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異世界江戸転移小説「怪しい旅人たちと関所代官」  作者: 伝説の男前


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第34話 素顔の在処―演じ続けた男と、代官を演じる男の対話―

その夜。


直也は、酒を二合、持って、ダニエルの部屋へ行った。


これまで、直也は、旅人に酒を出したことがなかった。出せば、対話が緩む。緩めば、見えるものが見えなくなる。そう考えていたからだ。


だが、今夜は、緩めたかった。


ダニエルは、部屋の真ん中に、胡座をかいて座っていた。


正座ではなかった。昼間の、あの隙のない座り方は、跡形もなかった。膝が開き、背が丸まり、片手が畳についていた。


その姿勢が、ひどく、人間らしかった。


「酒か」


ダニエルは、直也の手元を見て、そう言った。


「毒でも入っているのか」


「入れる理由がありません」


「そうか」


ダニエルは、湯呑みを受け取った。


一口飲んで、顔をしかめた。


「……薄いな」


「この時代の酒です」


「知っている。三年飲んでいる」


ダニエルは、そう言って、もう一口飲んだ。


「三年、この時代におられるのですか」


「三年と、四月だ」


「その三年、ずっと」


「ずっと、嵐里之丞だった」


ダニエルは、そう答えた。


「三年と四月のあいだ、一度も、素に戻らなかった。寝ているときも、里之丞として寝ていた。……今日、あんたが崩すまでは」


直也は、その言葉を、静かに受け止めた。


「なぜ、そこまで」


「役者だからだ」


ダニエルは、そう言った。


「それ以外に、理由がない」


灯りが、風で揺れた。


障子の隙間から、冬の風が入ってきていた。


「私は、四十年、舞台に立った」


ダニエルは、湯呑みを両手で包んだまま、そう語り始めた。


「十九で始めて、五十九まで。舞台の上でだけは、私は、何者かだった。王にもなれたし、乞食にもなれた。人を殺す男にも、殺される男にもなれた。恋もしたし、裏切りもした。……全部、舞台の上でだ」


「舞台の下では」


「何もなかった」


ダニエルは、即答した。


「妻がいた。子もいた。だが、家にいるときの私は、何も感じなかった。妻が泣いても、何も感じない。子が笑っても、何も感じない。……感じている『ふり』は、うまかった。世界一うまかったと言っていい。だが、それだけだ」


ダニエルは、そこで、少しだけ笑った。


「妻が、出ていくとき、言ったよ。『あなたの悲しみ方は完璧だった。だから怖かった』と」


直也は、何も言わなかった。


「舞台の上では、感じるんだ」


ダニエルは、続けた。


「不思議だろう。嘘の場所で、嘘の名前で、嘘の言葉を喋っているときだけ、心臓が動く。本物の妻の前では動かないのに、紙に書かれた女に向かって喋るときには、動く」


ダニエルは、湯呑みを傾けた。


「五十九のとき、舞台を降りた。声が出なくなったんだ。医者は、休めば戻ると言った。……戻らなかった。一年、家にいた。何も感じなかった。一年ぶんの時間が、丸ごと、なかったのと同じだった」


「それで、この時代へ」


「そうだ」


ダニエルは、頷いた。


「ある人間が、私のところへ来た。何者かは知らん。『別の時代へ行けます』と言った。『そこであなたは、誰にでもなれます』と。……私は、その日のうちに、行くと答えた」


ダニエルは、直也を見た。


「なぜだかわかるか」


「…舞台が、欲しかったのですね」


「違う」


ダニエルは、首を振った。


「降りられない舞台が、欲しかったんだ」


その言葉に、直也は、息を止めた。


「舞台には、終わりがある。幕が下りる。楽屋に戻る。化粧を落とす。そうすると、私は、また何も感じない男に戻る。……四十年、それを繰り返した。感じられる時間が、一日に三時間だけの人生だ」


ダニエルは、そう言った。


「だが、この時代に来れば、幕が下りない。二十四時間、役の中にいられる。眠るときも、飯を食うときも、糞をするときも、私は里之丞でいられる。……三年と四月、私は、生まれて初めて、ずっと生きていた」


灯りが、また揺れた。


「幸福でしたか」


直也は、聞いた。


「幸福だった」


ダニエルは、即答した。


そして、しばらくして、こう付け加えた。


「幸福な、ふりだったかもしれんが」


直也は、酒を注ぎ足した。


「オルセンさん」


「ダニエルでいい。オルセンと呼ばれても、もう誰のことかわからん」


「ではダニエルさん。一つ、伺います」


「どうぞ」


「あなたが三年間、里之丞として感じてきたものは、偽物ですか」


ダニエルの手が、止まった。


「…どういう意味だ」


「言葉の通りです」


直也は、そう言った。


「舞台の上でだけ心臓が動くと、あなたは言われた。それは、動いていないのと同じですか。動いた心臓は、嘘の心臓ですか」


ダニエルは、答えなかった。


「私は、こう思うのです」


直也は、続けた。


「あなたが感じたことは、感じたことです。誰かの言葉で、誰かの名前で感じたとしても、感じたのは、あなたの体です。……嘘の場所で流れた涙も、塩辛かったでしょう」


「……」


「奥さまが怖かったのは、あなたの悲しみ方が完璧だったからではないと思います」


直也は、そう言った。


「完璧な悲しみ方をされたら、こちらは、何も返せません。差し出すものがない。……奥さまは、あなたに何かを差し出したかったのに、その隙間がなかったのではありませんか」


