第46話 書けぬもの―体に宿った知が消えるとき―
その夜。
蒸していた。障子を開け放しても、風は来なかった。
直也は、井戸で冷やした水を、桶ごと持っていった。
ギオルギは、壁にもたれて、右足を投げ出して座っていた。
「膝は、痛みますか」
「夏は、ましです」
ギオルギは、そう答えた。
「冬が、いけません。冬は、朝、起きるのに、四半刻かかります」
直也は、水を汲んで、渡した。
ギオルギは、それを、一息で飲んだ。
大きな手だった。指が、太い。そして、その指が、どれも、まっすぐではなかった。
「指も、やられておりますか」
「全部です」
ギオルギは、そう言って、手を開いた。
十本の指のうち、まっすぐなものは、一本もなかった。第二関節が、それぞれ違う方向に、わずかに曲がっている。
「相手の指を掴み、掴まれ、外し、外される。二十五年やると、こうなります」
ギオルギは、そう言った。
「痛くはありません。もう、これが、私の手ですから」
「二十九まで、と言われましたね」
直也は、そう切り出した。
「はい」
「二十九で、何があったのですか」
「膝が、壊れました」
ギオルギは、そう答えた。
「試合の途中でした。相手を投げようとして、軸足が、地面に食い込みすぎました。……音がしました。自分の体から、木の折れる音がしたのは、初めてでした」
ギオルギは、そう言った。
「手術をして、一年、治しました。それから、また始めました。二年、やりました。ですが、戻りませんでした」
「戻らない、とは」
「動きます」
ギオルギは、そう言った。
「歩けますし、走れます。今でも、その辺の男よりは、強い。……ですが、あの半分が、なくなりました」
「半分」
「はい」
ギオルギは、そう言った。
「一瞬の、半分です」
「どう言えばよいのか、わかりません」
ギオルギは、そう前置きした。
「代官どの。人と組み合うとき、相手が、次に何をするかは、体に出ます」
「はい」
「肩が、ほんの少し、内に入る。足の指が、地面を掴む。息が、止まる。……そういうものが、動く前に、出ます」
ギオルギは、そう言った。
「私は、それが、わかりました。見て、わかるのではありません。組んでいる腕から、伝わってくるのです」
ギオルギは、右手を、少し上げた。
「伝わってきたら、その半分の時間で、こちらが動きます。相手が動く前に、こちらが動く。すると、相手は、何が起きたかわからないまま、投げられます」
ギオルギは、そう言った。
「私は、それが、できました。世界で、五人の中には、入っておりました」
「……たいしたものです」
「たいしたものでした」
ギオルギは、そう言った。
「膝が壊れて、その半分が、なくなりました。伝わってくるのは、同じです。今でも、わかります。ですが、体が、間に合いません」
ギオルギは、そう言った。
「わかっていて、間に合わない。……これが、どういうことか、おわかりですか」
直也は、首を振った。
「見えているのに、殴られるのです」
ギオルギは、そう言った。
「毎回。何十回も。毎日」
「……」
「二年やって、やめました」
外で、蛙が鳴いていた。
「それから、どうされたのですか」
「指導者になりました」
ギオルギは、そう答えた。
「若い者に、教えました。八年」
「よい指導者でしたか」
「悪くはなかったと思います」
ギオルギは、そう言った。
「体の作り方は、教えられます。技の形も、教えられます。組み方の順序も、練習の組み方も、全部、教えられます」
ギオルギは、そう言った。
「一つだけ、教えられませんでした」
「あの半分ですか」
「そうです」
ギオルギは、頷いた。
「あれだけは、どうやっても、渡せませんでした」
ギオルギは、そう言って、掌を見た。
「言葉にすると、消えるのです。『相手の肩を見ろ』と言えば、生徒は、肩を見ます。見た瞬間に、遅れます。見てはいけないのです。感じるのです。……では、どう感じるのか。それを言おうとすると、また、『見ろ』のような言葉になります」
ギオルギは、そう言った。
「本にも、書けません。書いた本を、何冊も読みました。どれも、書けておりませんでした。私が書いても、同じでしょう」
ギオルギは、そう言った。
「あれは、私の体の中に、二十五年かけて、溜まったものです。私の膝と、私の肩と、私の潰れた耳の中に、あります」
ギオルギは、そう言った。
「私が死ねば、なくなります」
直也は、その言葉を聞いて、しばらく、動けなかった。
なぜ、こんなに、こたえるのか。
考えて、わかった。
――帳面に、書けない。
直也は、二年半、書いてきた。
書けば、残る。残れば、忘れない。忘れなければ、なかったことにならない。
そう思って、二十一行を書いてきた。
ユスフの罪も、書いた。為時の五人も、書いた。名を持たざる者の三百年も、書いた。
全部、書けた。
だが、この男の持っているものは、書けない。
書こうとすれば、消える。
「ギオルギどの」
直也は、そう言った。
「はい」
「あなたは、なぜ、この時代に来られたと思われますか」
