第39話 五人と七人―自らの武勇伝を語る講釈師―
ユスフ・アブディが雨の中を去ってから、四月が過ぎた。
関所帳のいちばん後ろの頁には、十八の行が並んでいる。
十八行目だけが、異様に長い。ソマリアという聞き慣れぬ地の名と、殺された男の名前が、そこに書き込まれているからだ。
その一行を書いた夜から、直也の中で、一つのことが変わった。
以前、直也にとって、記録とは「危険なもの」だった。書けば残る。残れば、誰かが罰せられる。だから、書かない。あるいは、偽って書く。それが、旅人を守るということだった。
今は、違う。
記録は、重石だ。
書かなければ、事実は、書かなかった者の腹の中で、だんだん軽くなっていく。軽くなって、いつか、浮いて、消える。
――誰も咎めないと、人は、忘れるのです。
ユスフの言葉が、今も、直也の中にある。
書くことは、忘れないための、拘束だ。
そう考えるようになってから、直也は、帳面を、以前より恐れなくなった。
そして、以前より、重く持つようになった。
秋の、風の澄んだ日だった。
昼過ぎ、街道の向こうから、鈴の音が近づいてきた。
錫杖の鈴ではない。もっと小さく、乾いた音だった。
やがて、その音の主が見えた。
一人の男が、歩いてくる。
年の頃は、五十前後。背は、この時代の男としては、やや高い。痩せている。だが、その痩せ方には、芯があった。長く歩き続けてきた者の、余分の削げた体だ。
背には、小さな行李。腰には、扇。
そして、その扇の要のあたりに、小さな鈴が結ばれていた。歩くたびに、それが鳴っていた。
「講釈師でございましょうか」
田中が、そう言った。
その声が、いつもより、わずかに高かった。
「わかるのか」
「腰の扇にございます。あれは、釈台を叩く扇の形です」
田中は、そう言った。
そして、少しだけ、身を乗り出した。
直也は、その様子を、横目で見ていた。
田中は、講釈が好きなのだ。
以前、直也は、それを聞いたことがあった。田中は、子どもの頃、村に来た旅の講釈師の話を聞いて、そのまま夜通し眠れなかったのだという。以来、宿場に講釈師が入ると聞けば、非番の日に、わざわざ歩いて聞きに行くのだと。
その田中の顔が、今、少年のようになっていた。
「通行を、願います」
男は、そう言って、往来手形を差し出した。
その声を聞いた瞬間、直也は、わずかに、身を起こした。
――よい声だ。
低くはない。むしろ、やや高い。だが、通る。それも、大声で通るのではなく、静かなまま、遠くまで届く声だった。
ダニエル・オルセンの声を、直也は思い出した。あれも、よい声だった。
だが、質が違う。
ダニエルの声は、作られた声だった。腹から出し方を訓練した声だった。
この男の声は――使い減った声だ。長い年月、同じことを喋り続けて、そこだけが磨り減って、なめらかになった声だった。
「一雲どの、と読むのですか」
直也は、手形の名を読み上げた。
「はい。いちうん、と」
「講釈師で」
「はい。各地の宿場を回っております」
その受け答えに、破綻はなかった。
田中が、たまらず、口を挟んだ。
「一雲どの。……失礼ながら、何を語られます」
「軍記を」
男は、そう答えた。
「主に、源平を」
田中の顔が、明るくなった。
「代官殿」
田中は、直也を振り返った。
「あの、代官殿。……荷改めの間、一席、伺うわけには参りませぬか」
山本が、慌てた顔をした。
「田中どの。それは、その、職務が」
「一席だけだ」
田中は、そう言い張った。
直也は、少し笑った。
「よいだろう」
「代官殿!」
「ただし、一席だけだ。あとは、通す」
「はっ」
田中の返事が、これまでで一番、よかった。
関所の脇の、日の当たる縁側に、床几を出した。
一雲は、行李を下ろし、腰の扇を抜いた。
釈台はない。代わりに、山本が持ってきた古い箱を、逆さに置いた。
一雲は、それを、指先で二度、軽く叩いた。
音を、確かめている。
そして、頷いた。
「では、一席」
一雲は、そう言って、姿勢を正した。
その瞬間、その男の背が、伸びた。
いや、伸びたのではない。歳が、抜けたのだ。五十の男の背から、十ほど、歳が抜けたように見えた。
扇が、箱を打った。
「――寿永三年、二月七日」
声が、変わっていた。
さっきまでの、磨り減ったなめらかさは、そのままだ。だが、そこに、張りが加わっていた。
「一ノ谷は、鵯越の坂落とし。源氏の軍、逆落としに攻め入って、平家の陣は、たちまち焼け落ちる」
