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異世界江戸転移小説「怪しい旅人たちと関所代官」  作者: 伝説の男前


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第52話 帳面を開く―三年目に、白い頁へ一つの名が入る―

その夜。


直也は、田中と山本を、呼んだ。


「話がある」


二人は、並んで座った。


「これから、あの女に、帳面を見せる」


田中の顔が、変わった。


「代官殿」


「わかっている」


「わかっておいでなら――」


「わかっている」


直也は、そう繰り返した。


「あの帳面には、お前たちの首も、かかっている」


直也は、そう言った。


「切支丹の十字を見なかったことにした。異国の名を書いた。人ならぬものを書いた。……全部、お前たち二人が、知っていて、黙っていたことだ」


直也は、そう言った。


「あの女が、どこかで喋れば、終わる」


田中は、唇を噛んでいた。


「だから、お前たちに、先に言う」


直也は、そう言った。


「嫌なら、止めろ。止めれば、やめる」


長い、沈黙があった。


山本が、先に、口を開いた。


「代官殿」


「うん」


「あの方の、足を見ました」


山本は、そう言った。


「盥の湯が、赤うなりました」


山本は、そう言った。


「……私は、止めません」


田中は、しばらく、黙っていた。


そして、顔を上げた。


「代官殿。一つだけ、お伺いいたします」


「なんだ」


「見せて、あの方は、妹御に会えますか」


「わからん」


直也は、そう答えた。


「たぶん、会えん」


「では、なぜ」


「知らせずに歩かせるのが、嫌になった」


直也は、そう言った。


「それだけだ」


田中は、そう聞いて、長く息を吐いた。


そして、こう言った。


「代官殿は、三年前なら、そうはなさいませんでしたな」


「そうだな」


直也は、そう答えた。


「三年前なら、知らんと言った」


田中は、頷いた。


「では、私も、止めません」


田中は、そう言った。


「その代わり、一つ、申し上げます」


「言え」


「見せるなら、全部、お見せなさいませ」


田中は、そう言った。


「半分見せるのが、いちばん、むごうございます」


とよは、行灯の傍に、座っていた。


足には、弥生が晒を巻いていた。


その巻き方が、丁寧だった。


「とよどの」


「はい」


直也は、その向かいに座った。


そして、膝の上に、関所帳を置いた。


「これは、この関所の帳面です」


直也は、そう言った。


「通った者を、書きつけております」


「はい」


「その、いちばん後ろの頁に、別のものを書いております」


直也は、そう言った。


「これから、それをお見せします」


直也は、そう言った。


「見た後で、あなたは、私を憎むかもしれません。役所に訴えるかもしれません。訴えれば、私は、罪になります。田中も、山本も、罪になります」


直也は、そう言った。


「それでも、お見せします」


とよは、直也を見ていた。


「……なぜ、そんなことを」


「知らせずに歩かせるのが、嫌になったからです」


直也は、そう答えた。


そして、帳面を、開いた。


とよは、字が読めた。


「なつに教えました」と、昼に言っていた。


教えられる程度には、読めるのだ。


直也は、いちばん後ろの頁を開き、五行目を、指した。


「五 中村商太と名乗りし者」


「これは」


「違います。次です」


直也は、指を、下げた。


とよの目が、その行を、追った。


そして、止まった。


「……高林」


直也は、頷いた。


その行には、こう書いてあった。


「十 高林二郎と名乗りし者」


そして、その下に、三年前の直也が書き足していなかったことを、後から書き加えた文言が、続いていた。


「この者、真の名を田代義久と申す。人を売り買いする商いを生業とせりと申す。この時代にてもその商いを広めんと申せり。我、これを一夜留め置き、翌朝通せり」


とよの指が、その紙に、触れた。


触れて、止まった。


「……通せり」


とよは、そう読んだ。


「通した、とは」


「通しました」


直也は、そう答えた。


「三年前の、秋です。ここを通しました」


直也は、そう言った。


「その男は、この関所で、一晩、私と話しました。人を売る商いを、この時代に広めると、自分で言いました」


直也は、そう言った。


「私は、それを聞いて、通しました」


とよは、動かなかった。


指を、紙に置いたまま、動かなかった。


「秋の、いつでございますか」


とよは、そう聞いた。


その声が、掠れていた。


直也は、前のほうの頁を、繰った。


そして、その日の記載を、探した。


見つけた。


「九月二十一日です」


直也は、そう答えた。


とよの、喉が、鳴った。


「なつが、いなくなったのは」


とよは、そう言った。


「九月の、二十六日でございます」


行灯が、揺れた。


誰も、何も言わなかった。


「五日」


とよは、そう言った。


「五日前でございます」


とよは、そう言った。


「代官さまが、通されて、五日後に、あの男は、私の村に来ました」


直也は、目を閉じなかった。


閉じては、いけない気がした。


「はい」


直也は、そう答えた。


「そうなります」


とよは、しばらく、動かなかった。


そして、両手を、畳についた。


そのまま、頭を下げた。


「――やめてください」


直也は、そう言った。


「なぜ、そんなことを」


「教えてくださいました」


とよは、そう言った。


頭を下げたまま、そう言った。


「三年、誰も、何も、教えてくれませんでした」


とよは、そう言った。


「宿場で聞いても、知らぬと言われました。役所で聞いても、そのような届けはないと言われました。……三年、私は、あの男が本当にいたのかどうかも、わからなくなっておりました」


