第36話 十一の包み―選び続けた医師と、選ばずにきた代官―
その夜。
直也は、白石律の部屋へ行った。
行灯を一つ、持っていった。酒は持っていかなかった。この相手には、酒は合わないと思った。
白石律は、部屋の隅に座っていた。
膝を抱えるでも、正座するでもなく、片膝を立てて、壁に背を預けていた。疲れた人間の座り方だった。
「起きておられましたか」
「眠れないので」
「よく、そうなりますか」
「十七年、そうです」
白石律は、そう答えた。
直也は、その向かいに、行灯を置いて座った。
灯りが、二人のあいだの畳を、丸く照らした。
「白石さん」
「はい」
「十七年、何をしておられたのですか」
「医者を」
「どこで」
「いろいろな場所で」
白石律は、そう言った。
「日本の救急も、やりました。それから、外へ出ました。戦のある場所、地震のあった場所、病の流行った場所。……人が一度に大勢死ぬ場所へ、行っていました」
「なぜ、そういう場所へ」
「必要とされていたので」
その答え方に、気負いはなかった。
事実を述べる口調だった。
「そこで、何をされていたのですか」
「選別です」
白石律は、そう言った。
その言葉が、部屋の空気を、少しだけ冷やした。
「怪我人が、百人来ます。医者は三人。薬は、二十人分。手術できるのは、一晩で五人」
白石律は、淡々と続けた。
「そうすると、百人を、分けなければなりません。放っておいても助かる者。治療すれば助かる者。治療しても助からない者。……三つ目に入れた人間は、そこに寝かせたまま、何もしません」
「何も」
「痛み止めは打ちます。それだけです」
白石律は、そう言った。
「その人が、まだ喋れることもあります。名前を言うこともあります。手を握ってくることもあります。それでも、私は、隣へ行きます。その隣に、助かる人がいるからです」
直也は、黙って聞いていた。
「一晩で、三十回、四十回、それをやります」
白石律は、そう言った。
「そして、朝になると、数を数えます。何人助けたか。何人死んだか。……数えるのは、私の仕事です。数えなければ、次の判断が良くならないので」
「……数える」
「はい。数えます」
白石律は、そう言って、少しだけ、笑った。
笑ったつもりだったのだろう。だが、それは、笑いに見えなかった。
「十七年で、私は、たぶん、二千人ほど、助けました」
「……」
「そして、たぶん、四百人ほど、諦めました」
白石律は、そう言った。
「二千と四百です。数字の上では、圧倒的な黒字です。私は、優秀な医師でした。表彰もされました。……ですが、私が夜に思い出すのは、二千人の方ではありません」
灯りが、揺れた。
「四百人の顔を、全部、覚えていますか」
直也は、そう聞いた。
「いいえ」
白石律は、首を振った。
「全部は、覚えていません。……それが、一番、こたえます」
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
外で、夜鳥が鳴いた。
「それで、この時代へ」
直也が、そう促した。
「はい」
白石律は、頷いた。
「ある人が来て、『別の時代へ行けます』と言いました。……私は、こう考えました。江戸時代へ行けば、私には、何もできない。薬もない、器械もない、施設もない。何もできなければ、選ばなくて済む」
白石律は、そう言った。
「選ばなくて済む場所へ行きたかったのです」
「……行ってみて、どうでしたか」
白石律は、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「甘かったです」
「甘かった」
「はい」
白石律は、そう言って、行李の方を見た。
「私は、荷物を持って来てしまった。それが、間違いでした」
「あの、油紙の箱ですか」
「はい」
白石律は、そう答えた。
「持ってきたのは、抗生物質です。……この時代の言葉では、説明のしようがありません。細菌――目に見えない小さな生き物が起こす病を、治す薬です。傷が膿んで死ぬ人、産後に熱を出して死ぬ人、そういう人が、飲めば助かります」
「そんな薬が」
「あります。私の時代では、どこの薬局にもあります。子どもでも飲めます」
白石律は、そう言った。
「……それを、私は、四百三十人分、持ってきました」
「四百三十」
「はい」
白石律は、頷いた。
そして、静かに、こう続けた。
「今、残りは、十一人分です」
直也は、その数を、頭の中で反芻した。
四百三十から、十一。
一年二月で、四百十九人。
「四百十九人に、使われたのですね」
「はい」
「では、四百十九人が、助かった」
「そうです」
白石律は、そう答えた。
だが、その顔に、喜びはなかった。
