第40話 語られる者―英雄が乞うた忘却と、代官が渡した一行―
その夜。
月がよく出ていた。障子を開けても、寒くない程度の夜だった。
直也は、一雲――橘為時の部屋へ行った。
その前に、直也は、田中に、一つだけ言っていた。
「今夜のことは、聞くな」
田中は、しばらく黙っていた。
そして、頷いた。
「……承知いたしました」
その顔が、青いままだった。
昼から、田中は、まともに口をきいていない。
為時は、月の差す方を向いて、座っていた。
「起きておられましたか」
「眠りませぬ」
為時は、そう答えた。
「四百年、あまり眠っておりませぬ」
直也は、その向かいに座った。
「四百年、と申されましたが」
「はい」
「あなたは、寿永三年の人ですね」
「さよう」
「そこから、この時代へ来られたのですか」
「来た、というより」
為時は、そう言って、少し考えた。
「……歩いてまいった、というのが、近うござる」
「歩いて」
「はい」
為時は、頷いた。
「一ノ谷の後、それがしは、山を下りて、歩き申した。歩いておるうちに、周りの言葉が変わり、着る物が変わり、道が変わり申した。いつ変わったのかは、わかり申さぬ。気づくと、変わっておりました」
為時は、そう言った。
「死ぬこともなく、歳も、あるところから、取らなくなり申した」
直也は、その言葉を、そのまま受け取った。
疑わなかった。
この一年半で、直也は、疑うことの意味を、いくらか失っていた。ここへ来る者は、皆、ありえないことを言う。ありえないことが、ここでは、日常だった。
「では、伺います」
直也は、そう言った。
「あなたは、なぜ、講釈師をしておられるのですか」
為時は、しばらく、答えなかった。
そして、こう言った。
「聞くのが、耐えられなかったからにござる」
「はじめは、聞く側でござった」
為時は、そう語り始めた。
「歩いておるうちに、あちこちで、それがしの話をしておるのを、耳にするようになり申した。琵琶を弾く法師が、市で語っておりました。……最初に聞いたときは、笑い申した。ずいぶん、立派になっておるものだと」
為時は、そう言った。
「二度目に聞いたときは、笑えませなんだ」
「なぜです」
「同じだったからにござる」
為時は、そう答えた。
「別の男が、別の土地で、同じことを語っておりました。一言一句、同じでござった。火の大きさも、童の数も、それがしが言うたとされる台詞も、全部、同じでござった」
為時は、そう言った。
「固まったのでござる」
「……固まった」
「はい」
為時は、頷いた。
「話は、はじめのうちは、揺れておりまする。語る者ごとに、少しずつ違う。ですが、五十年、百年と経つうちに、揺れが止まり申す。最も語りやすい形に、落ち着くのでござる」
為時は、そう言った。
「そして、落ち着いた形は、二度と動きませぬ」
直也は、その言葉を、黙って聞いていた。
「それがしは、それを、正そうといたし申した」
為時は、そう言った。
「市の琵琶法師に、詰め寄り申した。『それは違う。五人だ』と。『わしがその男だ』と」
「……どうなりましたか」
「石を投げられ申した」
為時は、そう言って、笑った。
乾いた笑いだった。
「狂人と思われ申した。当然でござる。二百年前に死んだ男が、生きておるはずがない」
為時は、そう言った。
「三度、四度と繰り返して、それがしは、やめ申した。……そして、考え申した。誰も信じぬのなら、それがしが、語る側に回ればよい、と」
「それで、講釈師に」
「さよう」
為時は、頷いた。
「語る側に回れば、正しい話を、広められると思うたのでござる」
「広まりましたか」
その問いに、為時は、答えなかった。
長い、長い沈黙があった。
「……逆でござった」
やがて、そう言った。
「正しい話は、面白うないのでござる」
為時は、そう言った。
「五人より、七人のほうが、坐りがようござる。七つの名が並ぶほうが、後の件が締まりまする。……それがしが五人と語ると、客が首をかしげ申す。宿の主が、後で言うてまいります。『あそこは七人でございましょう。間違えなさいましたな』と」
為時は、そう言った。
「それがしは、それを、二百年、続け申した」
「二百年」
「はい」
為時は、頷いた。
「二百年、五人と言い続け申した。そのあいだに、七人という話は、いよいよ固まり、いよいよ広まり申した。子どもらが、野で、それがしの真似をして遊んでおりまする。『われは橘為時なるぞ』と。……七人、助ける遊びでござる」
為時は、そう言って、少し、目を閉じた。
「代官どの」
「はい」
「それがしは、あの館で、何もしておりませぬ」
その声は、静かだった。
「……何も」
「はい」
為時は、目を開けた。
「あの館に飛び込んだのは、助けるためではござらぬ。逃げたのでござる」
為時は、そう言った。