とよは、そう言った。


「今、はじめて、書いてあるものを、見ました」


とよは、そう言った。


「あの男は、おりました」


とよは、顔を上げた。


その顔が、濡れていた。


三年ぶりの涙かもしれない、と直也は思った。


「おったのでございます」


直也は、その場から、動けなかった。


――憎まれるつもりだった。


殴られるか、罵られるか、そのどちらかだろうと思っていた。


そのつもりで、見せた。


それが、この女には、届いていない。


いや、届いていないのではない。


この女にとって、いちばん重かったのは、「誰が通したか」ではなかった。


「本当にいたのかどうか」だった。


三年、この女は、そこを疑いながら歩いていたのだ。


「とよどの」


直也は、そう言った。


「はい」


「私を、憎まないのですか」


とよは、涙を拭いた。


拭いてから、こう言った。


「憎んでも、なつは、戻りません」


とよは、そう言った。


「代官さまを憎むのに、力を使ったら、歩けなくなります」


とよは、そう言った。


「私には、あと何年、歩けるか、わかりませんので」


直也は、その言葉を、聞いた。


そして、この女は、自分より、はるかに先へ行っていると思った。


数えている。


自分に残っている年数を、数えている。


そして、その数の中に、憎しみの分は、入れない、と決めている。


「とよどの」


直也は、そう言った。


「はい」


「もう一つ、お見せするものがあります」


直也は、そう言って、帳面の、後ろのほうを繰った。


白い頁が、出てきた。


一枚目。サルヴァトーレの、三十一人分。


二枚目。


そこには、いちばん上に、一行だけ、書いてあった。


「我が通せし者どもの先にありし者ども 名も数も知らず」


その下は、白い。


「これは」


とよは、そう聞いた。


「私が通した者たちが、その先で傷つけた人たちのための頁です」


直也は、そう答えた。


「何人いるのか、わかりません。名も、わかりません。……ですから、空けてあります」


直也は、そう言った。


とよは、その白い紙を、見ていた。


「代官さま」


「はい」


「ここに、なつは、おりますか」


直也は、頷いた。


「おります」


「見えません」


「見えません」


直也は、そう答えた。


「名を、知りませんでしたので」


とよは、しばらく、その白い紙を見ていた。


そして、こう言った。


「書いていただけませんか」


直也は、筆を取った。


そして、とよのほうへ、差し出した。


「いえ、私は」


「あなたが書いてください」


直也は、そう言った。


「字が、下手でございます」


「かまいません」


とよは、筆を受け取った。


握り方が、ぎこちなかった。


長いこと、筆を持っていないのだ。


とよは、白い頁の、いちばん上の行の、すぐ下に、筆を置いた。


そして、三文字、書いた。


「な つ」


――二文字だった。


とよは、しばらく、その二文字を見ていた。


そして、その下に、もう少し、書き足した。


「十四さい むらは きたの みやのむら」


字が、大きかった。


行が、曲がっていた。


墨が、にじんでいた。


書き終えて、とよは、筆を置いた。


そして、また、頭を下げた。


「ありがとうございます」


「……とよどの」


「これで、なつは、おります」


とよは、そう言った。


「どこかにあるものに、なつの名が、載りました」


とよは、そう言った。


「三年、探しても見つかりませんでしたが、名前だけは、ここに、載りました」


とよは、そう言った。


「代官さま。私は、たぶん、なつには、会えません」


とよは、そう言った。


「わかっております。三年、歩いて、わかりました」


とよは、そう言った。


「ですが、あの子が、おらんかったことにだけは、したくないのでございます」


直也は、その夜、眠らなかった。


とよが寝てから、直也は、一人で、帳面を開いていた。


白い頁の、いちばん上に、その二文字があった。


なつ。


白い頁に、初めて、名前が入った。


三年かかった。


――一人だ。


直也は、そう思った。


たった、一人だ。


この頁には、何人いるのかもわからない。十人かもしれないし、千人かもしれない。


