第42話 見ておりました―三百年の見物人と、見守る者を名乗った男―
結局、直也は、女を中に入れなかった。
入れられなかった、というほうが正しい。
代わりに、直也は、床几を二つ、関所の外に出させた。見えない線を挟んで、内と外に、一つずつ置いた。
田中も山本も、震えながら、それを運んだ。
そして、二人とも、逃げるように、奥へ引っ込んだ。
弥生だけが、何も見えないまま、「代官さま、風邪をひきますよ」と言って、綿入れを持ってきた。
直也は、それを羽織って、外の床几に座った。
女は、線の向こうの床几に、座った。
座れるのか、と直也は少し驚いた。
「座れるのですね」
「置いていただければ」
女は、そう答えた。
「置いていただかないものには、触れません」
夜になっていた。
月はない。星だけが出ていた。
「お名前を、伺ってよろしいですか」
直也は、そう聞いた。
「ありません」
女は、即座にそう答えた。
「ないのですか」
「はい」
「では、なんとお呼びすれば」
「なんとでも」
女は、そう言った。
「田中さまは、私を『赤い着物の娘』と呼びます。山本さまは『白髪の婆さま』と。宿場では『関所の女』と申します。……どれも、私の名ではありませんが、どれも、私です」
直也は、その言葉を、慎重に受け取った。
「あなたは、何者ですか」
「何者でもありません」
女は、そう答えた。
「私は、人ではありません。人だったこともありません」
「……幽霊では、ないのですか」
「違います」
女は、はっきりと、そう言った。
「幽霊は、人が死んで、残ったものでしょう。私は、下に誰もおりません」
女は、そう言った。
「私は、話でできております」
「三百年前、この関所ができたとき」
女は、そう語り始めた。
「若い女が、この関所で止められて、通れずに、外で死んだ――そういう話が、できました」
「実際に、あったことですか」
「わかりません」
女は、そう答えた。
「あったのかもしれませんし、なかったのかもしれません。……ですが、あってもなくても、同じです。話ができたことが、大事なのです」
女は、そう言った。
「その話を、人が語りました。夜、宿で。子どもに。旅の連れに。……語られるたびに、少しずつ、形ができました。赤い着物になり、十六、七になり、こちらを見て、声をかけると消える、という形になりました」
女は、そう言った。
「そして、ある日、私は、ここにおりました」
直也は、黙って聞いていた。
「気づいたときには、おりました。それより前のことは、ありません」
女は、そう言った。
「私には、生まれた日がありません。作られていった、というだけです」
「三百年、何をしておられましたか」
直也は、そう聞いた。
「見ておりました」
女は、そう答えた。
「それだけです」
「それだけ」
「はい」
女は、頷いた。
「私は、何もできません。触れません。入れません。声をかけられれば答えますが、こちらからは、かけられません。……ただ、見ております」
女は、そう言った。
「三百年、この関所を、見てまいりました」
直也は、その言葉を、飲み込んだ。
そして、口の中が乾くのを感じた。
――見ておりました。
直也が、一年半、自分に言い聞かせてきた言葉だった。
判断はしない。裁かない。ただ、見守る。
そう言って、直也は、十九人を通してきた。
「あなたは」
直也は、そう言いかけて、言葉を選び直した。
「あなたは、見ているだけで、苦しくありませんか」
女は、直也を見た。
そして、はじめて、少しだけ、笑った。
その笑い方が、ひどく静かだった。
「代官さまは、そう聞かれるのですね」
「……はい」
「三百年で、そう聞かれたのは、はじめてです」
女は、そう言った。
「たいていの方は、『恨んでいるのか』とお聞きになります。あるいは、『何が望みだ』と」
女は、そう言った。
「苦しいか、と聞かれたのは、はじめてです」
「苦しゅうございます」
女は、そう答えた。
「見ることは、何もしないことではありません」
その一言が、直也の胸に、まっすぐ入ってきた。
「……もう少し、聞かせてください」
「はい」
女は、頷いた。
「たとえば、二十年ほど前のことです」
女は、そう語り始めた。
「冬に、母子が、この関所に来ました。手形がなくて、通れませんでした。当時の代官さまは、決まりの通りになさいました。何も、悪いことはなさっておりません」
女は、そう言った。
「母子は、外で、一晩待ちました。私は、そこにおりました。二歩の距離に」
女は、そう言った。
「子が、朝までもちませんでした」
直也は、目を閉じた。
「私は、見ておりました」
女は、続けた。
「触れません。声もかけられません。呼ばれなければ、答えられません。……ですが、見ておりました。ずっと、見ておりました」
女は、そう言った。
「代官さま。その夜、私は、何もしませんでした。何もできませんでした。……それでも、私は、そこにおりました」
