人の名が載るのですね」
「載せたいと思っています」
「その八十人は、載せてくれと頼みましたか」
宗次の動きが、止まった。
長く、止まった。
「……何人かは」
宗次は、そう答えた。
「何人です」
「十二人です」
宗次は、そう答えた。
正直な男だ、と直也は思った。
ごまかすことも、できたはずだ。
「十二人」
「はい」
「残りの六十八人は」
「話していません」
宗次は、そう答えた。
「話せば、反対する者がいます。反対されれば、作れません」
宗次は、そう言った。
「作れなければ、次に誰かが捕まったとき、また、間に合いません」
宗次は、そう言った。
「ですから、作ってから、話すつもりでした」
直也は、その言葉を、聞いた。
そして、こう言った。
「宗次どの。私は、十七人を、勝手に書きました」
直也は、そう言った。
「あなたは、六十八人を、勝手に書こうとしておられます」
宗次は、答えなかった。
「私が間違っているのだとすれば、あなたも、間違っておられます」
直也は、そう言った。
「四倍、間違っておられます」
宗次の顔が、初めて、歪んだ。
怒りではなかった。
痛いところを突かれた人間の顔だった。
「……間宮さん」
「はい」
「あなたは、私を、責めていますか」
「責めておりません」
直也は、そう答えた。
「私も、同じことをしたからです。責める資格がありません」
直也は、そう言った。
「ただ、あなたが、私に『頼まれていないだろう』と言われたので、それは、あなたにも返りますと、申し上げただけです」
長い沈黙があった。
炭が、鳴った。
「……木村さんは」
宗次が、そう言った。
その声が、少し、掠れていた。
「木村さんは、たぶん、載せてくれと言わなかったと思います」
宗次は、そう言った。
「あの人は、そういう人でした。『私のことはいいから』と言う人でした」
宗次は、そう言った。
「生活保護の窓口に、よく来る種類の人です。……いちばん、危ない種類です」
宗次は、そう言った。
「自分のことを申請しない人が、いちばん、死にます」
宗次は、そう言った。
「二十二年で、私は、それを、嫌というほど見ました」
宗次は、そう言った。
「だから、私は、勝手にやることを、悪いと思わなくなりました」
宗次は、そう言った。
「申請を待っていたら、死ぬのです」
直也は、その言葉を、腹の底で受けた。
そして、すぐには、答えなかった。
これは、簡単に返してはいけない言葉だ、と思った。
「宗次どの」
「はい」
「その通りだと思います」
直也は、そう言った。
「申請を待っていたら、死ぬ。……そういうことは、あるのでしょう」
直也は、そう言った。
「私には、その仕事の経験がありません。ですから、あなたの言われることが、どれだけ重いかは、本当のところは、わかりません」
直也は、そう言った。
「ただ、一つだけ、申し上げます」
「どうぞ」
「あなたは、木村さんが『載せてくれと言わなかったと思う』と言われました」
直也は、そう言った。
「その通りかもしれません。……ですが、それは、あなたが決めたことです」
直也は、そう言った。
「あの人が言わなかったのではなく、あなたが、言わなかっただろうと思っているだけです」
宗次は、動かなかった。
「間に合わなかったことと、聞かなかったことは、別です」
直也は、そう言った。
「あなたは、間に合わなかったことを、ずっと悔いておられる。それは、当然です」
直也は、そう言った。
「ですが、聞かなかったことは、悔いておられない」
宗次の喉が、動いた。
「……十里でした」
宗次は、そう言った。
「はい」
「十里、離れていました」
宗次は、そう言った。
「歩けば、二日です」
宗次は、そう言った。
「三年のあいだに、私は、あの人の家に、四度、行きました。四度とも、泊めてもらいました」
宗次は、そう言った。
「四度、話しました。いろんな話を、しました」
宗次は、そう言った。
「一度も、聞きませんでした」
宗次は、そう言った。
「『もし何かあったら、どうしてほしいか』と」
宗次の手が、膝の上で、握られた。
「聞いておけばよかった」
宗次は、そう言った。
「そうすれば、私は、今、こんなに、慌てていない」
直也は、しばらく、何も言わなかった。
言うべきことが、なかった。
それから、こう言った。
「宗次どの。一つ、提案があります」
宗次は、顔を上げた。
「はい」
「帳面は、渡しません。焼きません。隠しません」
直也は、そう言った。
「その代わり」
直也は、そう言って、帳面を、自分のほうへ引き寄せた。
