第48話 空けおく―覚えている名と、覚えていない名―
その夜。
冷えていた。
直也は、火鉢を持って、その部屋へ行った。
炭は、貴重だ。旅人のために使ったことは、これまで、一度もなかった。
だが、この夜は、持っていった。
なぜかは、自分でも、わからなかった。
サルヴァトーレは、寒そうにしていなかった。
薄い着物のまま、まっすぐ座っていた。
「火鉢を、お持ちしました」
「これは、恐れ入ります」
サルヴァトーレは、そう言って、手を、火にかざした。
その手が、小さかった。
三百人を動かした男の手にしては、小さい手だった。
「代官さま」
「はい」
「若い者は」
「向かいの部屋で、寝ております。飯は出しました」
「……ありがとうございます」
サルヴァトーレは、そう言って、深く、頭を下げた。
その礼が、本気だった。
「あの三人のことを、聞かせてください」
直也は、そう切り出した。
サルヴァトーレの顔が、明るくなった。
「聞いてくださいますか」
「はい」
「いちばん上が、佐吉と申します。二十六でございます」
サルヴァトーレは、そう言った。
「三年前、飢饉のあと、路地で拾いました。目が悪うございます。字は読めません。ですが、人の顔を、一度で覚えます。手前より、よほど、覚えます」
サルヴァトーレは、そう言った。
「真ん中が、留吉。二十二。手が器用で、何でも直します。草履も、桶も、荷車も。ただ、口が悪い。何度叱っても、直りません」
サルヴァトーレは、そう言って、少し笑った。
「いちばん下が、亀次郎。十九。……これが、いちばん、出来が悪うございます。何を教えても、覚えません。ですが、飯を食うときの顔が、よい」
サルヴァトーレは、そう言った。
「あれの飯を食う顔を見ておりますと、手前も、腹が減ります」
直也は、その話を、黙って聞いていた。
そして、聞いた。
「四十二人、全員、そのようにお話しになれますか」
「なれます」
サルヴァトーレは、即答した。
「名も、歳も、拾った場所も、どこが良くてどこが悪いかも、全部」
サルヴァトーレは、そう言った。
「四十二人、一人残らず」
火鉢の炭が、小さく鳴った。
「勘助どの」
直也は、そう呼んだ。
「はい」
「昼、お聞きしたことを、もう一度、お聞きします」
「……はい」
「あなたが命じて殺された者の数を、覚えておられますか」
サルヴァトーレは、しばらく、答えなかった。
そして、こう答えた。
「数は、覚えております」
「いくつですか」
「三十一人でございます」
「では、名は」
「知りません」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「一人も、ですか」
「一人も」
サルヴァトーレは、そう言った。
「知らないのではありません。……知らないように、していたのです」
「どういうことですか」
「手前は、名を聞かない習わしにしておりました」
サルヴァトーレは、そう言った。
「下の者が、報告に来ます。『あの件、片付きました』と。それだけです。手前は、頷きます。それで、終わりです」
サルヴァトーレは、そう言った。
「名を聞けば、覚えてしまいますので」
直也は、目を閉じた。
「覚えると、どうなるのですか」
「できなくなります」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「四十二人の名を覚えている人間は、三十一人の名を覚えては、生きていけません」
長い、沈黙があった。
「勘助どの」
直也は、そう言った。
「はい」
「あなたは、なぜ、この時代に来られたのですか」
サルヴァトーレは、しばらく、火を見ていた。
「息子でございます」
そう答えた。
「息子」
「はい」
サルヴァトーレは、頷いた。
「一人おりました。……いえ、今もおります。生きております」
サルヴァトーレは、そう言った。
「その息子が、七年前、役所に行きました」
「役所」
「手前を、売りました」
サルヴァトーレは、そう言った。
「知っていることを、全部、話しました。手前がしてきたことを、順に、日付まで添えて」
火鉢の炭が、崩れた。
「……なぜ、息子さんは」
「正しいと思ったからでございましょう」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「あれは、賢い子でございました。学校をよく出て、外の世界を知りました。……外から見れば、手前は、ただの人殺しでございます」
サルヴァトーレは、そう言った。
「あれは、正しいことをいたしました」
「……」
「手前は、あれを、憎んでおりません」
サルヴァトーレは、そう言った。
「これは、本当でございます。憎んでおりません。……ただ、わからないのでございます」
「何がです」
サルヴァトーレは、顔を上げた。
その目に、初めて、迷いが浮かんでいた。
「手前は、あの子を、二十七年、育てました」
サルヴァトーレは、そう言った。
「熱を出せば、夜通し、そばにおりました。学校の金も、出しました。あの子が泣けば、手前も、泣きました」
サルヴァトーレは、そう言った。
「そして、その同じ二十七年のあいだに、手前は、三十一人を、殺させました」
