第45話 四股を踏めぬ力士―手術の痕を持つ大男―
小野寺が去ってから、一年が過ぎた。
その一年、転移者は、一人も来なかった。
はじめの三月ほど、直也は、待っていた。
来るだろうと思っていた。あの機械の言うことが本当なら、来ないはずだが、本当かどうかは、わからない。そう思って、毎日、街道の向こうを見ていた。
半年が過ぎた頃、直也は、待つのをやめた。
やめて、どうなったか。
何も、変わらなかった。
朝が来て、旅人が来て、手形を検め、荷を検め、通す。それが、日に十度か、二十度。夕方には終わる。夜には、帳面を開く。
いつもの頁に、その日の分を書く。
そして、いちばん後ろの頁を開いて、二十一行を読む。
半刻かけて読んで、灯りを消す。
それが、一年、続いた。
――何も来なくなっても、読むのだな。
ある夜、直也は、そう思った。
読むことに、意味があるのかどうかは、わからない。二十一人は、もう、どこかへ行ってしまった。読んだところで、彼らに何かが届くわけではない。
だが、やめなかった。
やめれば、忘れる。
忘れれば、あの二年は、なかったことになる。
なかったことになるのが、どういうことか、直也は、ユスフに教わっていた。
三度目の夏が来た。
七月の、蒸し暑い午後だった。
街道の向こうに、影が見えた。
大きい影だった。
「代官殿」
田中が、目を細めた。
「大きな旅人にございます」
「そうだな」
近づいてくるにつれ、その大きさが、はっきりしてきた。
六尺は、優にある。肩幅が、常人の一倍半ほどある。首が、太い。太いというより、頭と胴のあいだに、首がないように見えた。
腹も出ているが、その腹は、脂肪の腹ではない。中に、何か詰まっている腹だ。
「力士でございましょうか」
山本が、そう言った。
山本は、この一年で、少し背が伸びた。まだ二十三だ。
「見に行くか」
直也は、そう言って、外へ出た。
その男は、関所の前で、足を止めた。
そして、深く、頭を下げた。
「通行を、お願い申し上げます」
日本語は、丁寧だった。
丁寧だが、遅かった。
一語一語を、置くように喋る。頭の中で組み立てて、それから口に出す、そういう喋り方だった。
「手形を」
男は、手形を差し出した。
大坂の相撲会所の印がある。四股名は「岩ヶ嶽」。
「岩ヶ嶽どのですか」
「はい」
「大坂から」
「はい。江戸の、勧進相撲に、参ります」
その答えに、破綻はなかった。
夏場所の時期だ。西の力士が東へ向かうことは、ある。
直也は、その男を、見た。
耳が、潰れていた。
両方とも、ひどく。軟骨が幾重にも潰れて、貝殻のような形になっている。
――これは、間違いなく、組む者の耳だ。
相撲取りにも、こういう耳はある。柔術をやる者にも、ある。
だから、この耳だけでは、何も言えない。
「岩ヶ嶽どの。部屋は、どちらで」
直也は、そう聞いた。
男は、答えなかった。
一拍ではない。三拍ほど、答えなかった。
「……大坂の」
「大坂のどちらです」
「……」
男は、また、黙った。
そして、こう言った。
「申し訳ありません。私は、嘘が、下手です」
直也は、少し、驚いた。
これまで、二十一人の転移者が来た。
いきなり、こう言った者は、いなかった。
「では、嘘をつくのを、やめられますか」
「はい」
男は、そう答えた。
「やめます。……疲れました」
奥の部屋。
男は、座った。
座るときに、右膝を、両手で支えた。
そして、座り終えるまでに、時間がかかった。
「膝を、痛めておられますか」
「はい」
「いつ」
「十一年前です」
男は、そう答えた。
「二十九のときに、壊しました」
直也は、その膝を見た。
袴の上からでも、右膝が、左より一回り太いのがわかる。腫れているのではない。骨か、その周りが、変形しているのだ。
「見せていただけますか」
男は、少し、迷った。
そして、袴の裾をまくった。
田中が、息を呑んだ。
膝の上から、脛にかけて。
一本の線が、走っていた。
まっすぐな線だった。
白く、細く、縁が揃っている。ところどころに、横に走る細い痕が、規則正しく並んでいた。
「これは」
田中が、そう言った。
「これは、傷にございますか」
「傷です」
男は、そう答えた。
「切って、中を直して、縫いました」
「……縫った」
田中は、その線を、まじまじと見た。
そして、直也を見た。
「代官殿。これは、その、人の手でございますか」
「人の手だ」
直也は、そう答えた。
「ただし、この国の医者の手ではない」
直也は、そう言った。
まっすぐな切開。等間隔の縫合痕。この時代の外科では、まず、こうはならない。この時代の医者は、切らない。切っても、こうは縫えない。
そして何より――この男は、生きている。
十一年前に膝を切り開かれて、化膿もせず、歩いている。
「岩ヶ嶽どの」
直也は、そう呼んだ。
「はい」
「一つ、お願いがあります」
「なんでしょう」
「四股を、踏んでいただけませんか」
男の顔が、止まった。
「……四股」
「はい」
直也は、そう言った。
「力士の、あの、足を上げて踏むものです。膝が悪いなら、低くてかまいません。形だけで結構です」
男は、しばらく、動かなかった。
そして、立ち上がった。
膝をかばいながら、立ち上がった。
足を開いた。
腰を落とした。
そこまでは、よかった。腰の落とし方は、見事だった。膝が悪いとは思えないほど、深く、安定して落ちた。
そして、足を上げた。
上げて――止まった。
上げた足を、どこへ持っていけばいいのか、わからないという止まり方だった。
膝が痛くて上がらないのではない。
型を、知らないのだ。
「……できません」
男は、そう言って、足を下ろした。
「知りません。見たことは、あります。ですが、やり方を、知りません」
男は、そう言った。
「相撲取りは、四股を踏むのでしたね」
「踏みます」
直也は、そう答えた。
「毎日、何百回も」
「そうですか」
男は、そう言って、座り直した。
そして、少し、笑った。
「私は、力士では、ありません」
「では、何者ですか」
直也は、そう聞いた。
「レスリングの選手でした」
男は、そう答えた。
「レスリング」
「異国の、相撲のようなものです」
男は、そう言った。
「私の国では、それが、いちばん大きな競技でした。私は、それを、四歳から、二十九まで、やりました」
男は、そう言った。
「名は、ギオルギ・ナダレイシヴィリと申します。ジョージアという国の生まれです。二十一世紀の者です」
直也は、その名を、頭の中で、繰り返した。
「ギオルギどの」
「はい」
「あなたも、誰かに、勧められて来られたのですか」
その問いに、直也は、自分でも気づかないほど、力が入っていた。
――誰かが、まだ、送っているのか。
だが、ギオルギは、首を振った。
「いいえ」
「誰も、来ませんでしたか」
「来ません」
ギオルギは、そう答えた。
「誰も、私に、何も言いませんでした。……ある朝、目が覚めたら、ここにおりました」
直也は、その言葉を、聞いた。
自分と、同じだった。
「いつのことですか」
「一年と、二月前です」
一年と、二月。
小野寺が、送るのをやめたと言った、その後だ。
直也は、しばらく、黙っていた。
「岩ヶ嶽どの。……いや、ギオルギどの」
「はい」
「今夜、少し、お話を伺ってもよろしいか」
ギオルギは、頷いた。
「かまいません」
そして、こう言った。
「私は、話すことしか、もう、できませんので」




