第55話 善い人―名簿を作りに来た男の、正しすぎる言い分―
藤原忠太が東へ帰ってから、四日が過ぎた。
その四日、関所は、妙に、落ち着いていた。
田中と山本は、毎朝、机を拭いた。
机の上には、関所帳が置いてある。いちばん後ろの頁に、二十四行と、二枚の白い頁を持った、あの帳面だ。
隠していない。
布もかけていない。
ただ、机の真ん中に、置いてある。
「代官殿」
三日目の朝、田中が、そう言った。
「なんだ」
「これは、埃をかぶりますな」
「かぶるな」
「拭きます」
「そうしてくれ」
田中は、毎朝、拭いた。
そして、拭きながら、いつも、ほんの少しだけ、帳面の表紙を撫でた。
直也は、それを、見ないふりをしていた。
五日目の、午後。
その男は、来た。
街道の向こうから、一人で歩いてきた。
背は、直也と同じくらいか。体つきは、中肉。
年は、四十半ばに見える。
着物は、地味だが、きちんとしていた。継ぎも当たっていない。糊も利いている。
歩き方が、まっすぐだった。
そして、その男は、関所が見えたところで、足を止めた。
止まって、しばらく、関所を見ていた。
離れたところから、建物を、端から端まで、ゆっくり見た。
それから、また、歩き出した。
「代官殿」
山本が、そう言った。
「今、こちらを、測っておりました」
「そうだな」
「……あの者でございましょうか」
「そうだろう」
直也は、そう答えた。
そして、立ち上がった。
男は、関所の前に立った。
そして、頭を下げた。
「お役目、ご苦労さまです」
その声は、穏やかだった。
高くもなく、低くもない。聞きやすい声だった。
そして、その言葉には、訛りがなかった。
――訛りがなさすぎる。
直也は、そう思った。
この時代の者は、どこかしら、土地の訛りを持っている。江戸の者は江戸の、大坂の者は大坂の。訛りのない日本語というものは、この時代には、存在しない。
「通行を、お願いします」
男は、手形を差し出した。
直也は、それを受け取らなかった。
「宗次どのですか」
男の動きが、止まった。
そして、少し、笑った。
「……藤原さんは、速いな」
男は、そう言った。
その言い方が、急に、変わった。
「四日も早く着かれるとは思っていませんでした。あの人、化け物ですね」
「千年、歩いておられますので」
「そうらしいですね」
男は、そう言って、手形を、懐に戻した。
そして、あらためて、頭を下げた。
「宗次と申します。……本名は、林田宗次。二十一世紀の日本から来ました」
男は、そう言った。
「間宮さん、ですね」
「はい」
「お話を、させていただけますか」
「どうぞ」
直也は、そう言った。
「ただし、一つ、先に申し上げます」
「はい」
「帳面は、渡しません」
宗次は、頷いた。
「伺っています」
宗次は、そう言った。
「それを前提に、お話しさせてください」
奥の部屋に、上げた。
弥生が、茶を出した。
宗次は、それを受け取って、こう言った。
「ありがとうございます。……お名前を、伺ってもよろしいですか」
「弥生です」
「弥生さん。ありがとうございます」
弥生は、少し、驚いた顔をして、下がった。
田中と山本は、部屋の隅に座った。
直也が、そうさせた。
「お二人も、ご一緒に?」
「はい」
直也は、そう答えた。
「この帳面のことは、この二人も、知っています。二人の首も、かかっています」
「……なるほど」
宗次は、そう言って、田中と山本に、頭を下げた。
「田中さん、山本さんですね。藤原さんから伺っています」
田中が、面食らった顔をした。
「……は、恐れ入ります」
「失礼ですが、お二人は、この時代の方ですね」
「さようでございます」
「巻き込んで、申し訳ありません」
宗次は、そう言った。
「私たちの都合で、あなた方の生活が危うくなっている。それは、事実です」
その言い方に、演技はなかった。
田中は、答えに困った顔をしていた。
直也は、その様子を、見ていた。
――うまい。
そう思った。
いや、うまいのではない。
本当に、そう思っているのだ。そして、本当に思っていることを、はっきり言葉にできる。それは、そういう仕事を長くしてきた人間の癖だ。
「宗次どの。何をしておられましたか」
直也は、そう聞いた。
「市役所です」
宗次は、そう答えた。
「二十二年。福祉の部署に、長くおりました」
「福祉」
「はい」
宗次は、そう言った。
「生活保護の窓口を、八年やりました。それから、児童相談所に四年。最後は、地域包括支援センターの立ち上げに関わっていました」
宗次は、そう言った。
「机の仕事ではありません。家を訪ねる仕事です」
宗次は、そう言った。
「二十二年で、何軒回ったかは、数えていません。ですが、名前は、だいたい覚えています」
直也は、その言葉に、顔を上げた。
「名前を」
「はい」
宗次は、頷いた。
「私は、名前を覚える仕事をしていました」
宗次は、そう言った。
「顔を覚えて、名前を覚えて、その人がどこに住んでいて、誰と暮らしていて、何に困っているかを覚える。……それが、仕事でした」
宗次は、そう言った。
「覚えていないと、助けられませんので」
直也は、その言葉を、聞いた。
