第41話 二十行目―誰も書いた覚えのない一行―
橘為時が扇の鈴を鳴らして去ってから、ひと月半が過ぎた。
その夜も、直也は、いつものように、関所帳を開いた。
いちばん後ろの頁。
十九の行が並んでいる。
一行目から、順に読んでいく。共の国より来し者。浅倉源太と名乗りし者。伊藤田進一と名乗りし者。田中部新一と名乗りし者――
読み進めるうちに、行は長くなる。十八行目のユスフ。十九行目の為時。この二つは、他の十七行の三倍ほどの長さがある。
読み終えるのに、四半刻ほどかかるようになっていた。
直也は、十九行目を読み終えた。
そして、筆を取ろうとして、手を止めた。
その下に、もう一行、あった。
「二十」
そう書かれていた。
直也は、しばらく、その文字を見ていた。
自分の字だった。
筆の癖も、墨の濃さも、間違いなく、直也の字だ。
だが、書いた覚えが、ない。
そして、「二十」という数字の下に、続きがなかった。名も、素性も、何も書かれていない。数字だけが、そこにあった。
直也は、灯りを近づけた。
墨は、古い。少なくとも、昨日今日のものではない。ひと月、あるいはそれ以上、経った墨の色だった。
「……いつ書いた」
直也は、そう呟いた。
思い出そうとした。
思い出せなかった。
酔って書いたのか。眠りかけて書いたのか。あるいは、為時のことを書いたあの夜、続けて何かを書こうとして、途中でやめたのか。
どれも、ありそうだった。
どれも、覚えがなかった。
直也は、その頁を、閉じた。
そして、開き直した。
「二十」は、そこにあった。
翌朝。
直也は、田中に、そのことを話した。
「代官殿が、書かれたのでございましょう」
田中は、あっさりと、そう言った。
「覚えがないのだ」
「お疲れでございましょう。近頃、夜が長うございますから」
「そうかもしれん」
直也は、そう答えた。
そして、こう聞いた。
「田中。この関所に、何か、言い伝えはあるか」
田中の手が、止まった。
「……言い伝え、と申しますと」
「なんでもいい。怪しい話だ」
田中は、しばらく黙っていた。
そして、少し、声を落とした。
「ございます」
「ある」
「はい」
田中は、そう言った。
「ですが、代官殿には、申し上げぬほうがよろしいかと」
「なぜだ」
「知ると、来ると申しますので」
直也は、その言葉に、少し、笑いそうになった。
そして、笑わなかった。
この一年半で、直也は、笑うべきでない話を、いくつも聞いてきた。
「話せ」
「……はい」
田中は、周りを見て、山本がいないことを確かめた。
「この関所には、女が出ると申します」
田中は、そう言った。
「私が来る前から、そう言われております。前の代官どのの頃も、そのまた前の頃も」
「どんな女だ」
「若い娘でございます」
田中は、そう答えた。
「赤い着物を着ておるそうで。関所の外に立って、じっとこちらを見ておる。声をかけると、消える。……夜更けに、たまに」
「見たことは」
「ございません」
田中は、そう言って、少しだけ、目を伏せた。
「ございませんが、足音は、聞いたことがございます」
「足音」
「はい。夜、見廻りをしておりますと、後ろから、もう一人分の足音が付いてまいります。振り返ると、止まる。歩き出すと、また鳴る」
田中は、そう言った。
「五年で、三度ほど」
直也は、その話を、黙って聞いていた。
そして、思い出した。
――自分も、聞いたことがある。
一年ほど前だ。夜、厠へ行った帰りに、廊下で、もう一人分の足音を聞いた。あのときは、山本だろうと思った。翌朝、山本に聞いたら、山本は寝ていたと言った。
それきり、忘れていた。
「代官殿」
田中が、そう言った。
「うん」
「その話と、帳面の『二十』と、何か関わりがございますか」
「わからん」
直也は、正直にそう答えた。
「わからんが、聞いておきたかった」
その日の、暮れ方。
風が、止んだ。
関所の前の街道に、人影が立った。
山本が、最初に気づいた。
