第54話 名簿―同じ紙が、誰の手にあるかで変わる―
「我ら、と言われましたね」
直也は、そう聞いた。
「はい」
「その『我ら』とは、何ですか」
忠太は、少し、間を置いた。
「名は、ござらぬ」
忠太は、そう答えた。
「組でもなければ、講でもござらぬ。……ただ、この時代に落ちてきた者どもが、互いを知っておる、それだけのものでござる」
忠太は、そう言った。
「それがしは、そのあいだを、歩いております」
「何人ほど、おられますか」
「数えたことは、ござらぬ」
忠太は、そう答えた。
「それがしが会うた者だけで、四十人ほど。会わぬ者を入れれば、その倍はおりましょう」
「八十人」
「あるいは、もっと」
直也は、その数を、聞いた。
自分が会ったのは、二十四人だ。
――三分の一にも、満たない。
「なぜ、互いを知ろうとするのですか」
直也は、そう聞いた。
「心細いからでござる」
忠太は、あっさりと、そう答えた。
「それだけでござる。……この時代に一人でおると、自分が狂うたのではないかと思えてまいります。一人でも、同じ者がおるとわかれば、それで、持ちます」
忠太は、そう言った。
「はじめは、それだけのものでござった」
「はじめは」
「はい」
忠太は、そう言った。
「近頃は、違うてまいり申した」
「どう、違うのですか」
「守りたがるようになり申した」
忠太は、そう言った。
「守る」
「はい」
忠太は、頷いた。
「この三年ばかりのあいだに、捕らえられた者が、何人か出申した」
忠太は、そう言った。
「言葉の訛りを咎められた者。異国の物を持っておった者。……一人は、切支丹と疑われて、死に申した」
忠太は、そう言った。
「死んだ者は、二十一世紀の、小学校の先生でござった。四十二の女でござる。切支丹ではござらぬ。ただ、十字の形をした飾りを、持っておっただけでござる」
直也は、目を伏せた。
「それが、我らの中で、話になり申した」
忠太は、そう言った。
「『誰がどこにおるかを、互いに知っておくべきだ』と」
忠太は、そう言った。
「『知っておれば、危ういときに、逃がせる』と」
「もっともです」
「もっともでござる」
忠太は、そう言った。
「それがしも、そう思い申した」
忠太は、そう言った。
「ですが、そこから、話が、妙な方へ行き申した」
「誰がどこにおるかを知っておくには、書き付けが要る」
忠太は、そう言った。
「口伝えでは、追いつき申さぬ。人は、動きますゆえ」
忠太は、そう言った。
「そこで、『名簿を作るべきだ』という話になり申した」
直也は、その言葉に、背を伸ばした。
「名簿」
「はい」
「誰が、言い出したのですか」
「宗次と申す者でござる」
忠太は、そう答えた。
「二十一世紀の日本から来た者で、元は、役所におったとか。四十半ばでござる」
忠太は、そう言った。
「頭の切れる男でござる。人を、よく動かします」
忠太は、そう言った。
「その宗次が、こう申しました。『関所の代官が、すでに帳面を作っている』と」
行灯が、揺れた。
直也は、動かなかった。
「私の帳面は、名簿ではありません」
直也は、そう言った。
「わかっており申す」
忠太は、そう答えた。
「それがしも、そう申しました。『あれは、名簿ではござらぬ。あの方が、忘れぬために書いておるだけのものだ』と」
忠太は、そう言った。
「ですが、宗次は、こう申しました」
忠太は、そう言った。
「『中身は、同じだ』と」
直也は、その言葉を、聞いた。
そして、しばらく、黙っていた。
「……同じですね」
直也は、そう言った。
「同じです。書いてあることは、同じです」
直也は、そう言った。
「誰が、いつ、どこを通り、何者で、何をしてきたか。……名簿にしようと思えば、そのまま、名簿になります」
直也は、そう言った。
「一晩あれば、書き写せます」
「宗次どのは、それを、何に使うつもりですか」
直也は、そう聞いた。
「守るためでござる」
忠太は、そう答えた。
「本人は、そう申しております。そして、それは、嘘ではござらぬ」
忠太は、そう言った。
「宗次は、あの小学校の先生と、親しゅうござった。あの者が死んだとき、いちばん取り乱したのが、宗次でござる」
忠太は、そう言った。
「あの男は、本気で、誰も死なせたくないと思うております」
「では、なぜ、あなたは、それを止めようとされるのですか」
直也は、そう聞いた。
忠太は、しばらく、答えなかった。
そして、こう言った。
「名簿は、必ず、漏れるからでござる」
「それがしは、飛脚でござる」
忠太は、そう言った。
「千年近く、文を運んでまいりました。……文というものが、どう扱われるかを、ずっと見てまいりました」
忠太は、そう言った。
「文は、届き申す。届いた後、どうなるか」