女は、直也を見た。
「おらぬのと、おって何もせぬのとは、違います」
星が、少し、動いていた。
直也は、綿入れの前を、合わせ直した。
「私は」
直也は、そう言いかけた。
言葉が、うまく出てこなかった。
「私は、一年半、自分のことを『見守る者』だと言ってきました」
ようやく、そう言った。
「判断はしない。裁かない。ただ見守る。……そう言って、十九人を通しました」
直也は、そう言った。
「そう言えば、責めを負わずに済むと思っていました。見ているだけの者に、罪はない、と」
女は、黙って聞いていた。
「ですが、違うのですね」
「違います」
女は、そう答えた。
「見ている者は、そこにおります。おる以上、そこで起きたことの、内側におります」
女は、そう言った。
「私は、三百年、何もしておりません。ですが、この関所で起きたことを、一つ残らず、抱えております」
女は、そう言った。
「見るというのは、そういうことです。無事では、済みません」
直也は、しばらく、何も言えなかった。
――見守ることは、何もしないことではない。
一年半かけて、直也は、その言葉を、逃げ場として使ってきた。ヨハネスに剥がされ、ダニエルに剥がされ、白石律に剥がされ、それでもまだ、心のどこかで、「見ているだけなら罪は薄い」と思っていた。
その最後の一枚を、目の前の、話でできた女が、剥がしていった。
「代官さま」
女は、そう呼んだ。
「はい」
「私を、通していただけませんか」
その言葉に、直也は、顔を上げた。
「通す。……どこへ」
「わかりません」
女は、そう答えた。
「向こうへ、というだけです。この線の、向こうへ」
女は、そう言った。
「三百年、越えられませんでした。私は、この関所に、留められております」
「何に、留められているのですか」
「話に」
女は、そう答えた。
「『関所の女』という話に、留められております。関所を離れれば、私は、関所の女ではなくなります。ですから、離れられません」
女は、そう言った。
「ですが、近頃、街道が変わりました。北に、新しい道ができて、こちらを通る者が減りました。……私の話をする者も、減りました」
「では、あなたは」
「薄くなっております」
女は、そう答えた。
「あと何十年かで、たぶん、消えます。誰も語らなくなれば、私は、なくなります」
女は、そう言った。
「それでも、よいのです。……ただ、消える前に、一度、この線を越えてみたいのです」
女は、そう言った。
「三百年、同じ場所から、同じ景色を見ておりました。一度でよいのです。向こう側から、こちらを見てみたいのです」
直也は、長いあいだ、動かなかった。
そして、聞いた。
「手形を書けば、越えられますか」
「わかりません」
女は、そう答えた。
「ですが、あなたが書かれた手形を、私は、持っておりました」
「あれは、私が書いた覚えのないものです」
「はい」
女は、頷いた。
「ですから、これから、書かれるのだと思います」
直也は、その言葉を、しばらく考えた。
そして、こう言った。
「一つ、困ったことがあります」
「なんでしょう」
「私は、二月前に、ある男の頼みを断りました」
直也は、そう言った。
「その男は、書かないでくれと言いました。書かれるのに疲れた、と。……私は、断りました。書かれないことは、救いではないと言って、断りました」
直也は、そう言った。
「私は、書くほうが正しいと思っております。ですが、あなたを書けば、あなたは、いっそう、ここに留まるのではありませんか」
直也は、そう言った。
「あなたは、話に留められている。帳面も、話です。私が書けば、私が、あなたを、もう一本、縛るのではありませんか」
女は、その問いに、答えなかった。
長く、答えなかった。
「……そうかもしれません」
やがて、そう言った。
「そうかもしれませんが、私には、わかりません」
「私にも、わかりません」
直也は、そう答えた。
二人は、しばらく、黙っていた。
見えない線を挟んで、二つの床几に、二人が座っていた。
「一つ、伺ってよろしいですか」
直也は、そう言った。
「はい」
「あなたを縛っているのは、『関所の女』という話です」
「はい」
「その話には、何が書いてありますか」
女は、少し考えた。
「若い娘が、通れずに死んだ。今も、関所の外に立っている。声をかけると消える。……それだけです」
「あなたが、三百年、見てきたことは」
直也は、そう聞いた。
「その話に、入っていますか」
女の動きが、止まった。
「……入っておりません」
「二十年前の、母子のことは」
「入っておりません」
「あなたが、二歩の距離で、朝まで見ていたことは」
「……入っておりません」
女の声が、初めて、揺れた。
直也は、頷いた。
「では、書きます」
直也は、そう言った。
「あなたを、赤い着物の娘として書きません。白髪の婆さまとしても書きません。関所の女とも書きません」
