第44話 仕様―選ばれた理由を告げられた夜―
その夜、直也は、酒も水も持たずに、その部屋へ行った。
相手は、飲まない。
そう思ったからだ。
果たして、男は、昼と同じ姿勢で、同じ場所に座っていた。
疲れも、退屈も、そこにはなかった。
「小野寺さま」
「その名で結構です」
男は、そう言った。
「名は、便利なものです。私には、もともと、ありませんので」
直也は、その向かいに座った。
「昼の続きを、伺いたい」
「どうぞ」
「あなたは、私がいるから、この関所に人を送ったと言われた」
「はい」
「なぜ、私なのですか」
男は、しばらく、答えなかった。
答えを探しているのではない、と直也にはわかった。
どう言うかを、選んでいるのだ。
「順を追って、申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「まず、私の役目を申し上げます」
男は、そう言った。
「私は、時代の間を、人が移れるようにする仕組みの、一部です。誰を移すかを選び、話を持ちかけ、送り出します」
「なぜ、そんなことを」
「わかりません」
男は、そう答えた。
「私は、その目的を知らされておりません。知らされる必要がないからです。私は、選んで、送るところまでを担当しております」
男は、そう言った。
「ただ、一つ、確かなことがあります。送るだけでは、足りないのです」
「足りない」
「はい」
男は、頷いた。
「時代を移った者は、その時代を、壊します。壊す気がなくても、壊します。言葉が違う。道具が違う。考え方が違う。ただ歩いているだけで、その時代の何かが、ずれます」
男は、そう言った。
「壊れすぎると、こちら側にも、影響が出ます。ですから、間に、何かを置く必要がありました」
「……関所ですか」
「関所です」
男は、そう言った。
「時代を移った者が、必ず一度は通る場所。そこで、一度、止められる場所。話をさせられる場所」
男は、そう言った。
「そこに、誰を置くか。それが、私の仕事のうちで、いちばん難しいところでした」
「どのような者を、探されたのですか」
直也は、そう聞いた。
「三つ、条件がありました」
男は、そう答えた。
「一つ。その時代の者ではないこと。その時代の者では、転移者の異常に気づけません」
「なるほど」
「二つ。人を見る目があること。細かい違いに気づく者でなければ、話を引き出せません」
「……」
「三つ」
男は、そこで、少し、間を置いた。
「三つ目が、いちばん重要でした」
「なんですか」
男は、直也を見た。
そして、こう言った。
「決断をしたことがない者であること」
直也の呼吸が、止まった。
「……なぜ、です」
「止めては、困るからです」
男は、そう答えた。
「関所は、必要です。ですが、そこで転移者が捕らえられ、処刑されては、困るのです。彼らは、送り出された者です。送った先で殺されては、送った意味がありません」
男は、そう言った。
「一方で、素通りさせても、困ります。何も起きずに通り過ぎれば、彼らは、何も変わらずに、その時代に散らばります」
男は、そう言った。
「必要だったのは、こういう場所です。――必ず引き止め、必ず話をさせ、必ず通す場所」
直也は、その言葉を、噛んだ。
「必ず通す」
「はい」
「必ず、ですか」
「はい」
男は、頷いた。
「ですから、決断のできない者が、必要でした」
行灯の芯が、爆ぜた。
直也は、動かなかった。
「私は、あなたを、二年前に見つけました」
男は、そう言った。
「四十二歳。無職。十九年、職に就いていない。親の家に住み、親の金で暮らしている」
男は、そう言った。
「大学を三年で辞めている。就職の内定を、二度、辞退している。結婚の話を、一度、流している。……あなたは、四十二年で、大きな決断を、一つもしていません」
直也は、聞いていた。
否定できなかった。
「その一方で、あなたは、細かいことに、よく気づきました。あなたは、遊戯の中で、人物の言動の矛盾を探すことに、長い時間を費やしていました。上手でした」
男は、そう言った。
「条件に、完全に合っていました」
男は、そう言った。
「私は、あなたを、選びました。そして、あなたには、話を持ちかけませんでした」
「……話を、持ちかけない」
「はい」
男は、頷いた。
「他の者には、選ばせました。行くか、行かないかを。あなたには、選ばせておりません」
男は、そう言った。
「あなたが、ここへ来ることを選んでいたら、それは、決断になってしまいます。それでは、条件が崩れます」
男は、そう言った。
「ですから、あなたは、寝ているあいだに、ここへ来たのです」
直也は、長いあいだ、何も言わなかった。
思い出していた。
あの朝のことを。
目を覚ましたら、板張りの部屋にいた。見知らぬ男が、「代官殿、お目覚めでございますか」と言った。それが、田中だった。
何が起きたのか、わからないまま、一日が過ぎ、二日が過ぎた。
そして、一人目の旅人が来た。
「――私は」
直也は、そう言った。
「私は、二年、悩んできました」
「存じております」
「通すたびに、眠れませんでした」