忠太は、そう言った。
「読まれ申す。写され申す。売られ申す。盗まれ申す。焼かれ申す」
忠太は、そう言った。
「守るために作った名簿が、十年後に、誰の手にあるか。それは、作った者には、決められませぬ」
忠太は、そう言った。
「宗次は、善き者でござる。ですが、宗次が死んだ後、その名簿を持つ者が、善き者とは限り申さぬ」
忠太は、そう言った。
「そのとき、その紙は、逃がすための紙ではなく、探し出すための紙になり申す」
直也は、その言葉を、腹の底で、受けた。
「同じ紙が」
「さよう」
忠太は、そう言った。
「同じ紙でござる。書いてあることは、一字も変わり申さぬ。……変わるのは、持つ者だけでござる」
長い沈黙があった。
外で、風が鳴っていた。
「藤原どの」
直也は、そう言った。
「はい」
「では、あなたは、私に、どうしろと」
忠太は、顔を上げた。
「二つ、道がござる」
忠太は、そう言った。
「一つ。焼くこと」
直也は、答えなかった。
「焼けば、誰も使えませぬ。宗次も、その後の誰も」
忠太は、そう言った。
「もう一つは」
「渡すことでござる」
忠太は、そう言った。
「宗次に渡し、我らで守る。……そのほうが、この関所に置いておくより、安全やもしれませぬ。あなたは、役人でござる。いつ、御上に調べられるやも知れませぬ」
忠太は、そう言った。
「どちらを選ばれても、それがしは、従い申す」
直也は、しばらく、動かなかった。
そして、立ち上がった。
「藤原どの。少し、お待ちください」
直也は、そう言って、部屋を出た。
そして、帳面を持って、戻ってきた。
忠太の前に、それを置いた。
「見てください」
「……よろしいので」
「どうぞ」
忠太は、帳面を、手に取った。
そして、いちばん後ろの頁を、開いた。
二十四行が、そこにあった。
忠太は、それを、読んだ。
速かった。飛脚の読み方だ。
十五行目のあたりで、忠太の手が、止まった。
「……これは」
「あなたです」
直也は、そう言った。
そこには、こう書いてあった。
「十五 藤原忠太と名乗りし者 寿永より前の世、平安の京の飛脚なりと申す。転移せし者どもの文を運ぶを役目とせり。行き先も目当ても知らずと申す。ただ運ぶのみと申す」
忠太は、その行を、長いこと、見ていた。
「……よく、覚えておいでで」
「毎晩、読んでおりますので」
直也は、そう答えた。
忠太は、頁を繰った。
そして、白い頁に、行き当たった。
一枚目。
「よって、ここに三十一人分を空けおく」
その下は、白い。
「これは」
「ある男が、名を知らずに殺させた者たちです」
直也は、そう答えた。
忠太は、頁を繰った。
二枚目。
「我が通せし者どもの先にありし者ども 名も数も知らず」
その下に、二行。
「なつ 十四さい むらは きたの みやのむら」
「この名は、姉のとよ、みずから記せり。三年、歩きて、この関所に至れり」
忠太の指が、そこで、止まった。
そして、動かなくなった。
長い時間、動かなかった。
「……代官どの」
「はい」
「宗次に、これは、わかり申さぬ」
忠太は、そう言った。
「わかりませんか」
「わかり申さぬ」
忠太は、そう言った。
「あの者が欲しがっておるのは、前の頁でござる。二十四行のほうでござる。……この白い頁は、あの者には、ただの紙でござる」
忠太は、そう言った。
「無駄でござる。書いても、誰も助からぬ。むしろ、こちらの頁を数えておるゆえ、二十四行のほうが、遅れる」
忠太は、そう言った。
「宗次なら、そう申しましょう」
「たぶん、そうでしょうね」
直也は、そう答えた。
「私も、そう思います」
「藤原どの」
直也は、そう言った。
「はい」
「私は、焼きません。渡しません」
忠太は、頷いた。
「……さようにござるか」
「はい」
「理由を、伺ってよろしいか」
直也は、少し、考えた。
そして、こう言った。
「この帳面は、読むためのものです」
直也は、そう言った。
「私が、毎晩、読みます。半刻と、四半刻ほどかかります。読み終えると、腹が重くなります。重くなって、寝ます」
直也は、そう言った。
「それだけのものです」
直也は、そう言った。
「渡せば、読まれません。読まれずに、使われます。……使うものは、名簿です。読むものは、帳面です」
直也は、そう言った。
「書いてあることは、同じです。ですが、毎晩読む者がいなくなった瞬間に、これは、名簿になります」
忠太は、直也を見ていた。
「焼けば、どうなり申す」
「白い頁が、なくなります」
直也は、そう答えた。
「なつの名が、なくなります」
直也は、そう言った。
「あの人は、三年歩いて、ここまで名前を運んできました。……私が焼けば、それを、私が捨てることになります」
直也は、そう言った。
