第50話 一つの名―数で人を扱ってきた男が、二十年黙っていたこと―
その夜。
雪が、少し、降り始めていた。
直也は、火鉢を持って、その部屋へ行った。
サルヴァトーレのときに一度持ち出して以来、二度目だ。
神谷は、窓際に座って、外を見ていた。
雪を見ているのではない。
ただ、外に顔を向けているだけだった。
「火鉢を」
「恐れ入ります」
神谷は、そう言って、手をかざした。
かざして、すぐに、下ろした。
寒くはないらしい。作法として、かざしただけだ。
「昼の続きを、伺ってよろしいか」
直也は、そう切り出した。
「どうぞ」
「あなたは、私を、知っておられた」
「はい」
「どこまで、ご存じですか」
神谷は、少し、間を置いた。
「奥様が総理でいらしたこと。ご主人が、その、勤めに出ておられなかったこと」
神谷は、そう言った。
「週刊誌が、ずいぶん、書いておりました」
「そうでしょうね」
直也は、そう答えた。
自分でも、驚くほど、平気だった。
三年前なら、この一言で、丸一日、動けなくなったはずだ。
「あなたは、それを読んで、どう思われましたか」
直也は、そう聞いた。
「材料になる、と思いました」
神谷は、そう答えた。
その答え方に、悪びれたところは、なかった。
「使われましたか」
「使いました」
神谷は、そう言った。
「二度ほど、こちらの議員に、質問をさせております。……直接ではありません。『総理は、身内のことすら』という言い方で」
神谷は、そう言った。
「効きました」
直也は、その言葉を、聞いた。
自分の名が、国会で、そういうふうに使われたことを、直也は知らなかった。
知らなかったが、驚かなかった。
「あなたは、何をなさっていた方ですか」
直也は、そう聞いた。
神谷は、少し、間を置いた。
そして、名乗った。
「神谷恵三郎。前の、内閣官房長官でございます」
「内閣官房長官」
直也は、その言葉を、繰り返した。
「はい」
「妻の、政敵ですか」
「政敵という言い方は、正確ではございません」
神谷は、そう答えた。
「同じ党におりました。派閥が、違っただけです」
神谷は、そう言った。
「奥様が総理になられて、私は、官房長官に入りました。……表向きは、挙党態勢でございます。実際は、監視でございました」
神谷は、そう言った。
「私は、奥様の政権を、内側から止める役目でした。そして、次に、自分が立つつもりでおりました」
「立てましたか」
「立てませんでした」
神谷は、そう答えた。
「三年前、選挙で落ちました」
神谷は、そう言った。
「三十一年、議席を持っておりました。それが、なくなりました」
「それで、この時代へ」
直也は、そう促した。
「はい」
神谷は、頷いた。
「落ちた翌年でございます。ある者が、私の事務所に参りました。『別の時代へ行けます』と申しました」
「行かれた」
「行きました」
神谷は、そう答えた。
「私は、五十九でございました。政治家として、終わっておりました。……日本では、もう、何もできません」
神谷は、そう言った。
「ですが、四百年前でしたら」
神谷は、そこで、初めて、身を乗り出した。
「四百年前でしたら、私の知っていることは、全部、新しゅうございます」
「何を、なさるおつもりですか」
直也は、そう聞いた。
神谷は、行李を、引き寄せた。
そして、紐を解いた。
中には、書き付けが、詰まっていた。
紙が、隙間なく、積まれている。上等な紙ではない。安い、粗い紙だ。だが、量が、多い。
「四年、書いております」
神谷は、そう言った。
「何をですか」
「制度でございます」
神谷は、そう答えた。
「年貢の取り方。飢饉のときの蔵の開け方。銭の回し方。訴えの受け方。……この時代の藩が、明日から使えるものを、書いております」
神谷は、そう言った。
「二百年後、三百年後に、この国が何で躓くかを、私は知っております。知っている者が、先回りして書いておけば、躓かずに済むかもしれません」
神谷は、そう言った。
「これが、私の、最後の仕事でございます」
直也は、その紙の束を、見ていた。
「藩は、聞きますか」
「聞きません」
神谷は、あっさりと、そう答えた。
