第47話 指の数え方―三人の若者を連れた口入屋―
ギオルギが右足をかばいながら去ってから、四月が過ぎた。
その四月のあいだ、山本は、時々、裏の空き地で、一人で組む真似をしていた。
相手はいない。だから、空を掴んで、腰を引いて、また掴む。それだけだ。
田中が、それを見て、笑った。
「山本どの。傍から見ると、たいそう間抜けでございますぞ」
「わかっております」
山本は、そう答えた。
「わかっておりますが、忘れたくないのです」
直也は、その言葉を、縁側で聞いていた。
――忘れたくない。
そう言えるだけで、十分だ、と直也は思った。
ギオルギは、忘れていいと言った。忘れても、体の側に残ると言った。
だが、忘れたくないと思っている山本のほうが、たぶん、長く持つ。
直也は、そう思った。
そして、自分が、なぜ毎晩二十二行を読むのかも、たぶん、それと同じことなのだと思った。
十一月の、寒い日だった。
昼過ぎ、街道の向こうから、四人連れが来た。
先頭に、一人。
後ろに、三人。
先頭の男は、六十近く見えた。
小柄だ。五尺そこそこか。痩せている。だが、痩せているのに、貧相ではない。背筋が伸びていて、歩幅が一定で、動きに無駄がない。
そして、着物が、よかった。
派手ではない。だが、生地がよい。仕立てがよい。羽織の紐の結び方が、きれいだった。
後ろの三人は、若い。
いちばん上でも、二十五、六か。三人とも、体格がよく、三人とも、先頭の男から、二歩ほど後ろを歩いていた。
その二歩が、崩れなかった。
先頭が止まれば、三人も止まる。先頭が歩けば、三人も歩く。
「代官殿」
田中が、そう言った。
「あれは、口入屋か、あるいは」
「あるいは」
「……顔役でございましょうな」
田中は、そう言った。
「よくない筋の」
四人は、関所の前で止まった。
先頭の男が、頭を下げた。
「お役目、ご苦労さまでございます」
その声は、思ったより高かった。
そして、その日本語には、妙な柔らかさがあった。
――語尾が、終わっていない。
直也は、そう思った。
「ございます」の「す」が、完全には閉じていない。ごくわずかに、後ろに、母音の尾が残る。「ございますぅ」というほどではない。だが、閉じていない。
聞き慣れなければ、気づかない程度の差だった。
「手形を」
「はい」
男は、懐から手形を出した。
そのとき、男の手が、直也の手に触れた。
軽く、だが、確かに触れた。
そして、男は、その手を、直也の手の甲に、一瞬、添えた。
直也は、動かなかった。
――親しげだ。
この時代の人間は、初対面の役人の手に、触れない。
「これは、失礼を」
男は、そう言って、手を引いた。
「癖でございます。お許しください」
手形は、整っていた。
大坂の口入屋の印。名は「勘助」。連れの三人も、名が併記されている。
「勘助どの。人を、江戸へ運ばれるので」
「はい。人を集めて、送るのが商いでございます」
「後ろの三人は」
「手前の者どもでございます」
そう答えて、男は、少し笑った。
その笑い方が、あたたかかった。
「若うございましょう。三人とも、拾うてまいりました」
「拾う」
「食い詰めておりましたのを」
男は、そう言った。
「今は、飯を食わせて、仕事を教えております。……不出来な者どもですが、かわいい者どもでございます」
その言い方に、嘘がなかった。
直也は、それを、はっきり感じた。
この男は、この三人を、本当に、かわいいと思っている。
直也は、手形を返した。
そして、こう聞いた。
「勘助どの。江戸には、幾人お連れになりますか」
「今は、この三人だけでございます」
「江戸で、増やされるので」
「そうなりますでしょうな」
「では、これまでに、幾人ほど」
男は、少し、考えた。
そして、指を、上げた。
直也は、その指を、見た。
男は、右手を、握っていた。
そして、そこから、親指を、外へ立てた。
次に、人差し指を、外へ立てた。
中指。薬指。小指。
――開いていく。
直也の背中が、冷えた。
この時代の者は、そうは数えない。
この国の者は、開いた手から、親指を折り込む。人差し指を折る。中指を折る。閉じていく。
開いていく数え方は、この国のものではない。
「四十二人でございます」
男は、そう言って、手を下ろした。
「四十二」
「はい。二十年で、四十二人」
男は、そう言った。
「一人残らず、覚えております」
直也は、その言葉を、聞いた。
そして、静かに、こう言った。
「勘助どの。もう一度、数えていただけますか」
「……は?」
「五まで、数えていただきたい」
男の顔から、笑みが、消えた。
消えたが、すぐ、戻った。
「妙なことを、おっしゃる」
「お願いします」
男は、しばらく、直也を見ていた。
そして、右手を上げた。
今度は、ゆっくりだった。
握った手から、親指を立て――
そこで、止まった。
止まって、男は、笑った。
今度の笑いは、さっきまでのものと、少し違った。
「……なるほど」
男は、そう言った。
「そこでございますか」
「そこです」
直也は、そう答えた。
「奥へ、どうぞ」
奥の部屋。
三人の若者は、外に待たせた。
田中と山本が、外で見張っている。
「代官さま」
男は、そう呼んだ。
呼び方が、変わっていた。
「はい」
「若い者に、手を出さないでいただきたい」
その声には、脅しがなかった。
ただ、頼んでいた。
「あの者たちは、何も知りません。手前が拾って、連れて歩いておるだけでございます」
「知らない、とは」
「手前が、何者かを」
男は、そう言った。
直也は、頷いた。
「では、あなたは、何者ですか」
男は、しばらく、答えなかった。
そして、ゆっくりと、こう名乗った。
「サルヴァトーレ・ルッジェーロ」
「……」
「イタリアの、シチリアの生まれでございます。二十一世紀の者です」
サルヴァトーレは、そう言った。
「この時代に来て、六年になります」
「六年」
直也は、その数字に、反応した。
これまでの誰よりも、長い。
「六年、何をしておられましたか」
「商いを」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「人を集め、送り、口を利き、揉め事を収める。……手前の国でやっていたことと、そう変わりません」
「元は、何をしておられたのですか」
サルヴァトーレは、直也を見た。
そして、こう言った。
「組織におりました」
「組織」
「はい」
「どのような」
サルヴァトーレは、少し、間を置いた。
「代官さまの国では、なんと申しますか」
サルヴァトーレは、そう言った。
「人を、殺す組織でございます」
直也は、その言葉を、静かに受け取った。
「あなたは、どの位置におられましたか」
「上でございます」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「いちばん上ではありません。ですが、上のほうにおりました。……三百人ほどの者が、手前の下におりました」
「三百」
「はい」
「その三百は、何をしていたのですか」
「商いを」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「薬。賭場。貸金。港の口利き。……そして、命じられたときは、人を殺しました」
サルヴァトーレは、そう言った。
「手前が、命じました」
直也は、しばらく、黙っていた。
「何人ですか」
そう聞いた。
サルヴァトーレは、答えなかった。
「何人、殺されましたか」
サルヴァトーレは、まだ、答えなかった。
「勘助どの」
直也は、そう呼び直した。
「四十二人は、覚えておられる」
「……はい」
「では、そちらは」
サルヴァトーレの目が、動いた。
初めて、この男の目が、泳いだ。
「……覚えておりません」
サルヴァトーレは、そう答えた。
「一人も、ですか」
「一人も」
サルヴァトーレは、そう言った。
「名を、聞いたことがございません」




