第51話 捜す人―はじめて、この時代の者が関所に来た―
神谷恵三郎が雪の道をまっすぐ歩いていってから、ひと月が過ぎた。
雪は、まだ残っていた。
その朝、直也は、いつもより早く目を覚ました。
理由はない。ただ、目が覚めた。
起きて、火を熾し、湯を沸かした。弥生が来る前に、自分で湯を沸かすのは、久しぶりだった。
そして、湯が沸くまでのあいだ、直也は、関所帳を開いた。
夜に読むものを、朝に開くのは、初めてだった。
二十四行。
読むのに、半刻と、四半刻。
読み終えた頃、ちょうど、湯が沸いた。
――三年か。
直也は、そう思った。
この関所に来て、三年が経とうとしていた。
四十二で来て、四十六になった。
二十四人と話した。二十四人、全員、通した。
そして、何も、変わっていない。
神谷に、そう言われた。その通りだと、直也も思った。
だが、それでも、毎晩読んでいる。
読んでいることに、意味があるのかどうかは、わからない。
――たぶん、ないのだろうな。
そう思いながら、直也は、湯を注いだ。
その日の昼に、その女が来た。
昼を、少し過ぎた頃だった。
街道の向こうから、一人、歩いてくる影があった。
女だった。
小柄だ。細い。着物は、色が抜けている。もとは藍だったものが、洗いすぎて、鼠色になっている。
継ぎが、当たっていた。膝のところと、肘のところ。その継ぎの布が、着物と合っていない。ありあわせで、当てたのだ。
荷は、小さな風呂敷包みが一つ。
草鞋が、切れかかっていた。
「代官殿」
田中が、そう言った。
「難儀しておるようでございます」
「そうだな」
女は、関所の前で、足を止めた。
そして、頭を下げた。
「通行を、お願い申します」
その声は、細かった。
だが、はっきりしていた。
言葉に、訛りがあった。北のほうの訛りだ、と直也は思った。三年もいれば、それくらいは、わかるようになる。
「手形は」
女は、懐から、手形を出した。
折り目が、ついていた。何度も折って、何度も広げた折り目だ。紙が、毛羽立っている。
直也は、それを受け取った。
村役人の印。名は「とよ」。三十一歳。
――この時代の者だ。
直也は、そう思った。
なぜそう思ったのか、すぐには、言葉にならなかった。
だが、確かに、そう思った。
これまで二十四人、直也は、転移者を見てきた。彼らには、共通するものがあった。
この女には、それがない。
歩き方。手形の持ち方。頭の下げ方。草鞋の切れ方。着物の継ぎの当て方。
全部が、この土地のものだった。
「とよどの」
「はい」
「どちらへ、行かれますか」
「西へ」
「西のどちらです」
女は、答えなかった。
答えないのではない。答えられないのだ、と直也は思った。
「……わかりません」
とよは、そう答えた。
「わからない」
「はい」
とよは、そう言った。
「行ってみないと、わかりません」
「商いですか」
直也は、そう聞いた。
「いいえ」
「ご親族に会いに」
「……そのようなものです」
とよは、そう答えた。
その「そのようなもの」が、引っかかった。
直也は、その顔を、見た。
三十一と、手形にはある。だが、四十に見えた。
日に焼けている。手が、荒れている。指の節が、太い。
そして、目の下が、落ち窪んでいた。
疲れの窪み方ではない、と直也は思った。
これは、眠っていない者の窪み方だ。それも、一日や二日ではない。
「とよどの」
直也は、そう言った。
「はい」
「いつから、歩いておられますか」
とよの顔が、はじめて、上がった。
そして、直也を、見た。
「……三年になります」
奥の部屋に、上がってもらった。
とよは、上がるのを、ひどく嫌がった。
「お役人さまの部屋に上がるような者では」
「かまいません」
直也は、そう言った。
「足を、見せてください」
とよは、動かなかった。
「代官さま」
「はい」
「私は、何か、いたしましたか」
「いいえ」
直也は、そう答えた。
「何も、されておりません」
直也は、そう言った。
「ただ、その足では、峠を越えられません。今日は、ここで休んでいただきます」
とよは、しばらく、直也を見ていた。
そして、深く、頭を下げた。
その頭が、畳についた。
弥生が、湯を張った盥を持ってきた。
とよの足は、ひどかった。
親指の爪が、二枚、剥がれていた。剥がれたまま、放ってある。踵が、割れている。割れ目に、土が入っていた。
「なんてこと」
弥生が、そう言った。
「あんた、これ、痛くないの」