「その一年二月のあいだ、私は、何をしていたと思いますか」
白石律は、そう言った。
「選んでいました」
その言葉が、部屋に落ちた。
「宿場に着くと、病人がいます。子どもが熱を出している。老人が膿んだ足を引きずっている。産婦が寝込んでいる。……全員には、渡せません。薬は有限です」
白石律は、続けた。
「だから、選びました。この子は助かる見込みが高い、この老人はもう長くない、この産婦は薬がなくても治るかもしれない。……十七年やってきたのと、同じことです。場所が変わっただけです」
白石律の声が、初めて、震えた。
「選ばなくて済む場所へ逃げたつもりで、私は、自分で選ぶ場所を作ってしまいました」
直也は、何も言わなかった。
言えなかった、というほうが正しい。
「代官さま」
白石律は、そう呼んだ。
「あなたは、たくさんの旅人を通されると聞きました。ここへ来る途中、宿場で耳にしました。あの関所は、誰も咎めない、と」
「……そういう噂ですか」
「はい」
白石律は、そう言った。
「私は、それが、羨ましかった」
その言葉に、直也は、顔を上げた。
「誰も咎めない。誰も選ばない。全員を通す。……そういう生き方が、できるなら、どんなに楽か。私は、ここへ来る道々、そう思っていました」
白石律は、直也を見た。
「代官さまは、どうやって、選ばずにいられるのですか」
長い沈黙があった。
直也は、その問いを、正面から受け止めた。
そして、答えた。
「選んでいます」
白石律の眉が、動いた。
「……え」
「私は、選んでいます。ずっと選んできました」
直也は、そう言った。
「私は、この関所で、人を売る者を通しました。武器と毒を運ぶ者を通しました。人を殺す計画を持った者を通しました。……その者たちが、この先で、誰かを傷つけたとして、その誰かは、私が選んだのです」
直也は、続けた。
「私は、目の前の旅人を選び、その先にいる、顔を知らない誰かを、捨てました。私は、四百人を捨てたのではありません。何人捨てたのか、数えてすらいないのです」
白石律の唇が、わずかに開いた。
「あなたは、数えておられる」
直也は、そう言った。
「四百人と、覚えておられる。顔を全部は覚えていないことに、苦しんでおられる。……私は、数えていません。数えていないので、苦しみが、形になりません。形にならない苦しみは、夜中に、形のないまま出てきます」
直也は、そう言った。
「私が眠れないのは、優しいからではありません。数えていないからです」
白石律は、じっと、直也を見ていた。
「……代官さまは」
「はい」
「代官さまは、私を、羨ましいと思っておられますか」
「思っています」
直也は、そう答えた。
「あなたは、選んだことを、自分の手の中に持っておられる。四百人という数を、抱えて歩いておられる。それは、重いでしょう。ですが、持っている」
直也は、そう言った。
「私は、持っていません。ばらまいてきました。……どちらが罪深いか、私にはわかりません。ですが、どちらが誠実かは、わかります」
白石律の目が、濡れた。
だが、涙は落ちなかった。
この人は、たぶん、泣き方を、どこかに置いてきたのだろう、と直也は思った。
行灯の油が、減っていた。
直也は、油を足した。
「白石さん」
「はい」
「残りの十一人分は、どうされるおつもりですか」
白石律は、答えなかった。
長く、答えなかった。
「……わかりません」
やがて、そう言った。
「取っておけば、もっと重い病の人に使えるかもしれません。今、目の前の軽い病に使ってしまえば、明日の重い病に使えません。……私は、ずっと、そうやって計算してきました」
「では、その計算は、うまくいきましたか」
「いきません」
白石律は、即答した。
「明日の重い病は、いつも来ます。だから、いつまでも使えません。……使わないまま、湿気らせて駄目にする日が来るかもしれません」
白石律は、そう言って、少し笑った。
今度は、少しだけ、笑いに見えた。
「代官さまなら、どうされますか」
その問いを、直也は、予期していた。
そして、答えを、用意していなかった。
しばらく考えて、直也は、口を開いた。
「私は、あなたの代わりに決めません」
「……」
「決めてしまえば、あなたが楽になります。ですが、それは、あなたが持ってきた四百人を、私が横取りすることになります」
直也は、そう言った。
「四百人は、あなたのものです。十一も、あなたのものです」
白石律は、目を伏せた。
「……ずるい人ですね」
「よく言われます」
「ですが」
直也は、そう続けた。
「一つだけ、申し上げます」
「はい」
「あなたが計算しておられるのは、明日の重い病です。ですが、明日は、来るかどうかわかりません」
直也は、そう言った。