田中が、身を乗り出した。
その体が、微動だにしなくなった。
「猛火の中、館の一つが、燃えておりまする。屋根が落ち、柱が焼け、もはや人の入るべき所にあらず」
扇が、鳴った。
「そこへ――ただ一騎、駆け戻る者あり」
田中の唇が、動いた。
声には出していない。だが、直也には、田中が何を言ったか、わかった。
『橘為時』
「橘の三郎、為時にござりまする」
一雲が、そう言った。
田中の肩が、震えた。
直也は、その話を、知らなかった。
だから、直也は、話ではなく、語る男を見ていた。
その男は、うまかった。
火の大きさが、見えた。熱が、来た。木の裂ける音が、聞こえた。それらは、全部、この男の声と扇だけで作られていた。
だが、直也が注意していたのは、そこではない。
――目だ。
語りながら、この男の目は、どこも見ていなかった。
聞き手を見ていない。空も見ていない。手元の扇も見ていない。
焦点が、どこにも結ばれていなかった。
思い出している目でも、想像している目でもない。
見ないようにしている目だった。
「為時、燃ゆる館に飛び込みますると、そこに――」
一雲の声が、そこで、わずかに、止まった。
ほんの、半拍だった。
「――童が、五人」
田中の体が、動いた。
「……ん?」
田中は、そう漏らした。
一雲は、続けた。
「五人の童、煙に巻かれて、声も出ず。為時、蓑を脱ぎ、水を含ませてこれを覆い、一人、二人と抱え出す。その間にも、火は――」
「一雲どの」
田中が、そう呼んだ。
一雲の扇が、止まった。
「田中」
直也は、たしなめた。
「よい席の途中だ」
「いえ、代官殿。しかし、これは」
田中は、困った顔をした。
そして、申し訳なさそうに、言った。
「……七人にございましょう」
一雲は、答えなかった。
「橘為時が助けたるは、童七人。これは、どの本にもそうございます。私が子どもの頃に聞いたのも、七人でした。宿場の講釈師も、皆、七人と語ります」
田中は、そう言った。
「一雲どのの本では、五人にございますか」
長い、間があった。
風が、縁側を吹き抜けた。
一雲は、扇を、膝の上に置いた。
そして、こう言った。
「五人でございます」
その声は、もう、語りの声ではなかった。
「……いや、しかし」
田中は、なおも食い下がった。
「七人でなければ、あの後の件が合いませぬ。焼け跡で童らが為時に礼を述べる件で、七つの名が出て参ります。あれは、七人あってこその――」
「五人でした」
一雲は、そう繰り返した。
その言い方に、講釈の抑揚は、一切なかった。
事実を述べる者の、平たい言い方だった。
「二人は、後から、外で拾われた童です。館から出た者ではありません。それが、いつの間にか、まとめて七人になりました」
一雲は、そう言った。
「……いつの間にか、とは」
田中が、けげんな顔をした。
一雲は、答えなかった。
答えずに、扇を、行李に仕舞い始めた。
その手が、少し、震えていた。
「一雲どの」
直也は、静かに、そう呼んだ。
「はい」
「奥へ、どうぞ」
一雲は、直也を見た。
その目が、初めて、焦点を結んだ。
「……なぜでございましょう」
「荷を検めます」
直也は、そう言った。
「それから、お伺いしたいことがあります」
「なんでございましょう」
直也は、少し、間を置いた。
そして、言った。
「なぜ、あなたは、七人と言えないのですか」
一雲の手が、行李の紐の上で、止まった。
「――みなが七人と言い、本にも七人と書いてある。講釈師であれば、七人と言えばよい。そのほうが、後の件とも合う。田中も喜ぶ」
直也は、そう言った。
「それでも、あなたは、五人と言った。二度も。訂正されても、譲らなかった」
直也は、続けた。
「講釈師は、本を語る者です。……本と違うことを、譲れない者は、講釈師ではありません」
一雲は、動かなかった。
「あなたは、覚えておられるのですね」
直也は、そう言った。
「数えた人の、覚え方です」
風が、また、吹いた。
一雲は、ゆっくりと、顔を上げた。
その顔から、講釈師が、剥がれ落ちていた。
そこにあったのは、五十年ぶんの疲れを溜めた、一人の男の顔だった。
「……四百年、誰にも言われませんでした」
一雲は、そう言った。
「四百年」
「はい」
一雲は、頷いた。
そして、こう名乗った。
「橘、三郎、為時にござる」
田中が、床几から、ずり落ちた。