「痛みます」
とよは、そう答えた。
「痛みますが、慣れました」
弥生は、それ以上、何も言わなかった。
黙って、足を洗い始めた。
直也は、その向かいに座って、待った。
「とよどの」
「はい」
「三年、歩いておられると言われました」
「はい」
「何を、捜しておられますか」
とよの手が、膝の上で、動いた。
そして、こう答えた。
「妹を」
「なつ、と申します」
とよは、そう言った。
「私と、十四、歳が離れております。私が、育てました」
とよは、そう言った。
「母が、なつを産んですぐに、亡くなりましたので」
とよは、そう言った。
「父は、なつが六つのときに、死にました」
弥生の手が、止まった。
そして、また、動き出した。
「三年前の、秋のことでございます」
とよは、そう言った。
「不作の年でございました。村に、人買いが参りました」
とよは、そう言った。
「珍しいことでは、ございません。不作の年には、来ます。村の者も、何人か、子を売りました」
とよは、そう言った。
「私は、売りませんでした」
とよは、そう言った。
「売るくらいなら、二人で死のうと思っておりました」
とよは、そう言った。
「なつが、十四のときでございます」
「ある朝、なつが、おりませんでした」
とよは、そう言った。
「置き手紙が、ございました。字が、下手でございました。私が、教えましたので」
とよは、そう言った。
「『ねえちゃん、ごめん』と、それだけ」
部屋が、静かになった。
盥の湯が、揺れる音だけがした。
「……自分から、行ったのですか」
直也は、そう聞いた。
「そうだと思います」
とよは、そう答えた。
「私が、痩せてまいりましたので。……あの子は、そういう子でございます」
とよは、そう言った。
「私を、助けたつもりでございます」
とよは、そう言った。
「馬鹿な子でございます」
その声が、平らだった。
泣いていなかった。
たぶん、三年前に、泣き終わったのだろう、と直也は思った。
「それから、三年、捜しておられるのですね」
「はい」
「手がかりは」
「ございます」
とよは、そう答えた。
「村に来た人買いの、顔を、見ております」
とよは、そう言った。
「近くの宿場で、名を聞きました。『高林の旦那』と呼ばれておりました」
直也の背中が、冷えた。
「……高林」
「はい」
とよは、そう言った。
「高林二郎、と申すそうでございます」
弥生が、顔を上げた。
直也の顔を見て、何かを言いかけて、やめた。
「代官さま」
とよは、そう言った。
「ご存じで」
直也は、答えなかった。
答えられなかった。
「……どのような、男でしたか」
ようやく、そう聞いた。
「五十ほどでございます」
とよは、そう答えた。
「太っておりました。顔の色が、よい男でございました。着物が、立派でございました」
とよは、そう言った。
「若い衆を、五人ばかり、連れておりました」
とよは、そう言った。
「言葉が、少し、変わっておりました」
「変わっている、とは」
「上手すぎるのでございます」
とよは、そう言った。
「村の者に話しかけるときの言葉が、上手すぎました。よそ者が、よそ者と思われぬように喋っている、そういう喋り方でございました」
直也は、目を閉じた。
――三年前。
田代義久。
人を売る商いを、この時代に持ち込むと言った男。
一晩、話をした。
そして、通した。
帳面には、こう書いた。
「高林二郎」
その名は、直也が、その場で作ったものだった。
「代官さま」
とよは、そう呼んだ。
直也は、目を開けた。
「はい」
「その男を、ご存じでございますか」
直也は、その女の顔を、見た。
三年、歩いた顔だった。
爪が二枚剥がれて、踵が割れて、それでも歩いてきた顔だった。
嘘を、つくことはできた。
知らないと言えば、それで終わる。この女は、明日、西へ向かい、また、あてのない道を歩く。
そして、直也は、何も失わない。
――二歩の外。
サルヴァトーレの言葉が、浮かんだ。
――代官さまも、二歩の外を、数えてくださいませ。
この女は、二歩の外ではない。
目の前にいる。
だが、この女の妹は、二歩の外だ。
三年前、直也が数えなかった、その外側に、いる。
「とよどの」
直也は、そう言った。
「はい」
「今夜、少し、お話を伺ってよろしいか」
とよは、頷いた。
「私のほうこそ、お願い申します」
「それから」
直也は、そう言った。
「一つ、お見せしたいものがございます」




