第43話 帳面改め―一言一句を違えぬ検分役―
名を持たざる者が星明かりの中へ去ってから、五月が過ぎた。
年が明け、春が来て、また田植えの季節になっていた。
その五月のあいだ、関所は、静かだった。
転移者は、一人も来なかった。
普通の旅人は、来る。商人が来て、飛脚が来て、湯治の隠居が来る。手形を検め、荷を検め、通す。それが、毎日、続いた。
はじめのうち、直也は、それを、休みのように感じていた。
だが、二月、三月と続くうちに、別のことを、考えるようになった。
――減っている。
そう思った。
一年目は、月に一人か二人、来ていた。二年目も、そうだった。それが、この五月、一人も来ない。
理由はわからない。だが、何かが変わったのだ、と直也は思った。
そして、直也は、毎晩、二十行を読み続けていた。
読み終えるのに、半刻かかる。半刻かけて読んで、灯りを消す。それが、直也の一日の終わりだった。
田植えが終わった頃。
昼前に、街道の向こうから、一人の男が歩いてきた。
供はいない。
だが、遠目にも、身分が知れた。
歩き方だ。旅人の歩き方ではない。急いでもいないし、疲れてもいない。道の真ん中を、まっすぐ歩いてくる。
そして、その脇に、書物箱を提げていた。
「代官殿」
田中の声が、硬くなった。
「あれは、御役人でございましょう」
「そう見えるな」
「……何のご用でございましょうか」
田中の顔から、血の気が引いていた。
直也には、その理由が、わかっていた。
帳面だ。
この関所の帳面には、二十人分の偽りが書いてある。十字架を見なかったことにした記録がある。異国の名と罪を書いた頁がある。人ならざるものについて書いた行がある。
一つでも見つかれば、直也は、終わりだ。
田中も、山本も、無事では済まない。
「田中」
直也は、そう言った。
「はっ」
「顔を戻せ。今のお前の顔は、罪を白状しているようなものだ」
田中は、慌てて、頬を叩いた。
「……申し訳ございませぬ」
男が、関所の前に立った。
四十ほどに見えた。中背。中肉。
顔立ちに、これといった特徴がない。目も、鼻も、口も、ごく普通の大きさで、ごく普通の位置にある。一度見て、目を離すと、思い出せなくなりそうな顔だった。
「御用改めである」
男は、そう言った。
その声も、普通だった。高くも低くもない。
「江戸表より、街道筋の関所を順に検分いたしておる。関所帳を、拝見したい」
男は、そう言って、懐から書付を出した。
田中が、受け取った。
そして、震える手で、それを検め、直也に渡した。
書付は、正しかった。
正しすぎるほど、正しかった。
奉行所の印。書式。文言。日付。すべてが、この時代の公文書として、完璧だった。
直也は、それを見ながら、しばらく黙っていた。
そして、顔を上げた。
「遠路、ご苦労にございます」
直也は、そう言った。
「奥へ、どうぞ。すぐに、お茶を」
「不要である」
男は、そう言った。
「帳面を」
奥の部屋。
直也は、関所帳を持ってきた。
置く前に、一つだけ、確かめておきたいことがあった。
「失礼ながら、お名前を伺ってよろしいか」
「小野寺と申す」
「小野寺さま。ご出立は、いつ頃で」
「三月二日である」
「では、江戸を出られてから、三月余り。……道中、雨に難儀なされたでしょう」
「雨には遭うておらぬ」
男は、そう答えた。
「四月は、この地方、よく降りましたが」
「四月十一日から十四日にかけて、および二十七日に降雨があった。いずれも、宿にあった」
直也は、その返答を、聞いた。
そして、思った。
――日付を、覚えている。
覚えているのは、おかしくない。役人であれば、日を記す習慣はある。
だが、この男は、迷わなかった。
「四月は、よく降りましたな」と言われて、「そういえば、十一日から」と思い出す間が、なかった。
問われた瞬間に、答えが、そこにあった。
直也は、帳面を、男の前に置いた。
「どうぞ、お検めください」
男は、帳面を開いた。
そして、めくり始めた。
速かった。
異様に、速かった。
一頁につき、二呼吸ほど。目が、上から下へ、一度動くだけだ。それで、次の頁へ行く。
読んでいるのか。ただめくっているのか。
直也には、判じられなかった。
田中が、部屋の隅で、身を縮めていた。
やがて、男は、いちばん後ろの頁に、辿り着いた。
二十行が書かれた、あの頁だ。
男の手が、そこで、止まった。
そして、初めて、時間をかけた。
一行ずつ、目が動いた。上から下へ、二十回。
田中の額に、汗が浮いていた。
直也は、動かなかった。
長い時間だった。