直也は、そう言った。
「あなたが、三百年、見ていたということを、書きます」
女は、動かなかった。
「それは」
女は、そう言った。
「それは、私を、縛りますか」
「縛るでしょう」
直也は、そう答えた。
「ですが、縛る綱が、変わります」
直也は、そう言った。
「今、あなたを縛っているのは、他人が作った話です。あなたが一度も言っていないことで、あなたは、縛られている。……私が書くのは、あなたが自分でしたことです」
直也は、そう言った。
「あなたは、見ていた。それは、話ではありません。行いです」
女の口が、開いた。
「……行い」
「はい」
直也は、頷いた。
「私は、一年半、見守ることを、何もしないことだと思っておりました。今夜、あなたに、それは違うと教わりました」
直也は、そう言った。
「見ることが行いなら、あなたは、三百年、働き続けたのです。……働いた者は、帳面に載ります」
女は、しばらく、直也を見ていた。
そして、はじめて、はっきりと、笑った。
「……妙な代官さまです」
「よく言われます」
「誰に」
「たいてい、通す前の晩に」
女は、声を出さずに、笑った。
直也は、中へ戻り、硯を持って出てきた。
そして、その場で、手形を書いた。
「関所 女 通行を許す」
それだけの、短いものだ。
書きながら、直也は、思った。
――これは、あの一枚と、同じ字だ。
同じ癖で、同じ濃さで、書いている。
書き終えて、直也は、それを、線の向こうへ、差し出した。
女は、それを、受け取った。
受け取れた。
「触れられるのですね」
「渡していただければ」
女は、そう答えた。
女は、立ち上がった。
そして、足元の線を、見た。
「代官さま」
「はい」
「越えられなかったら、笑ってください」
「笑いません」
直也は、そう言った。
「そのときは、また床几を出します」
女は、頷いた。
そして、一歩、踏み出した。
越えた。
何も起きなかった。
音もなかったし、光もなかった。ただ、女が、一歩前に出て、そこに立っていた。
女は、振り返った。
そして、関所を見た。
三百年、外から見てきた関所を、内側の側から、見た。
「……同じですね」
女は、そう言った。
「同じですか」
「はい。同じです」
女は、そう言って、笑った。
「三百年、こちらから見たら違うのだろうと思っておりました。……同じでした」
女は、そう言った。
「よかった」
直也には、それが、なぜ「よかった」なのか、わからなかった。
聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
女は、街道のほうを向いた。
「行かれますか」
「はい」
「どちらへ」
「わかりません」
女は、そう答えた。
「わかりませんが、行けます」
女は、そう言って、歩き出した。
十歩ほど歩いて、振り返った。
「代官さま」
「はい」
「あなたも、見ておられます」
女は、そう言った。
「無事では、済みません」
「はい」
直也は、頷いた。
「済まないつもりで、おります」
女は、頷いた。
そして、歩いていった。
星明かりの下を、五十歩ほど歩いたところで、その姿は、見えなくなった。
消えたのか、遠ざかったのか、直也には、わからなかった。
その夜。
直也は、関所帳を開いた。
いつもの頁には、何も書かなかった。
書きようがなかった。
いちばん後ろの頁を、開いた。
「二十」
数字だけの、あの行があった。
直也は、その下に、続きを書いた。
「二十 名を持たざる者 この関所に三百年おりし者」
そして、続けた。
「人にあらず。死者にもあらず。人の語りより成りし者と申す。触るること能わず、入ること能わず、呼ばれずして語ること能わず。ただ見ることのみを能くせり」
そこで、一度、筆を止めた。
そして、書き足した。
「二十年前の冬、手形なき母子この関所の外に一夜を明かし、子は朝を待たずして死せり。この者、二歩の距りにて、これを終いまで見ておりたりと申す」
直也は、そこまで書いて、筆を置いた。
その一行は、これまでのどの行より、長かった。
そして、これまでのどの行より、書いていて、苦しかった。
書き終えて、直也は、二十行を、はじめから読んだ。
読み終えるのに、半刻近くかかった。
読み終えて、直也は、灯りを消した。
そして、暗い中で、こう思った。
――あの女は、三百年ぶんの帳面を、体一つで持っていたのだ。
自分は、二十行で、もう腹が重い。
三百年ぶんとは、どれほどのものか。
想像がつかなかった。
想像がつかないまま、直也は、目を閉じた。
その夜、廊下で、もう一人分の足音は、しなかった。
翌朝、田中が、そのことに、真っ先に気づいた。
「代官殿」
田中は、そう言った。
「なんだ」
「……昨夜は、静かでございましたな」
「そうだな」
直也は、そう答えた。
「静かだった」
田中は、それ以上、何も聞かなかった。
聞かないでいてくれる男で、よかった、と直也は思った。