「あの日、それがしは、怖うござった。逆落としの坂を降りて、目の前で、味方の首が飛ぶのを見て、腰が抜け申した。馬を捨てて、走って、燃えておらぬように見えた館へ、駆け込んだ。……ただ、それだけでござる」
直也は、黙って聞いていた。
「中に、童がおり申した。五人。隅で固まって、震えておった」
為時は、そう言った。
「それがしは、その隣に座り込み申した。同じように、震えておったのでござる。四半刻ほど、そうしておった」
「……」
「やがて、屋根が鳴り申した。それがしは、飛び出しました。無我夢中で。助けようなどとは、露ほども思うておらぬ。ただ、死にたくなかっただけでござる」
為時は、そう言った。
「童らは、それがしの後を、ついて出て参りました」
風が、障子を鳴らした。
「外に出たとき、味方の者どもが、それを見ておった」
為時は、そう言った。
「『橘の三郎が、童を助け出した』と。……それがしは、否と、言えませなんだ」
「なぜです」
「腰が抜けて、声が出ませなんだ」
為時は、そう答えた。
「その日の夕には、話が、陣中に回っておりました。翌日には、七人になっておりました」
直也は、しばらく、何も言えなかった。
「五人の童は、どうなりましたか」
ようやく、そう聞いた。
「二人は、その月のうちに、死に申した」
為時は、そう答えた。
「煙を吸い過ぎておりました。三人は、生きて、里に戻り申した。……名は、覚えておりまする。五人とも」
為時は、そう言った。
「講釈で語られる七つの名は、いずれも、それがしの知らぬ名でござる。どこかで、誰かが、坐りのよい名を、作ったのでござろう」
為時は、そう言って、掌を見た。
「代官どの。それがしは、四百年、こう思うてまいった。――それがしは、あの日、死ぬべきであった、と」
「……」
「死んでおれば、話だけが残り申した。それでも、よかったのでござる。死んだ者は、話にされても、文句を言えぬ。それが、当たり前でござる」
為時は、そう言った。
「ですが、それがしは、生きてしもうた。生きたまま、話にされ申した。……生きておる者が、話になるというのは、どういうことか、おわかりか」
直也は、首を振った。
「二重になるのでござる」
為時は、そう言った。
「橘為時という名の男が、二人おる。一人は、七人を助けた英雄。もう一人は、震えて逃げた男。……前者が、四百年、日の下を歩いておりまする。後者は、その影の中を、こそこそと歩いておる」
為時は、そう言った。
「そして、日の下を歩いておるほうが、本物ということになっておる」
灯りの油が、減っていた。
直也は、足そうとして、やめた。
暗いほうが、この話には、よい気がした。
「代官どの」
「はい」
「一つ、お頼み申したいことがござる」
「なんでしょう」
為時は、居住まいを正した。
そして、こう言った。
「それがしを、書かんでいただきたい」
直也は、その言葉に、目を上げた。
「……書かない」
「はい」
為時は、頷いた。
「関所には、帳面があると聞き申した。通った者を、書き留める帳面が」
「あります」
「そこに、それがしを、書かんでいただきたい」
為時は、そう言った。
「一雲という名も、橘為時という名も。……この関所を、誰も通らなかったことにしていただきたい」
「なぜです」
「疲れ申した」
為時は、そう答えた。
「書かれるのが、疲れ申した。四百年、書かれ続けて、それがしは、擦り切れ申した。……もう、どこにも、書かれとうない」
為時は、そう言った。
「一つでも減れば、その分、軽うなる気がいたしまする」
直也は、しばらく、動かなかった。
そして、こう思った。
――これは、一年半前の自分なら、喜んで引き受けた頼みだ。
十七人の名を、直也は、消してきた。偽名を書き、正体を消し、この世からその者たちを、なかったことにしてきた。
それを、優しさだと思っていた。
そして今、目の前の男は、その優しさを、乞うている。
疲れた、と言って、消してくれと乞うている。
「橘どの」
直也は、そう呼んだ。
「はい」
「お断りします」
為時の眉が、動いた。
「……なにゆえ」
「消しても、軽くならないからです」
直也は、そう言った。
「一昨月、この関所に、一人の男が来ました」
直也は、そう語り始めた。
「異国の生まれで、海賊でした。人を三人、殺しています。ですが、その罪を知る者は、この世に一人もいません。記録も、証人も、一つもない」
直也は、そう言った。
「その男は、私に、こう言いました。『帳面に、書いてください』と」
為時は、黙って聞いていた。
「なぜだと思われますか」
「……わかり申さぬ」
「書かれなければ、消えるからです」
直也は、そう言った。
「その男が忘れれば、その男が死ねば、殺された者が、この世に一度いたということが、どこにもなくなる。……その男は、それが、恐ろしかったのです」
直也は、そう言った。
「橘どの。あなたの言う『書かれる疲れ』と、その男の言う『書かれぬ恐れ』は、同じものです」
