第35話 薬売りの指―数を数える女の来訪―
ダニエル・オルセンが不揃いな裾を風になびかせて去ってから、三月が過ぎた。
冬が来て、雪が降り、そして解けた。
その三月のあいだに、関所には、いくつかの変化があった。
一つは、田中が、時々、直也に酒を注ぐようになったことだ。以前は、決してそんなことをしなかった。役人が代官と酒を酌み交わすなど、あってはならぬことだと、田中は考えていたのだろう。
だが、ヨハネスの十字架を「見ていない」ことにしたあの日から、田中と直也のあいだには、共犯者の間柄のようなものが生まれていた。共犯というのは、身分より、強い。
もう一つの変化は、直也自身の中にあった。
眠れる夜が、増えた。
眠れるようになったのは、悩みが減ったからではない。悩みの置き場所が、変わったからだ。
以前、直也は、判断のたびに、「自分は判断していない」と言い聞かせていた。放棄している、見守っている、何者でもない――そう言い聞かせることで、判断の重みを、どこにも置かずに済ませていた。
置かないから、重みは、宙に浮いたまま、夜中に落ちてきた。
今は、置いている。
自分が決めた。そう認めて、腹の底に置く。置けば、重い。重いが、落ちてはこない。
――重いものは、持てば眠れる。持たずにいると、眠れない。
そんなことを、直也は、この三月で覚えた。
四月の初め。
桜が散り終わり、道に花びらが泥と混ざっている、そんな日だった。
一人の旅人が、関所にやってきた。
女だった。
年の頃は、四十前後。中背。痩せてはいるが、痩せこけてはいない。日に焼けている。
背には、大きな柳行李。肩には、風呂敷包み。腰には、小さな薬箱を提げている。
薬売りの装いだった。
「通行を、お願いいたします」
女は、そう言って、往来手形を差し出した。
その声は、はっきりしていた。大きくはないが、聞き取りやすい。語尾を濁さない喋り方だった。
直也は、手形を受け取った。
手形は、整っている。越中の薬種商の印がある。名は「せい」。
「越中の薬売りどのですか」
「はい」
「女の身で、この街道を」
「珍しゅうございますか」
「珍しいです」
直也は、正直にそう答えた。
女は、少しだけ笑った。
「亭主が三年前に亡くなりまして、跡を継ぎました。慣れれば、なんということもございません」
その返答は、よくできていた。
破綻がない。無理もない。この時代に、寡婦が家業を継ぐことは、珍しくはあるが、ありえないことではない。
だが、直也は、その手を見ていた。
薬箱の紐を握っている手だ。
爪が、極端に短かった。
深爪ではない。丁寧に、しかし極端に短く、切り揃えられている。指先の肉より、爪が引っ込んでいる。十本すべてが、同じ長さだった。
そして、指輪の跡も、装飾の跡もない。それどころか、手首にも、何も巻いていない。この時代の女が、旅先で御守りの一つも持たないのは、むしろ不自然だ。
「せいどの」
「はい」
「その爪は、なぜ、そのように短く」
女の動きが、一瞬、止まった。
「……薬を扱いますので。爪のあいだに粉が入ると、いけませんから」
「なるほど」
直也は、頷いた。
その答えは、成立していた。
成立しているが、直也の中では、収まらなかった。
粉が入るのを嫌うなら、手拭いを巻くか、指を布で覆えばいい。爪をここまで短く、十本きっちり同じ長さに切り揃える必要は、ない。
これは、粉を嫌う切り方ではない。
――人に触る者の、切り方だ。
そのとき。
田中が、咳をした。
この冬から、田中は、時々咳をするようになっていた。年のせいだろうと、本人は言っていた。
乾いた、短い咳だった。二回。
その瞬間。
女の顔が、田中に向いた。
顔だけではない。体ごと、向いた。
「――いつからです」
女は、そう聞いた。
田中が、面食らった顔をした。
「は?」
「その咳は、いつからです。何月からですか。夜に出ますか、朝ですか。痰は。血は混じりますか。目方は減りましたか」
早口だった。
途切れなく、順序立てて、質問が並んだ。
田中は、ぽかんとしていた。
女も、自分が何をしたのか、二拍ほど遅れて気づいた顔をした。
「……失礼を」
女は、そう言って、目を伏せた。
「薬売りの、癖でございます」
関所の前が、静かになった。
風が、桜の花びらを、道の端に寄せていった。
直也は、静かに口を開いた。
「せいどの。薬売りは、痰の色を聞きますか」
「……」
「薬を売る者は、『どこがお悪いか』と聞きます。そして、それに合う薬を出します。それが商いです。……あなたは、いつから、どの時刻に、目方はどうか、と聞かれた。それは、売る者の問いではありません」
女は、答えなかった。
「それは、診る者の問いです」
女の指が、薬箱の紐を、強く握った。
「奥へ、どうぞ」
直也は、そう言った。
「荷を検めます。……それから、少し、話を伺いたい」
奥の部屋。
柳行李が開かれた。
中には、薬包が、整然と並んでいた。
異様なほど、整然と。
紙包みが、大きさごとに揃えられ、向きが揃えられ、隙間なく詰められている。詰め方に、無駄が一切ない。
そして、その包みの一つ一つに、小さな符号が書かれていた。
「これは、何と読むのですか」
直也は、その符号を指した。
「……印でございます。中身が分かるように」
「読み方を」
「……」
女は、答えなかった。
それは、漢字でも、かなでもなかった。
短い横棒と縦棒、そして数字。直也には、それが何を意味するかは分からなかった。だが、それが「この時代の文字ではない」ことは、分かった。
そして、行李の底に、油紙で厳重に包まれた箱が、一つあった。
「これは」
「……開けないでいただきたい」
女は、そう言った。
その声が、初めて、揺れた。
「なぜです」
「湿気ります。一度湿気れば、二度と戻りません。……そして、これは、代わりがありません」
「代わりがない」
「はい」
「増やせないのですか」
「増やせません」
女は、そう言った。
「この時代では、作れません」
その言葉で、すべてが決まった。
田中が、息を呑む音がした。
直也は、女を見つめた。
「お名前を」
女は、しばらく黙っていた。
そして、顔を上げた。
その眼は、逃げていなかった。覚悟した人間の眼だった。
「白石律」
女は、そう名乗った。
「二十一世紀の日本の医師です。……この時代に来て、一年二月になります」
「医師」
「はい」
「なぜ、この時代へ」
その問いに、白石律は、初めて、目を伏せた。
「……もう、決めたくなかったからです」
「決める、とは」
「誰を助けて、誰を助けないかを」
白石律は、そう言った。
「私は、それを、十七年やってきました。もう、できなくなったのです」