「わかりません」
ギオルギは、そう答えた。
「誰も、私に、何も言いませんでした。ある朝、ここにいた。それだけです」
ギオルギは、そう言った。
「ですが、来て、一つ、思ったことがあります」
「なんでしょう」
「この時代のほうが、私は、役に立つ」
ギオルギは、そう言った。
「私のいた時代では、私は、もう用済みでした。膝の壊れた元選手です。八年教えて、それも、限界が来ました。若い指導者のほうが、新しいやり方を知っております」
ギオルギは、そう言った。
「ですが、ここでは、私は、まだ強い。荷を運べば、三人分運べます。喧嘩になれば、五人まではどうにでもなります。……この一年二月、私は、渡し場で働きました。重宝されました」
ギオルギは、そう言った。
「久しぶりに、必要とされました」
その声に、皮肉はなかった。
「では、なぜ、旅に出られたのですか」
直也は、そう聞いた。
ギオルギは、答えなかった。
長く、答えなかった。
「……怖くなったからです」
やがて、そう言った。
「何がです」
「渡し場で、力仕事をしているうちに、私は、あの半分を、使わなくなりました」
ギオルギは、そう言った。
「使わなければ、鈍ります。一年二月で、だいぶ、鈍りました。……あるとき、若い者が、ふざけて、後ろから抱きついてきました。昔なら、触れた瞬間にわかって、勝手に体が動きました」
ギオルギは、そう言った。
「動きませんでした」
ギオルギは、そう言った。
「ただ、抱きつかれておりました」
蛙が、鳴き止んだ。
「そのとき、思いました。――ああ、これは、消える、と」
ギオルギは、そう言った。
「膝が壊れたときは、半分でした。今度は、全部です。使わなければ、全部、消えます」
ギオルギは、そう言った。
「それで、旅に出ました。どこかに、組んでくれる者がいないかと思って」
直也は、そのとき、初めて、この男が、なぜ相撲取りを騙ったのかを、理解した。
強くなりたかったのではない。
有名になりたかったのでもない。
――組む相手が、欲しかったのだ。
「見つかりましたか」
直也は、そう聞いた。
「何度か」
ギオルギは、そう答えた。
「宿場で、腕自慢の男と、組みました。三度ほど。……相手になりません。三十年やっている者と、素人では、話になりません」
ギオルギは、そう言った。
「話にならないと、あれは、出てきません。あれは、危ないときにしか、出てこないのです」
ギオルギは、そう言った。
「私に必要なのは、私を追い詰める者です。ですが、この時代に、そんな者は、おりません」
ギオルギは、そう言った。
「私は、この時代でいちばん強い。そして、そのせいで、私は、私が持っているものを、失っていきます」
直也は、水を、汲み足した。
そして、しばらく考えてから、言った。
「ギオルギどの」
「はい」
「私は、この関所で、二年半、帳面を書いてきました」
直也は、そう言った。
そして、これまでのことを、話した。
十七人の偽名のこと。ユスフの罪を書いたこと。為時の五人を書いたこと。書くことが、忘れないための重石だと思っていること。
ギオルギは、黙って聞いていた。
「私は、書けば残ると思っておりました」
直也は、そう言った。
「ですが、あなたのものは、書けません。書こうとすれば消えると、あなたは言われた。……その通りだと思います。私が書けるのは、あなたが『あの半分を持っていた』ということだけです。あの半分そのものは、書けません」
直也は、そう言った。
「私の帳面は、そこで、行き止まりです」
ギオルギは、頷いた。
「そうでしょうな」
「ですから」
直也は、そう言った。
「一つ、お願いしてもよろしいか」
「なんでしょう」
「明日の朝、山本と、組んでいただけませんか」
ギオルギの目が、上がった。
「……山本どの」
「若いほうの役人です。二十三です。剣術は、少しやっております。あなたの相手には、なりません」
直也は、そう言った。
「ですが、体は、動きます」
「組んで、どうします」
「教えてやってください」
直也は、そう言った。
「あの半分を、とは申しません。渡せないものは、渡せません。……ですが、あなたが二十五年で身につけたもののうち、渡せるものも、いくらかはあるでしょう。倒れ方でも、掴み方でも、なんでもかまいません」
直也は、そう言った。
「一つでいいのです」
ギオルギは、しばらく、直也を見ていた。
「なぜ、そんなことを」
「書けないからです」
直也は、そう答えた。
「書けないものは、渡すしかありません」
ギオルギの喉が、動いた。
「……代官どの」
「はい」
「山本どのは、レスリングを続けません。明日、一つ覚えても、明後日には忘れます」
「忘れるでしょうね」
直也は、そう言った。
「ですが、あなたの手が、山本の腕を掴んだということは、残ります」
直也は、そう言った。
「山本の腕の側に、残ります」
翌朝。
雨が上がったばかりで、地面が濡れていた。
関所の裏の空き地に、筵を敷いた。
山本は、寝間着から着替えて、緊張した顔で立っていた。
