↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界江戸転移小説「怪しい旅人たちと関所代官」  作者: 伝説の男前


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/56

第35話 薬売りの指―数を数える女の来訪―

ダニエル・オルセンが不揃いな裾を風になびかせて去ってから、三月が過ぎた。


冬が来て、雪が降り、そして解けた。


その三月のあいだに、関所には、いくつかの変化があった。


一つは、田中が、時々、直也に酒を注ぐようになったことだ。以前は、決してそんなことをしなかった。役人が代官と酒を酌み交わすなど、あってはならぬことだと、田中は考えていたのだろう。


だが、ヨハネスの十字架を「見ていない」ことにしたあの日から、田中と直也のあいだには、共犯者の間柄のようなものが生まれていた。共犯というのは、身分より、強い。


もう一つの変化は、直也自身の中にあった。


眠れる夜が、増えた。


眠れるようになったのは、悩みが減ったからではない。悩みの置き場所が、変わったからだ。


以前、直也は、判断のたびに、「自分は判断していない」と言い聞かせていた。放棄している、見守っている、何者でもない――そう言い聞かせることで、判断の重みを、どこにも置かずに済ませていた。


置かないから、重みは、宙に浮いたまま、夜中に落ちてきた。


今は、置いている。


自分が決めた。そう認めて、腹の底に置く。置けば、重い。重いが、落ちてはこない。


――重いものは、持てば眠れる。持たずにいると、眠れない。


そんなことを、直也は、この三月で覚えた。


四月の初め。


桜が散り終わり、道に花びらが泥と混ざっている、そんな日だった。


一人の旅人が、関所にやってきた。


女だった。


年の頃は、四十前後。中背。痩せてはいるが、痩せこけてはいない。日に焼けている。


背には、大きな柳行李。肩には、風呂敷包み。腰には、小さな薬箱を提げている。


薬売りの装いだった。


「通行を、お願いいたします」


女は、そう言って、往来手形を差し出した。


その声は、はっきりしていた。大きくはないが、聞き取りやすい。語尾を濁さない喋り方だった。


直也は、手形を受け取った。


手形は、整っている。越中の薬種商の印がある。名は「せい」。


「越中の薬売りどのですか」


「はい」


「女の身で、この街道を」


「珍しゅうございますか」


「珍しいです」


直也は、正直にそう答えた。


女は、少しだけ笑った。


「亭主が三年前に亡くなりまして、跡を継ぎました。慣れれば、なんということもございません」


その返答は、よくできていた。


破綻がない。無理もない。この時代に、寡婦が家業を継ぐことは、珍しくはあるが、ありえないことではない。


だが、直也は、その手を見ていた。


薬箱の紐を握っている手だ。


爪が、極端に短かった。


深爪ではない。丁寧に、しかし極端に短く、切り揃えられている。指先の肉より、爪が引っ込んでいる。十本すべてが、同じ長さだった。


そして、指輪の跡も、装飾の跡もない。それどころか、手首にも、何も巻いていない。この時代の女が、旅先で御守りの一つも持たないのは、むしろ不自然だ。


「せいどの」


「はい」


「その爪は、なぜ、そのように短く」


女の動きが、一瞬、止まった。


「……薬を扱いますので。爪のあいだに粉が入ると、いけませんから」


「なるほど」


直也は、頷いた。


その答えは、成立していた。


成立しているが、直也の中では、収まらなかった。


粉が入るのを嫌うなら、手拭いを巻くか、指を布で覆えばいい。爪をここまで短く、十本きっちり同じ長さに切り揃える必要は、ない。


これは、粉を嫌う切り方ではない。


――人に触る者の、切り方だ。


そのとき。


田中が、咳をした。


この冬から、田中は、時々咳をするようになっていた。年のせいだろうと、本人は言っていた。


乾いた、短い咳だった。二回。


その瞬間。


女の顔が、田中に向いた。


顔だけではない。体ごと、向いた。


「――いつからです」


女は、そう聞いた。


田中が、面食らった顔をした。


「は?」


「その咳は、いつからです。何月からですか。夜に出ますか、朝ですか。痰は。血は混じりますか。目方は減りましたか」


早口だった。


途切れなく、順序立てて、質問が並んだ。


田中は、ぽかんとしていた。


女も、自分が何をしたのか、二拍ほど遅れて気づいた顔をした。


「……失礼を」


女は、そう言って、目を伏せた。


「薬売りの、癖でございます」


関所の前が、静かになった。


風が、桜の花びらを、道の端に寄せていった。


直也は、静かに口を開いた。


「せいどの。薬売りは、痰の色を聞きますか」


「……」


「薬を売る者は、『どこがお悪いか』と聞きます。そして、それに合う薬を出します。それが商いです。……あなたは、いつから、どの時刻に、目方はどうか、と聞かれた。それは、売る者の問いではありません」


女は、答えなかった。


「それは、診る者の問いです」


女の指が、薬箱の紐を、強く握った。


「奥へ、どうぞ」


直也は、そう言った。


「荷を検めます。……それから、少し、話を伺いたい」


奥の部屋。


柳行李が開かれた。


中には、薬包が、整然と並んでいた。


異様なほど、整然と。


紙包みが、大きさごとに揃えられ、向きが揃えられ、隙間なく詰められている。詰め方に、無駄が一切ない。


そして、その包みの一つ一つに、小さな符号が書かれていた。


「これは、何と読むのですか」


直也は、その符号を指した。


「……印でございます。中身が分かるように」


「読み方を」


「……」


女は、答えなかった。


それは、漢字でも、かなでもなかった。


短い横棒と縦棒、そして数字。直也には、それが何を意味するかは分からなかった。だが、それが「この時代の文字ではない」ことは、分かった。


そして、行李の底に、油紙で厳重に包まれた箱が、一つあった。


「これは」


「……開けないでいただきたい」


女は、そう言った。


その声が、初めて、揺れた。


「なぜです」


「湿気ります。一度湿気れば、二度と戻りません。……そして、これは、代わりがありません」


「代わりがない」


「はい」


「増やせないのですか」


「増やせません」


女は、そう言った。


「この時代では、作れません」


その言葉で、すべてが決まった。


田中が、息を呑む音がした。


直也は、女を見つめた。


「お名前を」


女は、しばらく黙っていた。


そして、顔を上げた。


その眼は、逃げていなかった。覚悟した人間の眼だった。


「白石律」


女は、そう名乗った。


「二十一世紀の日本の医師です。……この時代に来て、一年二月になります」


「医師」


「はい」


「なぜ、この時代へ」


その問いに、白石律は、初めて、目を伏せた。


「……もう、決めたくなかったからです」


「決める、とは」


「誰を助けて、誰を助けないかを」


白石律は、そう言った。


「私は、それを、十七年やってきました。もう、できなくなったのです」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。