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異世界江戸転移小説「怪しい旅人たちと関所代官」  作者: 伝説の男前


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第49話 名を覚えぬ儒者―数でものを言う旅の学者―

サルヴァトーレの一行が霜の道を去ってから、二月が過ぎた。


その二月、直也は、毎晩、あの二つの白い頁を見ていた。


一つ目には、こう書いてある。


「よって、ここに三十一人分を空けおく」


その下は、白い。


二つ目には、こう書いてある。


「我が通せし者どもの先にありし者ども 名も数も知らず」


その下も、白い。


読むものが、増えたわけではない。白い頁には、読むものがない。


それでも、直也は、毎晩、その二頁を開いた。


開いて、しばらく、見る。


そして、閉じる。


――何をしているのだろうな。


ある夜、直也は、そう思った。


何もしていない。ただ、白い紙を見ているだけだ。


だが、白い紙を見ていると、そこに何もないことが、はっきりする。


はっきりすると、忘れられない。


たぶん、それでいいのだろう、と直也は思った。


正月が明けて、間もない頃だった。


雪が、まだ道の端に残っていた。


昼前に、街道の向こうから、一人の男が歩いてきた。


年の頃は、六十前後。


痩せている。背は、高くも低くもない。


着物は、地味だが、上等だった。羽織は、黒に近い茶。袴を穿いている。


――侍ではないな。


直也は、そう思った。


袴は穿いているが、腰に何もない。両刀を差していない。差していた者が外した歩き方でもない。


そして、背中に、大きな行李を背負っていた。


その行李が、重そうだった。だが、荷崩れしていない。詰め方が、上手い。


「通行を、お願いいたします」


男は、そう言って、往来手形を差し出した。


その声は、明瞭だった。


聞き取りやすい。喋り慣れている。人前で話すことを、長くしてきた者の声だ。


だが、ダニエル・オルセンの声とは、違った。


ダニエルの声は、感情を運ぶ声だった。


この男の声は、内容を運ぶ声だった。


「神谷どの、とお読みしますか」


「はい。神谷、恵三郎と申します」


「ご職業は」


「儒者でございます」


男は、そう答えた。


「諸国の御藩を回り、藩政のことについて、いささか、お話し申し上げております」


「藩政」


「はい。財政、年貢の掛け方、蔵の仕組み。……そういったことでございます」


その返答に、破綻はなかった。


この時代、藩を渡り歩いて改革を説く学者は、いる。珍しくはない。


「ご苦労なことでございますな」


田中が、そう言った。


「この雪の中を」


男は、田中を見た。


そして、頷いた。


「お役目、ご苦労さまでございます」


その返答は、丁寧だった。


丁寧だったが――田中を、見ていなかった。


顔は、田中に向いている。だが、目が、田中を通り抜けていた。


直也は、それに、気づいた。


荷改めのあいだ、その男は、関所の中を、見回していた。


不審な見方ではない。


観察している見方だった。


「代官さま」


男は、そう呼んだ。


「はい」


「立ち入ったことをお伺いしますが、この関所は、日に何人ほど、通りますか」


「日によりますが、十人から、二十人ほどです」


「季節では」


「夏が多く、冬が少のうございます」


「割合で申しますと、冬は夏の、どのくらいで」


直也は、その問いに、少し、間を置いた。


「……半分ほどでしょうか」


「なるほど」


男は、頷いた。


「役人の方は、何人でございますか」


「二人です」


「日に十五人を、お二人で。……手が余りますな」


男は、そう言った。


「もっとも、余っているのは、この関所だけではございません。街道筋の関所は、どこも同じでございます。人の流れが、昔と変わっておりますので」


男は、そう言った。


「関所の数を、半分にすれば、費えは半分になります。手形の検めは、宿場でも足りましょう」


その言い方に、悪意はなかった。


ただ、事実を述べていた。


田中が、口を開きかけて、やめた。


直也は、その男を、見ていた。


「神谷どの」