「四年で、十一の藩を回りました。話を聞いてくださったのは、三つ。実際に何かを変えたのは、一つ。それも、蔵の帳面の付け方を、少し変えただけでございます」
神谷は、そう言った。
「ですが、続けます」
「なぜです」
「一つ変われば、そこに住む者、全部が変わりますので」
神谷は、そう言った。
「蔵の帳面の付け方が変われば、飢饉のとき、蔵が開くのが、三日早くなります。三日早ければ、何人か、死なずに済みます」
神谷は、そう言った。
「何人かは、わかりません。十人かもしれませんし、百人かもしれません。……ですが、必ず、おります」
直也は、しばらく、黙っていた。
そして、言った。
「神谷どの。私は、この関所で、二十三人を通しました」
「伺っております」
「伺っている?」
「宿場で、噂を聞きました」
神谷は、そう言った。
「あの関所の代官は、誰も咎めない、と」
神谷は、そう言った。
「代官さま。無礼を承知で、申し上げてよろしいか」
「どうぞ」
「あなたのなさっていることは、何も変えておりません」
神谷は、そう言った。
「二十三人と、一晩ずつ話をなさった。名を覚え、帳面にお書きになった。……たいへんな労苦だと存じます」
神谷は、そう言った。
「ですが、それで、何人が救われましたか」
直也は、答えなかった。
「一人も、救われておりません」
神谷は、そう言った。
「むしろ、あなたが通したことで、傷ついた者が、おるはずでございます。人を売る者を通し、毒を運ぶ者を通されたと聞きました」
神谷は、そう言った。
「私が蔵の帳面を一つ変えれば、次の飢饉で、何人か死なずに済みます。あなたが二十三人と語り明かしても、誰も死なずには済みません」
神谷は、そう言った。
「数が、正しいのでございます」
直也は、その言葉を、まっすぐ受けた。
そして、しばらく考えて、こう言った。
「その通りだと思います」
神谷が、直也を見た。
「……反論なさらないので」
「できません」
直也は、そう答えた。
「あなたの言われることは、正しい。私のしてきたことは、何も変えていない。……たぶん、悪いほうに、少し変えました」
直也は、そう言った。
「私は、それを、二年半かけて、認めるようになりました」
神谷は、しばらく、直也を見ていた。
そして、こう言った。
「では、なぜ、お続けになるのですか」
「わかりません」
直也は、そう答えた。
「わかりませんが、やめると、たぶん、私は、名前を覚えなくなります」
その一言に、神谷の顔が、変わった。
わずかに、だが、はっきりと、変わった。
火鉢の炭が、鳴った。
雪が、少し、強くなっていた。
「神谷どの」
直也は、そう言った。
「はい」
「あなたは、昼、こう言われました。人の名が、頭に残らないと」
「はい」
「数は、一度で覚えるのに、名だけは残らない、と」
「はい」
直也は、少し、間を置いた。
そして、聞いた。
「本当に、一つも、残っていませんか」
神谷は、答えなかった。
炭が、また、鳴った。
「代官さま」
「はい」
「その問いは、何のためのものでございますか」
「わかりません」
直也は、そう答えた。
「聞いてみただけです。私は、この関所で、そればかりしております」
神谷は、湯呑みを、見ていた。
長い、長い時間、見ていた。
そして、口を開いた。
「一つ、ございます」
「十九年前でございます」
神谷は、そう語り始めた。
「私は、当時、厚生の政務官をしておりました。ある制度の、見直しをいたしました」
神谷は、そう言った。
「難しい話ではございません。ある助けの金を、受け取れる条件を、少し、厳しくいたしました」
神谷は、そう言った。
「不正が、多うございました。受け取るべきでない者が、受け取っておりました。それを、締めるための見直しでございます」
神谷は、そう言った。
「試算では、不正が、七割、減る見込みでした。実際に、六割ほど、減りました」
神谷は、そう言った。
「よい仕事でございました。今でも、そう思っております」
直也は、黙って聞いていた。
「その半年後、事務所に、手紙が参りました」
神谷は、そう言った。
「封筒に、鉛筆で、宛名が書いてございました。字が、うまくありませんでした」