サルヴァトーレは、そう言った。
「どちらも、手前でございます」
サルヴァトーレは、そう言った。
「代官さま。どちらが、本物の手前でございましょうか」
直也は、答えられなかった。
答えられないまま、火鉢の炭を、直した。
「……あなたは、どちらだと思っておられますか」
そう、聞き返した。
「両方だと思っております」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「ですが、息子は、そう思いませんでした。あの子にとっては、後ろの三十一人が、手前でございました。前の二十七年は、なかったことになりました」
サルヴァトーレは、そう言った。
「あの子は、こう申しました。『あなたが私を愛したのは本当でしょう。でも、それは、あなたが優しい人だからではない。私が、あなたの内側にいたからだ』と」
サルヴァトーレは、そう言った。
「『あなたは、内側の人間には、いくらでも優しい。外側の人間は、数にすらならない。私は、たまたま内側に生まれただけだ』と」
サルヴァトーレは、そう言った。
「あれは、そう申しました」
「……その通りですか」
「その通りでございます」
サルヴァトーレは、即答した。
「一言も、間違っておりません」
サルヴァトーレは、そう言った。
「手前は、内側の者には、命を捨てられます。外側の者は、名も知りません。……それが、手前という人間の、形でございます」
サルヴァトーレは、そう言った。
「そして、この形は、六年経っても、変わっておりません」
「変わっていない、とは」
直也は、そう聞いた。
「三人、拾いました」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「六年で、この時代でも、また、内側を作りました。佐吉、留吉、亀次郎。……あの三人のためなら、手前は、今でも、何でもいたします」
サルヴァトーレは、そう言った。
「先月も、揉め事がございました。渡し場の人足が、亀次郎を殴りました。……手前は、その男を、渡し場から追い出しました。仕事を失くさせました。妻と、子が三人おる男でございます」
サルヴァトーレは、そう言った。
「その妻の名も、子の名も、手前は、知りません」
サルヴァトーレは、そう言った。
「知ろうとも、思いませんでした」
サルヴァトーレは、火を見つめた。
「代官さま。手前は、あの子に売られてから、七年、考えてまいりました。そして、この時代に来て、六年、考えてまいりました」
サルヴァトーレは、そう言った。
「十三年考えて、一つも、変わりませんでした」
サルヴァトーレは、そう言った。
「わかるのでございます。頭では、わかるのでございます。あの人足の子どもも、亀次郎と、同じでございます。同じ子どもでございます」
サルヴァトーレは、そう言った。
「わかっておりますが、動きません」
サルヴァトーレは、そう言った。
「手前の中の何かは、二歩の外にいる者に対して、何一つ、動かないのでございます」
直也は、その言葉を聞いて、長く、動かなかった。
――二歩の外。
そう言われて、直也は、あの女を思い出した。
三百年、この関所を見ていた女。二歩の距離で、子どもが死ぬのを、朝まで見ていた女。
あの女は、動けなかった。
だが、動きたかった。
この男は、動ける。
そして、動かない。
「勘助どの」
直也は、そう言った。
「はい」
「私は、この関所で、二十二人を通しました」
直也は、そう言った。
「その中には、人を売る者がおりました。毒と武器を運ぶ者がおりました。人を殺す計画を持った者がおりました」
直也は、そう言った。
「私は、その全員と、一晩、話をしました。話をして、その者の名を覚え、その者の顔を覚え、帳面に書きました」
直也は、そう言った。
「そして、その者たちが、この先で誰を傷つけたかは、一つも知りません」
直也は、そう言った。
「名も、知りません。数も、知りません」
火鉢が、静かに鳴った。
「あなたと、同じです」
直也は、そう言った。
「私は、目の前の者には、一晩かけます。二歩の外は、数にもしておりません」
サルヴァトーレは、しばらく、直也を見ていた。
そして、こう言った。
「代官さま」
「はい」
「それは、慰めのつもりでございますか」
「いいえ」
直也は、そう答えた。
「気づいただけです」
「では、なぜ、おっしゃいました」
「言わずにおくと、私が、忘れるからです」
直也は、そう言った。
サルヴァトーレは、目を細めた。
そして、初めて、少し、笑った。
「……厳しいお方でございますな」
「そうでもありません」
直也は、そう答えた。
「厳しい人間なら、あなたを、通しません」
「通されるので」
サルヴァトーレは、そう聞いた。
その声に、期待も、安堵も、なかった。
ただ、聞いていた。
「通します」
直也は、そう答えた。
「……なぜでございましょう」
「私に、権利がないからです」
直也は、そう言った。
「あなたを咎める言葉を、私は、持っておりません。私が言えることは、全部、私自身に返ってきます」
直也は、そう言った。
「二歩の外を数えない人間が、二歩の外を数えない人間を、裁けません」