そのうちの、一人。


しかも、その一人は、直也が見つけたのではない。


その姉が、三年歩いて、ここまで運んできた名前だ。


直也が、二歩の外を数えたのではない。


二歩の外から、誰かが、歩いて、こちらへ来たのだ。


――そういうものかもしれない。


直也は、そう思った。


自分から数えに行くことは、たぶん、できない。


だが、来た者を、受け取ることは、できる。


受け取るためには、白い頁を、開けておかなければならない。


――開けておくために、書いたのだな。


三月前、白い頁を作ったとき、直也は、なぜそうするのかを、うまく説明できなかった。


今、少しだけ、わかった。


空けておかないと、入らないのだ。


翌朝。


とよは、早くに起きていた。


弥生が、草鞋を三足、用意していた。


「これ、持っていきなさい」


「そんな、いただけません」


「うちの人が編んだのよ。下手だけど、丈夫」


弥生は、そう言った。


「足、また割れるから。割れたら、休みなさい。休まないと、歩けなくなるんだから」


とよは、その草鞋を受け取って、深く頭を下げた。


田中が、手形に印を押した。


「とよどの」


「はい」


田中は、印を押しながら、少し、迷った顔をした。


そして、こう言った。


「西へ行かれるなら、大坂の口入屋を、お訪ねなさい」


田中は、そう言った。


「勘助と申す者が、おります。六十を過ぎた、小柄な男でございます。若い衆を、三人、連れております」


田中は、そう言った。


「あの手の商いのことは、あの手の者が、いちばんよく知っております」


直也は、その言葉に、顔を上げた。


田中は、直也を見ずに、続けた。


「悪い男ではございません。……いや、悪い男かもしれませんが、拾った者の名は、覚えております」


田中は、そう言った。


「訪ねて、無駄かもしれません。ですが、一つ、あてがあるのと、ないのとでは、歩き方が違いましょう」


とよは、その名を、口の中で、二度繰り返した。


「勘助さま。大坂の、口入屋」


「そうです」


「覚えました」


とよは、そう言った。


とよは、街道を歩いていった。


新しい草鞋の音が、乾いた地面に、規則正しく鳴っていた。


その背中が、見えなくなってから、田中が、ぽつりと言った。


「代官殿」


「うん」


「私は、余計なことを申しましたか」


「いや」


直也は、そう答えた。


「よく覚えていたな」


「名を、呼ばれましたので」


田中は、そう言った。


「あの、口入屋の親方に、名を呼ばれました。……私は、名を呼ばれると、覚えてしまいます」


田中は、そう言って、少し笑った。


「性分でございます」


その日の夜。


直也は、関所帳を開いた。


いつもの頁に、こう書いた。


「北の宮の村 とよ 三十一 西へ 通行」


そして、いちばん後ろの頁を、開いた。


二十四行が、そこにある。


直也は、その下に、筆を置きかけて、止めた。


二十五行目は、書かなかった。


とよは、転移者ではない。


この時代に生まれ、この時代を歩き、この時代を捜している人だ。


書く場所が、違う。


直也は、頁を繰った。


そして、白い頁を開いた。


「なつ 十四さい むらは きたの みやのむら」


その、曲がった字の、下に。


直也は、小さく、こう書き足した。


「この名は、姉のとよ、みずから記せり。三年、歩きて、この関所に至れり」


書き終えて、直也は、筆を置いた。


そして、しばらく、その頁を見ていた。


白い頁に、二行。


まだ、ほとんど白い。


だが、白いだけではなくなった。


直也は、二十四行を、はじめから読んだ。


そして、最後に、白い頁を開いて、二行を読んだ。


読み終えて、灯りを消した。


その夜、直也は、久しぶりに、よく眠った。


なぜよく眠れたのか、自分でも、わからなかった。


何も、解決していない。


なつは、見つかっていない。田代義久は、どこかで商いを続けている。とよは、また、あてのない道を歩いている。


何一つ、よくなっていない。


ただ、白い紙に、名前が、二つ、載った。


それだけだ。


それだけだが、直也は、眠れた。

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