「代官殿。旅人でございます」
「こんな時刻にか」
「はい。……あの、代官殿」
山本の声が、おかしかった。
「どうした」
「あの婆さま、いつから、あそこに」
直也は、外を見た。
そして、山本を見た。
「婆さま?」
「はい。杖をついた、白髪の」
直也は、もう一度、外を見た。
そこに立っていたのは、四十くらいの、痩せた女だった。
杖はついていない。白髪でもない。
灰色の、地味な着物を着ていた。髪は、後ろで無造作に束ねている。特別、若くも、老いてもいない。
美しくも、醜くもない。
――何も、目立つところがない。
それが、直也の第一印象だった。
田中が、奥から出てきた。
そして、外を見て、息を呑んだ。
「……代官殿」
田中の声が、震えていた。
「赤い着物にございます」
直也は、田中を見た。
田中は、外を見たまま、動かない。
「田中。何が見える」
「若い娘でございます。十六、七の。赤い着物を着て、こちらを見ております」
「山本」
「はい」
「お前には」
「白髪の婆さまでございます。杖をついた」
直也は、二人を、交互に見た。
そして、外を見た。
灰色の着物の、四十ほどの女が、そこに立っていた。
「弥生」
直也は、そう呼んだ。
弥生が、台所から顔を出した。
「はい」
「外を見てくれ。何が見える」
弥生は、外を見た。
そして、けげんな顔をした。
「……何も」
「誰もいないか」
「誰もおりませんが」
弥生は、そう言った。
「代官さま、どうかされましたか」
直也は、一人で、関所の外へ出た。
田中は、震えていた。山本は、腰の物に手をかけていた。弥生は、何も見えないまま、心配そうな顔をしていた。
三人とも、外へは出さなかった。
女は、街道の真ん中に立っていた。
近づいても、消えなかった。
直也は、五歩ほどの距離で、止まった。
「通行を、願われますか」
直也は、そう聞いた。
女は、直也を見た。
その目に、感情らしいものは、なかった。
冷たいのではない。空なのでもない。
――ただ、見ている目だった。
「願います」
女は、そう答えた。
その声は、聞こえた。
耳から聞こえたのか、それとも別のところから来たのか、直也にはわからなかった。だが、聞こえた。
「手形は、お持ちですか」
「持っております」
女は、そう言って、懐から、一枚の紙を出した。
直也は、それを受け取った。
そして、見た。
見て、動けなくなった。
――自分の字だった。
「関所 女 通行を許す」
そう書いてあった。
直也の筆で。直也の癖で。
書いた覚えの、ない字で。
「これは」
直也は、そう言った。
「あなたが、書かれました」
女は、そう答えた。
「いつ」
「まだ、書いておられません」
「……」
「ですが、書かれました」
女は、そう言った。
「あなた方は、順に並べて考えられます。私は、そうではありません。……申し訳ありません。うまく言えません」
女は、そう言って、少しだけ、目を伏せた。
はじめて、その顔に、何かが動いた。
困っている顔だった。
その困り方が、あまりに人間くさかったので、直也は、かえって、恐ろしくなった。
「奥へ、どうぞ」
直也は、そう言った。
女は、頷いた。
そして、歩き出そうとして、止まった。
「入れません」
「なぜです」
「通していただかないと、入れません」
女は、そう言った。
「私は、この線を、越えられません」
女は、足元を指した。
そこには、何もなかった。ただの、踏み固められた土だ。
だが、女の草履の先は、その見えない線の、手前で止まっていた。
直也は、しばらく、それを見ていた。
そして、聞いた。
「どのくらい、そこにおられますか」
女は、答えなかった。
考えているようだった。
数えているのだ、と直也は思った。
「三百年ほど」
やがて、そう答えた。
「三百年」
「はい」
女は、頷いた。
「この関所ができてから、ずっと」
女は、そう言った。
「ずっと、見ておりました」