「はい」


「その改めをなさると、ここの二人は、どうなりますか」


男は、直也を見た。


「二人と申しますと」


「そこの田中と、山本です」


直也は、そう言った。


男は、二人を、見た。


そして、こう言った。


「他所へ移られましょう。あるいは、御家中でお召し放ちに」


「召し放ちですか」


「なりますでしょうな」


男は、そう答えた。


「ですが、関所を半分にすれば、その費えで、街道の橋を、二つ、三つ、かけられます。橋がかかれば、年に何人か、川で死ぬ者が減ります」


男は、そう言った。


「二人と、何人か。……どちらを取るかという話でございます」


昼餉を出した。


出したのは、弥生だ。


「どうぞ」


「これは、痛み入ります」


男は、そう言って、頭を下げた。


そして、食べ始めた。


食べ方が、速かった。


味わっていない。だが、こぼさない。作法も、崩れない。ただ、速い。


弥生が、茶を注ぎ足した。


「お代わりは、いかがですか」


「けっこうです」


男は、顔を上げずに、そう答えた。


弥生は、下がった。


直也は、その一連を、見ていた。


――目を、合わせなかった。


弥生が茶を注いだとき、この男は、湯呑みを見ていた。弥生の手を見ていた。だが、弥生の顔を、一度も見なかった。


これも、無礼ではない。


無礼ではないが、奇妙だった。


「神谷どの」


直也は、そう言った。


「はい」


「一つ、お伺いしたい」


「どうぞ」


「先ほど、荷を検めた役人の名を、覚えておられますか」


男の箸が、止まった。


「……は」


「二度、申し上げました」


直也は、そう言った。


「私が、田中と山本と、名を出しました。二度です」


男は、しばらく、直也を見ていた。


そして、こう言った。


「申し訳ございません」


正直な答えだった。


言い訳をしなかった。


「覚えておりません」


男は、そう言った。


「昔から、そうでございます。人の名が、頭に残りません」


「顔は」


「顔も」


男は、そう答えた。


「不思議なもので、数字は、一度で覚えます。日付も、覚えます。人の名だけが、残りません」


男は、そう言った。


「若い頃は、直そうといたしました。手帳に書いて、覚えようとしました。……何十年やっても、駄目でございました」


男は、そう言って、箸を置いた。


「これは、性分ではなく、たぶん、欠けているのだと思っております」


直也は、しばらく、黙っていた。


そして、こう聞いた。


「神谷どの。あなたは、どちらから来られましたか」


「江戸から」


「江戸のどちらから」


男は、答えなかった。


答えないまま、湯呑みを、両手で包んだ。


「代官さま」


「はい」


「先ほど、私が関所の数の話をいたしましたとき、あなたは、二人の名を出されました」


男は、そう言った。


「田中どのと、山本どの、と」


「はい」


「あの一言で、こちらの言い分が、通らなくなりました」


男は、そう言った。


「私は、二十年、あれをやられ続けてまいりました」


男は、そう言った。


「数を出すと、必ず、誰かが、名前を出してまいります。名前が出ると、数が、負けます」


男は、そう言った。


「数のほうが、正しいのに」


その声に、初めて、感情らしいものが混じった。


苛立ちではなかった。


疲れだった。


「神谷どの」


直也は、そう呼んだ。


「あなたは、政をなさっていましたね」


男は、答えなかった。


「二十年、と言われました」


直也は、そう言った。


「儒者が、二十年、数と名前の話をされることは、ありません。それは、政をする者の話です」


男は、湯呑みを置いた。


そして、はじめて、直也の顔を、まっすぐ見た。


「……お名前を、伺ってよろしいか」


「間宮直也と申します」


そう名乗った瞬間、男の眉が、動いた。


「間宮」


男は、そう繰り返した。


「間宮、直也どの」


「ご存じですか」


男は、しばらく、直也を見ていた。


そして、こう言った。


「存じ上げております」


男は、そう言った。


「総理の、ご主人でいらっしゃる」

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