「私はこの関所で、明日を計算して、判断を先延ばしにしてきました。今日決めなければ、明日、もっとよく決められるだろうと。……ですが、明日になっても、同じでした。一年半、同じでした」
直也は、そう言った。
「私は、今、こう思っています。目の前にいる人を選ぶのは、最善ではないかもしれない。ですが、それは、誰も選ばないよりは、はるかにましだと」
白石律は、しばらく、動かなかった。
そして、小さく、こう言った。
「……最適ではありませんね」
「はい。最適ではありません」
「私は、十七年、最適を目指してきました」
「知っています」
直也は、そう言った。
「そして、四百人を、覚えきれなかった。……最適を目指すと、人は、数になります。数になった人は、覚えられません」
白石律の肩が、初めて、震えた。
一度だけだった。
彼女は、それを、すぐに止めた。
止めるのが、上手すぎる人だと、直也は思った。
翌朝。
よく晴れていた。
白石律は、行李を背負い、関所の前に立った。
田中が、往来手形に、印を押した。
そして、印を押しながら、こう言った。
「せいどの」
「はい」
「……その、咳のことなのですが」
田中は、そう言って、言葉に詰まった。
白石律は、田中を見た。
そして、荷を下ろした。
「診せてください」
その言葉には、迷いがなかった。
彼女は、田中の前に膝をつき、首筋に指を当て、しばらく黙っていた。数えているのだと、直也にはわかった。
それから、背中に耳を当て、深く息を吸わせ、吐かせた。
四度、繰り返させた。
そして、離れた。
「いつからか、と伺いましたね」
「……冬の初めから」
「血は」
「出ません」
「目方は」
「……減っておりません」
白石律は、頷いた。
「肺ではありません。喉と、鼻の奥です。冬の乾きで荒れたのが、そのままになっている」
白石律は、そう言った。
「湯気を吸ってください。朝と晩。桶に湯を張って、手拭いを被って、顔を近づけて。それだけです。……薬は、要りません」
「……薬は、要りませんか」
「要りません」
白石律は、はっきりと、そう言った。
そして、行李の底の、油紙の箱を、一度だけ見た。
見て、閉じた。
田中が、深く頭を下げた。
「……かたじけない」
「いいえ」
白石律は、そう言って、立ち上がった。
そして、荷を背負い直した。
「代官さま」
「はい」
「決めました」
白石律は、そう言った。
「十一は、目の前の人に使います。最適ではないやり方で、使います」
直也は、頷いた。
「それでは、すぐに無くなりますね」
「無くなります」
白石律は、そう答えた。
「無くなったら、私は、ただの人になります。何も持たない、何も決められない、ただの人に。……そうなったら、私は、選ばなくて済みます」
彼女は、そう言って、笑った。
今度は、はっきりと、笑いだった。
「一年二月、この時代にいて、初めて、楽しみができました」
「何がですか」
「何も持たない自分に、会うのが」
白石律は、街道を歩いていった。
その背中の行李は、来た時と同じ重さのはずだった。
だが、軽く見えた。
田中が、その背中を見送りながら、ぽつりと言った。
「代官殿。あの方は」
「うん」
「あの方は、私の咳を、ただで診てくださいましたな」
「そうだな」
「……お代を、お渡しすればよかった」
直也は、少し笑った。
「あの人は、受け取らなかったと思う」
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
「越中の薬売り せい 通行」
そう書いた。
そして、筆を置いて、しばらく、その一行を見ていた。
――代官さまは、どうやって、選ばずにいられるのですか。
その問いが、まだ、耳の中にあった。
自分は、選ばずにいたのではない。
数えずにいただけだ。
直也は、もう一度、筆を取った。
そして、帳面の、いちばん後ろの頁を開いた。
そこは、白紙だった。
直也は、そこに、こう書いた。
「一 共の国より来し者」
「二 浅倉源太と名乗りし者」
「三 伊藤田進一と名乗りし者」
「四 田中部新一と名乗りし者」
「五 中村商太と名乗りし者」
書きながら、直也の手は、時々止まった。
顔は、全員、覚えていた。
だが、彼らが去ったあと、その先で何が起きたのかは、一つも知らなかった。
知らないまま、十七人分を、書いた。
書き終えて、直也は、その頁を見た。
十七。
自分が通した、転移者の数だった。
これが、自分の四百人だ、と直也は思った。
まだ、数えはじめたばかりの、四百人だ。
直也は、帳面を閉じた。
そして、灯りを消した。
その夜、直也は、眠れなかった。
だが、その眠れなさには、名前があった。
十七、という名前だった。