そして、思った。
――神谷恵三郎の、反対だ。
あの男は、数だけを覚えて、名を覚えなかった。
この男は、名を覚える仕事を、二十二年してきた。
そして、この男は、名簿を作ろうとしている。
矛盾していない、と直也は思った。
むしろ、まっすぐに、つながっている。
「宗次どの」
直也は、そう言った。
「はい」
「なぜ、名簿を作られるのですか」
宗次は、茶を置いた。
そして、こう言った。
「去年の八月、一人、死にました」
宗次は、そう言った。
「木村和美さん。四十二歳。小学校の教員でした」
宗次は、そう言った。
「三年前に、こちらへ来ました。丹波の在に住んでいました。……首から、小さな十字の飾りを下げていました。銀の、安物です。信仰は、ありません。母親の形見だと言っていました」
宗次は、そう言った。
「村の者に見られました。訴えが出ました」
宗次は、そう言った。
「取り調べで、『これは何か』と聞かれて、答えられなかった。……答えようがありません。『母の形見です』と言っても、通じません」
宗次は、そう言った。
「三十日、牢にいました。そのあいだに、病を得ました。出された翌日に、死にました」
部屋が、静かになった。
「私は、十里ほど離れたところにいました」
宗次は、そう言った。
「訴えが出たと知ったのは、死んだ後です」
宗次は、そう言った。
「間に合わなかったのではありません。知らなかったのです」
「三十日あれば、逃がせました」
宗次は、そう言った。
「私たちは、八十人以上おります。伝手もあります。金も、いくらかは集まります。……三十日あれば、あの人を、どこかへ移せました」
宗次は、そう言った。
「ですが、知りませんでした」
宗次は、そう言った。
「誰が、どこにいるか、わからないからです」
宗次は、そう言った。
「間宮さん。私が欲しいのは、それだけです」
宗次は、そう言った。
「誰が、どこにいるか。それを、一箇所に集めておきたい。……そうすれば、次に誰かが捕まったとき、間に合うかもしれない」
宗次は、そう言った。
「間に合わないかもしれません。ですが、今のままでは、必ず、間に合いません」
直也は、しばらく、黙っていた。
そして、こう言った。
「宗次どの。一つ、申し上げてよろしいか」
「どうぞ」
「私の帳面は、居場所の帳面ではありません」
直也は、そう言った。
「そこに書いてあるのは、三年のあいだに、この関所を通った者の、その一晩のことです」
直也は、そう言った。
「三年前に、この関所を通った者が、今どこにいるかは、私は知りません。一人も、知りません」
直也は、そう言った。
「名簿としては、使えません」
宗次は、頷いた。
「わかっています」
「わかっておられる?」
「はい」
宗次は、そう答えた。
「藤原さんから、中身は聞いています。……居場所は書いていない。書いてあるのは、名前と、素性と、その夜に話したことだけだと」
宗次は、そう言った。
「それでも、欲しいのです」
「なぜです」
宗次は、少し、間を置いた。
そして、こう言った。
「二十四人が、確かにいた、という証拠だからです」
「私たちは、記録を持っていません」
宗次は、そう言った。
「一つも、持っていません」
宗次は、そう言った。
「私たちは、この時代には、存在しないことになっています。戸籍もない。宗門改にも載っていない。名前も、みんな偽名です」
宗次は、そう言った。
「木村和美さんが死んだとき、私は、あの人のことを、どこにも書けませんでした」
宗次は、そう言った。
「墓は、村の無縁墓です。名は、刻まれていません。刻めば、身元を調べられますので」
宗次は、そう言った。
「あの人が、四十二年生きて、子どもに漢字を教えて、母親の形見を大事にしていたということは、私の頭の中にしか、ありません」
宗次は、そう言った。
「私が死んだら、なくなります」
直也は、その言葉を、聞いた。
――ユスフと、同じことを言っている。
そう思った。
「あなたの帳面には、二十四人が、書いてあります」
宗次は、そう言った。
「名前が。素性が。何を考えていたかが」
宗次は、そう言った。
「この世で、唯一です」
宗次は、そう言った。
「間宮さん。あれは、名簿である前に、私たちの、ただ一つの記録です」
直也は、答えなかった。
答えられなかった。
宗次は、続けた。
「そして、ここからが、本題です」
宗次は、そう言った。
「あれは、この関所にあります」
宗次は、そう言った。
「この関所は、御上のものです。あなたは、御上の役人です」
宗次は、そう言った。
「三年前、検分の役人が来たと、藤原さんから聞きました」
直也は、頷いた。
「来ました」
「あのときは、どうにかなった」
「なりました」
「次は?」
直也は、答えなかった。
「間宮さん」
宗次は、そう言った。
その声は、静かだった。
だが、初めて、強かった。
「あの帳面が、一度でも、別の役人の手に渡ったら」
宗次は、そう言った。
「二十四人が、死にます」
宗次は、そう言った。
「その二十四人は、あなたに、そうしてくれと頼んでいません」
宗次は、そう言った。
「一人残らず、頼んでいないはずです」