為時が、顔を上げた。
「……同じ」
「はい」
直也は、頷いた。
「どちらも、自分の中にしか、真実がないのです」
直也は、そう言った。
「あの男の罪は、あの男の中にしかない。あなたのあの日は、あなたの中にしかない。世に出回っているのは、あなたが震えていた話ではなく、七人を助けた話です。……あなたは、書かれすぎているのではありません。一度も、書かれていないのです」
為時の口が、開いた。
そして、閉じた。
「……」
「四百年、日の下を歩いているのは、あなたではありません」
直也は、そう言った。
「あなたは、まだ、一行も書かれていない」
長い沈黙があった。
月が、少し、傾いた。
「……代官どの」
為時の声は、掠れていた。
「はい」
「それがしを、消してくれと申したのは」
「はい」
「それは――そもそも、消しようがないという意味でござったか」
「そうです」
直也は、そう答えた。
「消すも何も、ないのです。そこには、まだ、何もありませんから」
為時は、両手で、顔を覆った。
四百年、覆わずにきた顔を、覆った。
その姿勢のまま、動かなかった。
直也は、待った。
やがて、為時は、手を下ろした。
濡れてはいなかった。この男も、白石律と同じで、泣き方を、どこかに置いてきた口だろう、と直也は思った。
「では」
為時は、そう言った。
「では、書いていただけましょうか」
「はい」
「五人と」
「五人と、書きます」
直也は、そう答えた。
「そして、震えていたと」
為時の声が、そこで、一度、詰まった。
「震えて、隣に、座り込んでおったと。……助けたのではのうて、逃げただけであったと」
「書きます」
直也は、頷いた。
「そのように、書きます」
為時は、深く、頭を下げた。
畳に、額がつくほど、深く。
「……かたじけない」
翌朝。
よく晴れていた。
一雲は、行李を背負い、腰に扇を差して、関所の前に立った。
田中が、往来手形に、印を押した。
その手が、少し、震えていた。
「一雲どの」
田中は、そう言った。
「はい」
「……昨日は、失礼を申しました」
「いえ」
「私は、その、子どもの頃から、あの話が好きでございまして。……つい、口を出しました」
田中は、そう言った。
「七人でも、五人でも、よろしゅうございます。私は、あの話が、好きなのです」
一雲は、その言葉を聞いて、しばらく、田中を見ていた。
そして、こう言った。
「田中どの」
「はい」
「橘為時という男は、七人助けたことに、なっております」
「はい」
「それで、よろしゅうござる」
一雲は、そう言った。
「そのように、語り継いでくだされ」
田中は、けげんな顔をした。
「……はあ」
「そのほうが、坐りがようござる」
一雲は、そう言って、笑った。
その笑い方には、四百年ぶんの何かが、抜けていた。
一雲は、街道を歩いていった。
扇の鈴が、小さく鳴っていた。
その音が、聞こえなくなるまで、田中は、そこに立っていた。
「代官殿」
田中が、そう言った。
「うん」
「一雲どのは、なぜ、五人と言い張られたのでございましょう」
直也は、少し、考えた。
そして、答えた。
「さあな」
「さあな、では困ります」
「困るか」
「困ります。腑に落ちませぬ」
田中は、そう言って、頭をかいた。
「まあ、しかし、よい声でございました」
「そうだな」
直也は、頷いた。
「よい声だった」
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
いつもの頁に、こう書いた。
「講釈師 一雲 通行」
そして、いちばん後ろの頁を、開いた。
十八の行が、そこにある。
直也は、その下に、十九行目を書いた。
「十九 橘三郎為時と名乗りし者 寿永の世より歩き来たる」
そこで、一度、筆を止めた。
そして、続けた。
「一ノ谷の焼くる館にて、童五人と共に震えおりしと申す。助けたるにあらず、逃げたるのみと申す。童のうち二人はその月に死し、三人は里に戻れりと申す。五人の名を、この者は覚えおれり」
書き終えて、直也は、その一行を見た。
十八行目より、さらに長かった。
そして、この一行には、五人の名前が、書かれていない。
直也は、それを、聞かなかったのだ。
聞けばよかった、と直也は思った。
だが、同時に、こうも思った。
――あの人が、覚えている。
それで、いいのかもしれない。世界のどこか一箇所に、あればいい。ユスフは、直也の帳面に置いた。為時は、自分の中に置いている。
置き場所は、違ってもいい。
置いていることが、大事なのだ。
直也は、筆を置いた。
そして、十九行を、はじめから読んだ。
読み終えるのに、また、少し時間がかかるようになっていた。
明日、田中が、また講釈の話をするだろう。
そのとき、直也は、何も言うまい。
七人でよい、と、あの男が言ったのだ。
直也の帳面には、五人と書いてある。
それで、釣り合っている。