そして、後ろのほうの頁を、開いた。
白い頁だった。
いちばん上に、一行。
「我が通せし者どもの先にありし者ども 名も数も知らず」
そして、その下に、二行。
「なつ 十四さい むらは きたの みやのむら」
「この名は、姉のとよ、みずから記せり。三年、歩きて、この関所に至れり」
「これを」
直也は、そう言った。
「この、曲がった字を、見てください」
宗次は、覗き込んだ。
そして、しばらく、それを見ていた。
「……子どもの字ですか」
「三十一の女の字です」
直也は、そう答えた。
「妹に、自分で字を教えた人です。そのせいで、自分の字が、下手なのだそうです」
直也は、そう言った。
「半月前、ここへ来て、自分で書いていきました」
「宗次どの」
直也は、そう言った。
「はい」
「この関所を、書く場所にしませんか」
宗次の目が、上がった。
「……書く場所」
「はい」
直也は、そう言った。
「私が、集めに行くのではありません。私が、勝手に書くのでもありません」
直也は、そう言った。
「書きたい者が、ここへ来て、自分で書く」
直也は、そう言った。
「名でも、素性でも、遺言でも、何でもかまいません。書きたいことだけ、書けばよい。書きたくない者は、書かなくてよい」
直也は、そう言った。
「私は、それを、預かります。そして、毎晩、読みます」
宗次は、しばらく、その白い頁を、見ていた。
「……間宮さん」
「はい」
「それは、遅いです」
「遅いです」
直也は、そう答えた。
「ここまで歩いてこられない者は、書けません」
宗次は、そう言った。
「病の者は、書けません。囚われた者は、書けません。……いちばん助けが要る者が、いちばん、来られません」
宗次は、そう言った。
「私は、二十二年、それを見てきました。窓口で待っている限り、いちばん困っている人は、来ないのです」
「その通りです」
直也は、そう言った。
「ですから、あなたのやり方も、要るのだと思います」
宗次が、直也を見た。
「……え」
「私は、あなたのやり方を、やめろとは申しません」
直也は、そう言った。
「やめろと言う資格が、ありません。私は、ここから動かずに、来た者を待つことしかできません。それでは、間に合わないというのは、その通りです」
直也は、そう言った。
「ただ、私の帳面は、渡しません。渡せば、書きに来る者が、いなくなりますので」
直也は、そう言った。
「自分で書いたものが、知らないところへ持っていかれるとわかれば、誰も、書きません」
宗次は、長いあいだ、黙っていた。
そして、こう言った。
「……一つ、聞かせてください」
「どうぞ」
「もし、御上の検分が来て、その帳面が見つかったら、どうされますか」
「捕まります」
直也は、そう答えた。
「二十四人が、危うくなります」
「なります」
「それでも」
「それでも、置いておきます」
直也は、そう言った。
「隠せば、値打ちが出ます。値打ちが出れば、奪いに来る者が増えます。……そして、隠したものは、いつか、自分でも読まなくなります」
宗次は、その言葉を、聞いていた。
そして、しばらくして、こう言った。
「……一つ、させてください」
「なんでしょう」
「見張りを、置かせてください」
宗次は、そう言った。
「この関所ではなく、東の宿場と、西の宿場に、一人ずつ。……御上の役人が、街道筋を検分に回るときは、必ず、宿場に泊まります」
宗次は、そう言った。
「二日前には、わかります」
宗次は、そう言った。
「二日あれば、あなたは、帳面を、どうにでもできます」
直也は、その申し出を、聞いた。
「……それは、あなたにとって、何の得にもなりません」
「なりません」
宗次は、そう答えた。
「帳面は、もらえないのでしょう」
「もらえません」
「では、得はありません」
宗次は、そう言った。
「ですが、あの帳面が焼かれたら、木村さんのような人が、また一人、どこにも残らなくなります」
宗次は、そう言った。
「あそこには、二十四人が、います」
宗次は、そう言った。
「私は、あれを、守りたいのです。持ちたいのではなく」
直也は、その言葉を、聞いた。
そして、頭を下げた。
「……お願いします」
「はい」
「宗次どの」
「はい」
「一つ、私からも、お願いがあります」
「なんでしょう」
「あなたの六十八人に、聞いてください」
直也は、そう言った。
宗次は、目を閉じた。
そして、開いた。
「……一年、かかります」
「かかるでしょうね」
「そのあいだに、誰かが、死ぬかもしれません」
「死ぬかもしれません」
直也は、そう答えた。