「代官殿。……本当に、やるのでございますか」
「やってくれ」
「私、勝てませぬぞ」
「勝たなくていい」
直也は、そう言った。
「掴まれてこい」
田中は、腕を組んで、少し離れたところに立っていた。
弥生は、井戸端から、こちらを見ていた。
ギオルギは、上を脱いだ。
田中と山本が、同時に、声を漏らした。
背中が、盛り上がっていた。肩が、二つの塊になっていた。腕は、山本の腿より太かった。
そして、その体じゅうに、傷と、変形があった。
「では」
ギオルギは、そう言って、腰を落とした。
膝をかばう落とし方だった。それでも、山本より、低く、安定していた。
「掴んでください」
「……どこを」
「どこでも」
山本は、思い切って、ギオルギの手首を掴んだ。
次の瞬間、山本は、筵の上に、仰向けになっていた。
音は、しなかった。
投げられた、という感じすらしなかった。ただ、気づいたら、空が見えていた。
「――は」
山本が、そう声を漏らした。
「痛くないでしょう」
ギオルギは、そう言った。
「痛くないです。……痛くない、です」
「私が、あなたの落ちる場所を、作りました」
ギオルギは、そう言った。
「投げるときは、落ちる場所を作ります。作らないと、相手が壊れます。壊すのは、簡単です。壊さずに倒すのが、難しいのです」
ギオルギは、そう言って、山本に手を差し出した。
山本は、その手を掴んで、起き上がった。
「もう一度」
「……はい!」
その朝、二人は、四半刻ほど、組んだ。
山本は、十七回、投げられた。
十七回とも、痛くなかった。
十八回目に、山本は、投げられなかった。
ギオルギが、途中で、動きを止めたのだ。
「今」
ギオルギは、そう言った。
「今、あなたは、私の腕が動く前に、腰を引きました」
山本は、きょとんとした顔をした。
「……そうでしょうか」
「引きました」
ギオルギは、そう言った。
「わからずに、引きました。それでいいのです」
ギオルギは、そう言った。
そして、笑った。
その笑い方は、大きな体に似合わず、少年のようだった。
昼前に、ギオルギは、出立した。
「岩ヶ嶽どの。江戸まで、お気をつけて」
田中が、手形に印を押しながら、そう言った。
「はい」
ギオルギは、頭を下げた。
そして、山本を見た。
「山本どの」
「はい!」
「忘れます」
ギオルギは、そう言った。
「明日か、明後日には、忘れます。それでいいのです」
ギオルギは、そう言った。
「ですが、いつか、誰かが、あなたの後ろから来たとき」
ギオルギは、そう言った。
「体が、勝手に動くかもしれません。そのときは、思い出さなくてけっこうです。動けば、それでいいのです」
山本は、深く、頭を下げた。
その額が、地面につきそうだった。
ギオルギは、街道を歩いていった。
右足を、少しかばう歩き方だった。
その背中が見えなくなってから、山本が、ぽつりと言った。
「代官殿」
「うん」
「私は、あの方の名を、覚えておきます」
「岩ヶ嶽か」
「いえ」
山本は、そう言った。
「岩ヶ嶽ではない気が、いたします」
直也は、少し、笑った。
「そうかもしれんな」
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
いつもの頁に、こう書いた。
「大坂 力士 岩ヶ嶽 江戸勧進相撲のため 通行」
そして、いちばん後ろの頁を、開いた。
二十一行の下に、二十二行目を書いた。
「二十二 ギオルギ・ナダレイシヴィリと名乗りし者 異国の組討の名手なりしと申す」
そして、続けた。
「その者、組みたる腕より相手の次の動きを知る術を持てり。二十五年をかけて身に得たるものと申す。書きて伝うること能わず。語りて伝うること能わず。用いざれば失わるると申す」
そこで、直也は、筆を止めた。
書けないものを、書こうとしていた。
しばらく考えて、直也は、こう書き足した。
「されば、この者、我が関所の山本と組みたり。七月十九日の朝、四半刻ばかり。山本十七度投げられ、いずれも痛まざりき」
直也は、そこで、また止まった。
そして、最後に、こう書いた。
「山本これを忘れんと申す。この者も、忘れてよしと申せり」
書き終えて、直也は、その一行を見た。
――これは、記録ではないな。
そう思った。
書いてあるのは、内容ではない。渡したという出来事だけだ。
中身は、書けなかった。
だが、渡ったことは、書けた。
それでいい、と直也は思った。
書けるものは、書く。
書けないものは、渡す。
渡したことを、また書く。
二年半かかって、直也は、そこまで来た。
直也は、二十二行を、はじめから読んだ。
読み終えるのに、半刻と、少しかかった。
灯りを消してから、直也は、ふと、思った。
――自分の中にも、書けないものは、あるだろうか。
考えてみた。
四十五年、生きてきて、体に溜まったもの。
出てこなかった。
出てこないので、直也は、少し笑って、眠った。
明日の朝、山本に、もう一度、投げられ方を聞いてみようと思った。