サルヴァトーレは、頷いた。
「では、手前は、また、内側を作りに参ります」
「そうでしょうね」
「止めませんので」
「止めません」
直也は、そう言った。
「ですが、一つだけ、お願いがあります」
「なんでございましょう」
直也は、少し、間を置いた。
そして、言った。
「その三十一人の名を、調べる気は、ありませんか」
サルヴァトーレの動きが、止まった。
「……調べる」
「はい」
「もう、二十年、三十年、前のことでございます。この時代からは、調べようがございません」
「そうでしょうね」
直也は、そう言った。
「ですから、調べられません。……私が申し上げたいのは、そこではありません」
直也は、そう言った。
「あなたは今、『調べようがない』と言われた。『調べたくない』とは、言われなかった」
サルヴァトーレの唇が、わずかに開いた。
「十三年で、一つも変わっていないと、あなたは言われました」
直也は、そう言った。
「一つ、変わっていると思います」
直也は、そう言った。
「昔のあなたは、名を聞かないようにしていた。今のあなたは、名を知らないことを、私に言いました」
直也は、そう言った。
「言わずに済ませることも、できたはずです」
サルヴァトーレは、答えなかった。
長く、答えなかった。
火鉢の炭が、白くなっていった。
「……代官さま」
「はい」
「手前は、六十二でございます」
「はい」
「今から、変わるには、遅うございます」
「そうでしょうね」
直也は、そう答えた。
「ですが、遅いのと、変わらないのは、違います」
翌朝。
霜が降りていた。
三人の若者は、荷を担いで、街道に出る支度をしていた。
いちばん下の亀次郎が、寒さに首をすくめて、鼻をすすっていた。
サルヴァトーレは、その首に、自分の襟巻きを、巻いてやっていた。
亀次郎が、何か言った。
サルヴァトーレが、笑って、その頭を、軽く叩いた。
田中が、それを見て、ぽつりと言った。
「よい親方でございますな」
直也は、答えなかった。
答えられなかった。
サルヴァトーレは、直也の前に立った。
「代官さま」
「はい」
「昨夜のお話、忘れません」
「忘れてくださっても、けっこうです」
「いいえ」
サルヴァトーレは、そう言った。
「忘れません。……忘れると、また、名を聞かないようにしてしまいますので」
サルヴァトーレは、そう言って、頭を下げた。
そして、こう言った。
「代官さまも、どうか」
「はい」
「二歩の外を、数えてくださいませ」
サルヴァトーレは、そう言った。
「手前には、もう、無理でございます。ですが、代官さまは、まだ、四十五でございましょう」
「四十六です」
「では、なおのこと」
サルヴァトーレは、そう言って、笑った。
四人は、霜の道を、歩いていった。
先頭が一人。後ろに三人。
その二歩の間隔は、最後まで、崩れなかった。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
いつもの頁に、こう書いた。
「大坂 口入屋 勘助 供の者三人 通行」
そして、いちばん後ろの頁を、開いた。
二十二行の下に、二十三行目を書いた。
「二十三 サルヴァトーレ・ルッジェーロと名乗りし者 異国の組の頭なりしと申す」
そして、続けた。
「この者、拾いて養いし者四十二人あり。その名、歳、拾いし場所、悉く覚えおれり。今また三人を連れおる。佐吉二十六、留吉二十二、亀次郎十九」
そこまで書いて、直也は、筆を止めた。
そして、次の行に、こう書いた。
「この者の命により殺されし者、三十一人あり」
そこで、また、止めた。
そして、こう書いた。
「その名、一つも知らずと申す。知らざるように努めたりと申す」
直也は、筆を置いた。
そして、しばらく、その頁を見ていた。
それから、また筆を取り、こう書き足した。
「よって、ここに三十一人分を空けおく」
そう書いて、直也は、その下に、何も書かなかった。
一行、二行、三行と、空けた。
頁の終わりまで、空けた。
そして、次の頁も、白いまま残した。
書けるものは、書いた。
書けないものは、空けた。
書き終えて、直也は、二十三行を、はじめから読んだ。
読み終えるのに、半刻と、少しかかった。
読み終えて、直也は、白い頁を、見ていた。
――ここには、三十一人がいる。
見えないが、いる。
そして、直也は、思った。
自分の帳面にも、こういう頁が、要るのではないか。
二十三人を通した。その二十三人が、この先で誰を傷つけたか、直也は知らない。
名も、数も、知らない。
――何人だろうか。
数えようがなかった。
数えようがないから、これまで、数えてこなかった。
直也は、筆を取った。
そして、白い頁の、いちばん上に、小さく、こう書いた。
「我が通せし者どもの先にありし者ども 名も数も知らず」
それだけ書いて、筆を置いた。
その下は、白いまま残した。
灯りを消して、直也は、横になった。
――白い頁が、二つになった。
一つは、サルヴァトーレのもの。
一つは、自分のもの。
どちらも、埋まることはない。
埋まらないから、書いた。
そう思って、直也は、目を閉じた。
その夜、直也は、あまり眠れなかった。