「そのときは、あなたは、二重に悔やむことになります」
直也は、そう言った。
「聞かなかったことでも、聞いたせいでも」
直也は、そう言った。
「どちらも、あなたが背負うことになります」
宗次は、少し、笑った。
疲れた笑い方だった。
「……ひどいことを言いますね」
「申し訳ありません」
「いえ」
宗次は、そう言った。
「そうですね。……聞きます」
宗次は、そう言った。
「一年かけて、聞きます」
翌朝。
よく晴れていた。
宗次は、関所の前に立った。
田中が、手形に印を押した。
宗次が作った、偽の手形に。
田中は、それを、知っていて、押した。
「宗次どの。道中、お気をつけて」
「田中さん。ありがとうございます」
宗次は、そう言って、頭を下げた。
そして、直也の前に立った。
「間宮さん」
「はい」
「一つ、申し上げておきます」
宗次は、そう言った。
「なつさんのことです」
直也は、顔を上げた。
「探します」
宗次は、そう言った。
「西国の者に、当たらせます。田代の口入屋の場所は、わかっています」
宗次は、そう言った。
「三月か、半年か。……それくらいで、何かは、わかると思います」
直也は、しばらく、動けなかった。
「宗次どの」
「はい」
「それは、帳面と、引き換えではありませんね」
「引き換えではありません」
宗次は、そう答えた。
「そういう取引をしようかと、道々、考えていました」
宗次は、そう言った。
「昨夜、やめました」
宗次は、そう言った。
「あなたは、断ったでしょうから」
「断ったと思います」
「ええ」
宗次は、そう言った。
「そして、断られた後で私が探したら、それは、やっぱり探すということでしょう」
宗次は、そう言った。
「なら、はじめから、そう言ったほうが、早い」
宗次は、街道を、西へ歩き出した。
十歩ほどで、振り返った。
「間宮さん」
「はい」
「一つ、忘れていました」
宗次は、そう言って、戻ってきた。
そして、机のほうを、指した。
「書かせてください」
「……何をですか」
「私を」
宗次は、そう言った。
「あなたの帳面に、二十五人目として、私を書いてください」
宗次は、そう言った。
「いえ。……書いていただくのではなく、自分で書きます」
宗次は、そう言った。
「書く場所にすると、言われたでしょう」
宗次は、上がって、机の前に座った。
直也は、帳面を開いて、二十四行の下を、示した。
宗次は、筆を取った。
そして、書いた。
「二十五 林田宗次 四十六 二十一世紀の日本より来たる 市役所に二十二年勤む 福祉の係なりき」
そして、少し考えて、続けた。
「木村和美 四十二 小学校の教師 三年前に来たる 丹波の在に住む 子どもに漢字を教えたり 母の形見の十字の飾りを首に提げおりし 信仰はなし 昨年八月、牢を出でたる翌日に死す 墓は村の無縁墓 名は刻まれず」
書き終えて、宗次は、筆を置いた。
そして、その二行を、見ていた。
「……これで」
宗次は、そう言った。
「これで、私の頭の中だけでは、なくなりました」
宗次は、そう言った。
「ありがとうございます」
宗次は、行った。
その背中が見えなくなってから、田中が、言った。
「代官殿」
「うん」
「あの方は、また来られますな」
「来るだろうな」
「そのときは」
田中は、そう言った。
「茶菓子でも、用意しておきましょうか」
直也は、少し、笑った。
「そうしてくれ」
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
いつもの頁に、こう書いた。
「宗次 西へ 通行」
そして、いちばん後ろの頁を開いた。
二十五行あった。
そのうち、いちばん最後の一行だけが、直也の字ではなかった。
――他人の字が、入った。
直也は、そう思った。
三年、この頁は、直也一人のものだった。
直也が書き、直也が読んだ。
それが、この半月で、二度、破れた。
一度は、とよの、曲がった字で。
一度は、宗次の、整った字で。
そして、そのどちらも、直也が呼んだのではない。
歩いて、来たのだ。
直也は、二十五行を、はじめから読んだ。
読み終えるのに、半刻と、四半刻と、少しかかった。
最後の一行を読み終えて、直也は、思った。
――重くなった。
だが、一人で持っているのではなくなった。
重いものを、二人で持つと、どうなるか。
軽くはならない。
ただ、落としにくくなる。
それだけのことだ、と直也は思った。
それだけのことが、たぶん、大事なのだ。
直也は、帳面を閉じた。
そして、机の真ん中に置いて、灯りを消した。