「それは、できません」
忠太は、帳面を閉じた。
そして、両手で、直也のほうへ、押し戻した。
「承知いたし申した」
忠太は、そう言った。
「宗次には、そう伝え申す」
「伝えて、どうなりますか」
「怒りましょうな」
忠太は、そう答えた。
「そして、あの男は、諦め申さぬ」
忠太は、そう言った。
「先ほど申しました通り、宗次は、もう、こちらへ向かっております。それがしが早駆けで先回りいたしましたゆえ、あと、四日か五日は、かかりましょう」
忠太は、そう言った。
「来たら、どうなさる」
「通します」
直也は、そう答えた。
忠太が、目を上げた。
「……通される」
「通します」
直也は、そう言った。
「三年、そうしてまいりました。その者が何を持ってこようと、通します」
直也は、そう言った。
「ただ、帳面は、渡しません」
忠太は、少し、笑った。
「難しいことを、なさる」
「難しいですね」
直也は、そう答えた。
「ですが、通さずに済ますのは、もっと難しい」
「もう一つ、お聞かせ願いたい」
忠太は、そう言った。
「隠されぬので」
「隠しません」
直也は、そう答えた。
「なぜでござる。床下にでも埋めておけば、よろしかろう」
「隠せば、値打ちが出ます」
直也は、そう言った。
忠太の眉が、動いた。
「隠してあるものは、大事なものだと、誰でも思います」
直也は、そう言った。
「大事なものだと思われれば、奪いに来る者が、増えます」
直也は、そう言った。
「私は、この帳面を、机の上に置いておきます。誰でも、見られる場所に」
直也は、そう言った。
「宗次どのが来たら、お見せします。読んでいただきます。……そのうえで、渡しません」
忠太は、しばらく、直也を見ていた。
そして、こう言った。
「代官どの。それは、危のうござる」
「危ないでしょうね」
「奪われ申すぞ」
「奪われるかもしれません」
直也は、そう答えた。
「そのときは、私が下手だったということです」
翌朝。
忠太は、東へ帰っていった。
荷は、持っていなかった。
来たときと、同じだ。
「藤原どの」
「はい」
「粥を、もう一杯、持っていかれますか」
「もう結構でござる」
忠太は、そう答えた。
「あの娘御に、礼を申し上げておいてくだされ」
「弥生ですね。ご自分で言ってください」
直也は、そう言った。
「あそこにおります」
弥生は、井戸端にいた。
忠太は、そちらへ歩いていって、頭を下げた。
何か、言っていた。
弥生が、笑って、何か言い返した。
忠太が、また、頭を下げた。
その一連を、直也は、遠くから見ていた。
――名を呼ぶ。
田中が、旅人の名を呼ぶようになった。
それだけのことが、この半月で、関所を、少し変えた。
そして、それは、たぶん、とよという女が、一人、ここに来たからだった。
忠太は、街道を、東へ歩いていった。
歩幅が、広い。速い。
千年、歩いてきた者の歩き方だった。
その背中が見えなくなってから、田中が、言った。
「代官殿」
「うん」
「四、五日で、面倒な者が来るのでございますな」
「聞いていたか」
「障子越しに、少々」
田中は、そう言って、悪びれずに言った。
「山本と、二人で」
「そうか」
「代官殿」
田中は、そう言った。
「帳面は、机の上に置いておかれるので」
「置いておく」
「……よろしゅうございます」
田中は、そう言った。
「では、私と山本で、掃除をいたします」
「掃除」
「はい」
田中は、そう言った。
「大事な物が乗っておる机は、きれいにしておくものでございます」
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
いつもの頁に、こう書いた。
「飛脚 藤原忠太 東へ帰る 荷なし 通行」
そして、いちばん後ろの頁を開いて、二十四行を読んだ。
読み終えて、白い頁を開いた。
なつの名を、読んだ。
そして、閉じた。
直也は、その帳面を、机の真ん中に置いた。
隠さなかった。
それから、灯りを消した。
――四日か、五日。
来る者がいる。
その者は、この帳面を欲しがっている。そして、その者は、善い人間らしい。
善い人間が、善い目的で、欲しがっている。
――いちばん、厄介だな。
直也は、そう思った。
悪い者なら、断ればいい。
善い者を、断るのは、難しい。
そして、断る理由を、直也は、うまく言葉にできる自信が、なかった。
「読むものだ」と言った。
それが、どこまで通じるかは、わからない。
通じなければ、たぶん、奪われる。
それでも、机の上に置いておく、と直也は決めていた。
隠さない。
隠せば、値打ちが出る。
そして、隠したものは、いつか、自分でも読まなくなる。
直也は、そう思って、目を閉じた。
外では、風が、まだ鳴っていた。