神谷は、そう言った。
「中に、便箋が、二枚。……娘が死んだ、と書いてございました」
火鉢の炭が、白くなっていた。
「その方の娘さんは、病を持っておられました。制度が変わって、受け取れなくなりました。書類が、揃わなかったのだそうでございます」
神谷は、そう言った。
「揃えられなかったのではなく、揃え方が、わからなかったのだそうでございます」
神谷は、そう言った。
「私は、その手紙を、一度、読みました」
神谷は、そう言った。
「そして、燃やしました」
直也は、動かなかった。
「なぜ、燃やされたのですか」
「置いておけないと、思いました」
神谷は、そう答えた。
「あの手紙を机に置いておいたら、私は、次の仕事ができません」
神谷は、そう言った。
「制度の見直しは、まだ、いくつも控えておりました。どれも、やれば、誰かが困ります。やらなければ、もっと多くが困ります」
神谷は、そう言った。
「私は、やる側の人間でございました。ですから、燃やしました」
神谷は、そう言った。
「燃やして、忘れることに、いたしました」
「忘れられましたか」
直也は、そう聞いた。
神谷は、答えなかった。
そして、しばらくして、こう言った。
「名前だけ、残りました」
雪が、屋根から落ちる音がした。
「私は、人の名を覚えられません」
神谷は、そう言った。
「三十一年、議員をやって、支援者の名も、秘書の名も、覚えられませんでした。全部、手帳を見ておりました」
神谷は、そう言った。
「その私が、十九年、一度も見返していない手紙の、差出人の名を、覚えております」
神谷は、そう言った。
「なぜだかは、わかりません」
直也は、静かに、聞いた。
「その方の、お名前は」
神谷は、答えなかった。
長く、答えなかった。
「代官さま」
「はい」
「私は、それを、十九年、口に出したことがございません」
神谷は、そう言った。
「妻にも、秘書にも、誰にも」
「なぜです」
「口に出すと」
神谷は、そう言った。
「口に出すと、私が、間違っていたことになりますので」
神谷は、そう言った。
「私は、間違っておりません。あの見直しは、正しゅうございました。今でも、そう思っております。……ですが、名を口にすると、それが、崩れます」
神谷は、そう言った。
「一人の名は、六割の不正より、強うございます」
直也は、しばらく、何も言わなかった。
そして、こう言った。
「神谷どの。あなたは、正しかったのだと思います」
神谷が、顔を上げた。
「私には、政のことは、わかりません」
直也は、そう言った。
「六割の不正が減ったのが、よいことなのか、悪いことなのか、判じられません。たぶん、よいことだったのでしょう」
直也は、そう言った。
「ですから、あなたが間違っていたとは、申しません」
直也は、そう言った。
「ただ、一つだけ、申し上げます」
「なんでございましょう」
「正しいことをして、人が死ぬことは、あります」
直也は、そう言った。
「そのとき、その人が死んだという事実は、あなたが正しかったことで、消えません」
直也は、そう言った。
「二つとも、残ります。あなたが正しかったことと、その方の娘さんが死んだこと。……どちらかが、どちらかを消すことは、ありません」
神谷は、動かなかった。
「あなたは、その二つを、両方持っていられなかったのだと思います」
直也は、そう言った。
「だから、燃やされた。……ですが、名前だけは、残った」
直也は、そう言った。
「十九年、あなたは、片方だけ、持っておられたのです」
長い沈黙があった。
雪の音だけが、していた。
「代官さま」
神谷が、そう言った。
その声が、掠れていた。
「はい」
「もし、私が、その名を申し上げましたら」
「はい」
「あなたは、どうなさいますか」
「書きます」
直也は、そう答えた。
「帳面に」
「はい」
「誰が、読みますか」
「誰も読みません」
直也は、そう言った。
「私が、毎晩、読みます。それだけです」
神谷は、しばらく、直也を見ていた。
そして、こう言った。
「……それで、十分でございます」
そして、その名を、口にした。
翌朝。
雪が、二寸ほど積もっていた。