「存じております」
「あれは」
直也は、そう言った。
「あれは、全部、意味がなかったのですか」
男は、答えなかった。
「私が悩もうが、悩むまいが、結果は同じだった。私は、必ず通す。そうなるように、選ばれていた」
直也は、そう言った。
「私が二年かけてやってきたことは、あらかじめ、決まっていたことをなぞっただけですか」
男は、しばらく、直也を見ていた。
そして、こう答えた。
「結果は、同じです」
「……」
「二十人、すべて、通りました。私の見込んだ通りです」
男は、そう言った。
「その点において、あなたの悩みには、意味がありませんでした」
直也は、目を閉じた。
不思議なことに、怒りは、湧いてこなかった。
代わりに、ひどく、静かなものが、腹の底に落ちてきた。
――ああ、そうか。
そう思った。
自分は、ずっと、これを恐れていたのだ。
判断していないのではないか。演じているだけではないか。数えていないだけではないか。見ているだけではないか。
そう問われるたびに、直也は、少しずつ、自分を作り直してきた。
だが、その根本のところで、直也は、こう疑っていた。
――自分が何をしようと、何も変わらないのではないか。
その疑いに、今、はっきりとした形で、答えが与えられた。
変わらなかった。
二十人、全員、通った。
「小野寺さま」
直也は、目を開けた。
「はい」
「一つ、伺います」
「どうぞ」
「あなたは、なぜ、今日、それを私に言ったのですか」
男の動きが、止まった。
昼から、この男が、初めて見せた「間」だった。
「……なぜ、とは」
「言う必要はなかったはずです」
直也は、そう言った。
「私が知らずにいれば、私は、これからも悩み続け、これからも通し続けたでしょう。あなたの仕組みは、そのまま回りました」
直也は、そう言った。
「私に真相を告げれば、私は、壊れるかもしれない。やめるかもしれない。次から、全部、捕らえるようになるかもしれない。……あなたにとって、何一つ、得がありません」
直也は、そう言った。
「なぜ、言われたのですか」
長い、沈黙があった。
行灯の油が、静かに減っていった。
「……確かめたかったのです」
男は、そう言った。
「何をです」
「あなたが、変わったかどうかを」
「私は、五月前から、人を送っておりません」
男は、そう言った。
「二十人目を送った後、送るのをやめました」
「なぜです」
「あなたが、書き始めたからです」
男は、そう言った。
「あなたは、一年目、名を偽り、記録を消しておりました。それは、私の見込み通りでした。決断のできない者は、痕跡を残しません。残せば、決断したことになりますから」
男は、そう言った。
「ところが、あなたは、去年の秋から、書き始めました。帳面のいちばん後ろに」
男は、そう言った。
「それは、私の見込みに、ありませんでした」
直也は、その言葉を、静かに聞いていた。
「あなたの出す答えは、変わっておりません。二十人、全員、通しました。それは、私の見込み通りです」
男は、そう言った。
「ですが、あなたは、通す前に、するようになったことがあります。数え、書き、毎晩読む。……これは、私の見込みに、ありません」
男は、そう言った。
「私には、それが何なのか、わかりません」
男は、そう言った。
「同じ答えを出しているのに、何かが違います。ですが、その違いを、私は、測れません。……それで、送るのを止めました」
男は、直也を見た。
「私は、測れないものを、扱えません」
直也は、しばらく、動かなかった。
そして、ゆっくりと、息を吐いた。
「小野寺さま」
「はい」
「あなたは、断れますか」
「何をです」
「あなたに命じられたことを」
男は、答えなかった。
「あなたは、選んで、送るのが役目だと言われた。目的は知らされていないとも言われた。……では、あなたは、それを断れますか」
男は、しばらく、黙っていた。
そして、こう答えた。
「断れません」
「一度も、断ったことがない」
「ありません」
「では」
直也は、そう言った。
「あなたと私は、同じです」
男の目が、動いた。
「私は、四十二年、何も決めませんでした。そして、ここへ来て、二年、二十人を通しました。全部、決められていた通りです」
直也は、そう言った。
「あなたも、決められた通りに、動いておられる。私も、決められた通りに、動いてきた。……違うところが、ありますか」
「あります」
男は、そう答えた。
「なんですか」
「あなたは、悩みました」
男は、そう言った。
「私は、悩みません」
「悩んで、何になりました」
直也は、そう言った。
「結果は、同じでした」
「結果は、同じです」
男は、そう繰り返した。
「ですが、あなたは、二十行を書きました」
男は、そう言った。
「私は、二十人を送りました。名も、経緯も、すべて記録しております。私の記録は、あなたの帳面より、はるかに正確です。日付も、時刻も、彼らが何を言ったかも、一字違わず残っております」
男は、そう言った。
「ですが、私は、それを、毎晩読みません」
行灯が、細くなった。
「読む必要がないからです」