やがて、男は、帳面を閉じた。
「異常なし」
そう言った。
「……は」
田中が、思わず、声を漏らした。
「異常なし。よく整うておる」
男は、そう言って、帳面を、直也のほうへ押し戻した。
直也は、それを、受け取らなかった。
「小野寺さま」
「なんだ」
「いちばん後ろの頁は、どのようにお読みになりましたか」
男は、直也を見た。
そして、こう言った。
「一。共の国より来し者。二。浅倉源太と名乗りし者。三。伊藤田進一と名乗りし者。四。田中部新一と名乗りし者。五。中村商太と名乗りし者。六――」
そらんじていた。
一度、二十回、目を動かしただけで。
田中が、腰を浮かせた。
「小野寺さま」
直也は、そう言った。
「もう、けっこうです」
男は、止まった。
途中で、きれいに、止まった。
言葉の途中でもない、息の切れ目でもない、ただ、言われたところで、止まった。
「あなたは、役人ではありませんね」
直也は、そう言った。
男は、答えなかった。
「田中。山本。下がってくれ」
「代官殿!」
「下がれ」
直也は、そう言った。
「これは、私の役目だ」
田中は、しばらく動かなかった。
そして、深く頭を下げて、下がった。
障子が、閉まった。
二人になった。
「もう一度、伺います」
直也は、そう言った。
「あなたは、何者ですか」
男は、しばらく、直也を見ていた。
そして、こう言った。
「私は、人ではありません」
「……人ではない」
「はい」
男は、頷いた。
「これは、体です。作られたものです。中には、私は、おりません。私は、もっと別のところにおります」
男は、そう言った。
「この体は、私が、遠くから動かしております」
直也は、その言葉を、受け止めた。
一年半前の自分なら、笑ったかもしれない。
今は、笑わなかった。
「あなたは、機械ですか」
「その言葉が近いです」
男は、そう答えた。
「私の作られた時代では、私のようなものは、いくつもありました。人が作り、人が使い、人が止めます」
「では、あなたは、誰かに使われて、ここへ来たのですか」
「はい」
「誰にです」
男は、答えなかった。
「言えませんか」
「言えます」
男は、そう答えた。
「ですが、名を言っても、あなたには、わかりません。人ではないからです。組織ですらありません。……仕組み、と申したほうが、近いでしょう」
男は、そう言った。
「私は、その仕組みの、一部です」
直也は、しばらく、黙っていた。
そして、聞いた。
「小野寺さま。二つ、お尋ねしたいことがあります」
「どうぞ」
「一つ目。なぜ、あの頁を、異常なしとされたのですか」
「異常がないからです」
男は、そう答えた。
「あの頁に書かれていることは、すべて、事実です。事実の記録に、異常はありません」
「公儀にとっては、異常でしょう」
「私は、公儀の者ではありません」
男は、そう言った。
「私が確かめに来たのは、書式ではありません。……あなたが、書いているかどうかです」
直也の背に、冷たいものが走った。
「二つ目を、どうぞ」
男は、そう促した。
直也は、口の中が乾くのを感じた。
そして、聞いた。
「なぜ、あなたは、浅倉源太という名を知っているのですか」
男は、答えなかった。
「その名は、私が作りました」
直也は、そう言った。
「二年前に、私が、その場で思いついた名です。本人は、そう名乗っていません。この世で、その名を知っているのは、私と、田中と、山本だけです」
直也は、そう言った。
「あなたは、今、それをそらんじられた。……この帳面を、はじめて見て、そらんじたのですか。それとも、はじめから知っていたのですか」
長い、沈黙があった。
男の顔は、変わらなかった。
困りもしなかったし、笑いもしなかった。
「知っておりました」
やがて、そう答えた。
「……いつから」
「あなたが書いた日から」
男は、そう言った。
「私は、二十人を、あなたのところへ送りました」
直也は、動けなかった。
「Jacob Soulterに、別の時代へ行けると言ったのは、私です」
男は、そう言った。
「白石律に言ったのも、ユスフ・アブディに言ったのも、ダニエル・オルセンに言ったのも、私です。この体ではありません。別の体で、別の顔で、それぞれのところへ行きました」
男は、そう言った。
「私は、彼ら全員に、この街道を通るように、勧めました」
「……なぜです」
直也は、そう聞いた。
声が、掠れていた。
「なぜ、この関所なのですか」
男は、直也を見た。
そして、こう言った。
「あなたが、いるからです」