神谷は、行李を背負って、関所の前に立った。
その行李は、来たときと、同じ重さのはずだった。
田中が、手形に印を押した。
「神谷どの。道中、お気をつけて」
「ありがとうございます」
神谷は、そう言って、頭を下げた。
そして、顔を上げて、こう言った。
「田中どの」
田中が、驚いた顔をした。
「……は」
「昨日は、お名前を覚えず、失礼をいたしました」
神谷は、そう言った。
「田中どの。山本どの。……お世話になりました」
田中と山本が、慌てて、頭を下げた。
神谷は、直也の前に立った。
「代官さま」
「はい」
「昨夜のことは、忘れてくださって、けっこうでございます」
「忘れません」
直也は、そう答えた。
「書きましたので」
神谷は、少し、笑った。
その笑い方は、昨日までのこの男には、なかったものだった。
「では、参ります」
「どちらへ」
「西へ」
神谷は、そう答えた。
「まだ、回っていない藩が、いくつかございます。……蔵の帳面の付け方を、説いて回ります」
神谷は、そう言った。
「私は、私のやり方を、変えません」
「変えなくてよいと思います」
直也は、そう答えた。
「私も、変えませんので」
神谷は、雪の道を、歩いていった。
その足跡が、まっすぐ、一直線に伸びていた。
田中が、それを見送りながら、ぽつりと言った。
「代官殿」
「うん」
「あのお方は、関所を減らせと申されました」
「言ったな」
「私は、それを聞いて、腹が立ちました」
田中は、そう言った。
「腹が立ちましたが、……道理ではございますな」
「道理だな」
直也は、そう答えた。
「道理でございます」
田中は、そう言って、雪を、下駄で踏んだ。
「ですが、名を呼んでくださいました」
田中は、そう言った。
「それで、まあ、よしといたします」
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
いつもの頁に、こう書いた。
「儒者 神谷恵三郎 諸藩遊説のため 西へ 通行」
そして、いちばん後ろの頁を、開いた。
二十三行の下に、二十四行目を書いた。
「二十四 神谷恵三郎と名乗りし者 後の世にて政を執りし者なりと申す」
そして、続けた。
「この者、人の名を覚うること能わず。数と日付は一度にて覚ゆと申す。今は諸藩を回り、後の世の制度を書きて説きおる。四年にて十一藩、聞き入れたるは三藩、改めたるは一藩のみと申す」
そこで、直也は、筆を止めた。
そして、行を改めた。
「されどこの者、ただ一つの名を覚えおれり」
そう書いて、直也は、また止まった。
しばらく、筆を持ったまま、動かなかった。
そして、書いた。
その名を、書いた。
続けて、こう書いた。
「十九年前、この者の改めし制度により、この者の娘、助けを受くること能わずして死せりと申す。文を寄こせしを、この者、一度読みて焼きたりと申す」
そして、最後に、こう書いた。
「この者、十九年、この名を口に出さざりき。今宵、初めて申せり」
書き終えて、直也は、筆を置いた。
そして、その一行を、見ていた。
――二十四人。
三年で、二十四人。
はじめの十七人は、名を偽って書いた。
その後の七人は、名を書いた。
そして、今日、初めて、旅人ではない者の名を、書いた。
通っていない人の名を、書いた。
十九年前に死んだ、会ったこともない、娘の母の名を。
直也は、その頁を、しばらく見ていた。
それから、二つ先の、白い頁を開いた。
「よって、ここに三十一人分を空けおく」
その白い頁を、見た。
そして、思った。
――ここにも、名前が、あるはずなのだ。
サルヴァトーレの三十一人にも、名前がある。
自分の通した先の、知らない者たちにも、名前がある。
一つも、わからない。
たぶん、一生、わからない。
だが、今日、一つだけ、増えた。
直也は、帳面を閉じた。
そして、灯りを消す前に、もう一度、二十四行を、はじめから読んだ。
読み終えるのに、半刻と、四半刻ほどかかった。
長くなった、と直也は思った。
長くなったぶん、少しずつ、重くなっている。
その重さを、直也は、腹の底に置いた。
置いてから、灯りを消した。
外は、まだ、雪が降っていた。