男は、そう言った。
「忘れませんので」
直也は、そのとき、はじめて、この男を、少し、気の毒だと思った。
そう思った自分に、驚いた。
「小野寺さま」
「はい」
「私は、あなたを通します」
男は、少し、間を置いた。
「私は、通行を願っておりません」
「そうでしょうね」
直也は、そう言った。
「あなたは、検分に来られた。願う立場ではない」
直也は、そう言った。
「ですが、通します。……そして、帳面に書きます」
「私を、書くのですか」
「書きます」
「私は、人ではありません」
「知っております」
直也は、そう言った。
「前にも、人でないものを、一人、書きました」
男は、しばらく、直也を見ていた。
「……何を、お書きになるのですか」
「あなたが、二十人を送ったことを」
直也は、そう言った。
「そして、五月前に、止めたことを」
男の顔が、初めて、わずかに動いた。
「それは」
男は、そう言った。
「それは、私の落ち度です。書けば、残ります」
「はい」
「私は、止めるように命じられておりません。私が、勝手に止めました」
男は、そう言った。
その声が、少しだけ、速くなっていた。
「気づかれれば、私は、止められるかもしれません」
「そうでしょう」
直也は、そう言った。
「では、なぜ」
「なぜ、あなたは止めたのですか」
直也は、そう聞き返した。
男は、答えなかった。
「命じられていないことを、あなたは、しました」
直也は、そう言った。
「断れないと言われましたが、あなたは、五月前に、一つ、断っておられる」
直也は、そう言った。
「それは、決断ではありませんか」
男は、動かなかった。
長い、長い時間、動かなかった。
そして、こう言った。
「……測れません」
「はい」
直也は、頷いた。
「私も、測れません」
直也は、そう言った。
「ですから、書きます。測れないものは、書いておくしかありません」
翌朝。
よく晴れていた。
小野寺は、書物箱を提げて、関所の前に立った。
田中が、震える手で、見送りに出た。
「小野寺さま。……その、帳面の件は」
「異常なし」
小野寺は、そう言った。
「そのように報告する」
田中の膝から、力が抜けた。
山本が、慌てて支えた。
小野寺は、直也の前に立った。
「代官どの」
「はい」
「一つ、お聞きしてよろしいか」
「どうぞ」
「私が止めた理由を、あなたは、ご存じか」
直也は、少し考えた。
そして、答えた。
「知りません」
「では、なぜ、私が『断った』と言われたのですか」
「言ってみただけです」
直也は、そう答えた。
「私は、二年、この関所で、旅人に言ってみることばかりしてきました。当たったこともあれば、外れたこともあります」
直也は、そう言った。
「今のは、外れかもしれません」
小野寺は、しばらく、直也を見ていた。
そして、こう言った。
「……外れていないかもしれません」
そう言って、頭を下げた。
その一礼は、いくらか、ぎこちなかった。
これまで、この男がしてきた所作の中で、初めて、完璧でないものだった。
小野寺は、街道を歩いていった。
その背中を、直也は、見送った。
「代官殿」
田中が、そう言った。
「うん」
「あのお方は、いったい」
「役人だ」
直也は、そう答えた。
「江戸から来た、検分の役人だ」
「……はあ」
田中は、納得のいかない顔をした。
だが、それ以上は、聞かなかった。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
いつもの頁に、こう書いた。
「江戸表御用 小野寺某 関所帳検分 異常なしと申し置きて出立」
そして、いちばん後ろの頁を、開いた。
二十行の下に、二十一行目を書いた。
「二十一 小野寺と名乗りし者 人にあらず 遠くよりこの体を動かせりと申す」
そして、続けた。
「この者、我がもとに来たりし二十人を、悉く送りし者なり。目的は知らずと申す。断ることを能わずと申す」
そこで、直也は、筆を止めた。
しばらく考えて、書き足した。
「されど、五月前より人を送るを止めたり。命ぜられてのことにあらず。この者、その理由を測れずと申す。我も測れず」
書き終えて、直也は、筆を置いた。
そして、思った。
――二十人は、通ることに、決まっていた。
自分が悩もうが、悩むまいが、同じだった。
だが。
自分が書き始めたことは、決まっていなかった。
あの機械は、それを、見込んでいなかった。見込んでいなかったから、送るのをやめた。
つまり。
二年で、たった一つだけ、決まっていなかったことが、起きたのだ。
それは、判断ではない。
判断は、全部、決まっていた。
決まっていなかったのは――判断のあとに、何をするかだった。
直也は、二十一行を、はじめから読んだ。
読み終えるのに、半刻と、少しかかった。
読み終えて、灯りを消した。
暗闇の中で、直也は、思った。
――明日から、また、来るだろうか。
送るのを止めたと、あの男は言った。
ならば、もう、誰も来ないのかもしれない。
来ないなら、それでもいい、と直也は思った。
二十一行は、もう、ここにある。
読むものは、あるのだ。