ダニエルの喉が、動いた。


「……あんたは、代官か。それとも坊主か」


「ニートです」


「なんだ、それは」


「何もしていない人間のことです」


直也は、そう答えた。


「四十を過ぎて、働かず、家におりました。親の金で生きていました。……こちらへ来る前の、私です」


ダニエルは、まじまじと、直也を見た。


「それが、代官をやっているのか」


「やっています」


「三年前から?」


「一年半ほど前からです」


「……あんたも、役者じゃないか」


ダニエルは、そう言って、笑った。


今度は、口角が揃わない、あの歪んだ笑い方だった。


「あんたのやっていることは、私と同じだ。代官という役を、一年半、降りずに演じている。違うか」


直也は、しばらく、黙っていた。


そして、正直に答えた。


「違わないと思います」


「だろうな」


「ですが、一つだけ、違うところがあります」


「言ってみろ」


「私には、失敗があります」


直也は、そう言った。


「私は、この関所で、多くの旅人を通してきました」


直也は、そう語り始めた。


「そのうちの何人かは、通すべきではなかったかもしれません。人を売る者がいました。毒と武器を運ぶ者がいました。人を殺す計画を持った者もいました。……私は、全員、通しました」


ダニエルは、黙って聞いていた。


「役者であれば、そういう場面は、演じきれるはずです。悩む代官を演じ、決断する代官を演じ、幕が下りる。……ですが、私は、演じきれませんでした。毎晩、眠れなくなりました。演じきれないから、眠れないのです」


直也は、そう言った。


「役の中にいるなら、眠れるはずです。役の中の悩みは、役が引き受けてくれますから。……私の悩みは、私が引き受けています。だから、眠れないのです」


ダニエルは、湯呑みを、畳の上に置いた。


「……あんた、それは」


「はい」


「それは、役に入りきれていない、ということだぞ」


「そうです」


「下手ということだ」


「そうです」


直也は、頷いた。


「私は、下手なのです」


ダニエルは、長く、直也を見ていた。


そして、両手で、顔を覆った。


その姿勢のまま、しばらく動かなかった。


「……三年と四月」


ダニエルの声が、掌の下から漏れた。


「三年と四月、一度も眠れなかった夜がない。役の中で、よく眠れた。……私は、上手いんだ。上手いから、何も引き受けていないんだ」


直也は、何も言わなかった。


「私は、幕が下りない舞台が欲しかった。……手に入った。手に入って、何が起きたと思う」


ダニエルは、顔を上げた。


その目は、濡れていなかった。


「何も起きなかった。三年と四月、何も起きなかった。楽しかったが、何も起きなかった。……舞台の上でだけ心臓が動くと言ったが、あれは嘘だ。舞台の上でも、動いていなかったのかもしれん。動いている形を、うまく作っていただけかもしれん」


ダニエルは、そう言った。


「私は、四十年、何も感じずに、感じる名人だったのかもしれん」


風が、強くなっていた。


障子が、断続的に鳴っていた。


「ダニエルさん」


直也は、そう呼んだ。


「今、あなたは、何を感じておられますか」


ダニエルは、答えなかった。


長い、長い沈黙があった。


そして、ようやく、こう言った。


「……こわい」


その言葉には、抑揚がなかった。


美しくもなかった。声も低くなかった。ただ、掠れた、薄い声だった。


「こわい、と言うのは、四十年ぶりだ」


直也は、頷いた。


「今のは、上手くありませんでした」


「そうか」


「はい。ひどく下手でした」


「……そうか」


ダニエルは、そう言って、少しだけ、笑った。


翌朝。


風は止んでいた。


ダニエルは、関所の前に立った。


その立ち姿は、昨日の完璧さを、いくらか失っていた。裾の割れ方が、風でわずかに乱れた。乱れたまま、直さなかった。


「里之丞どの」


田中が、往来手形に印を押しながら、そう呼んだ。


ダニエルは、その名で呼ばれて、一拍、返事が遅れた。


そのことに、直也は気づいた。ダニエル自身も、気づいた顔をした。


「……はい」


「上方まで、お気をつけて」


「かたじけない」


その返事は、昨日ほど、美しくなかった。


ダニエルは、直也の前に立った。


「代官」


「はい」


「一つ、教えろ」


「なんでしょう」


「役を降りたら、私は、何が残る」


直也は、少し考えた。


そして、答えた。


「わかりません」


「わからんのか」


「わかりません。私も、まだ降りていませんので」


直也は、そう言った。


「ですが、降りなくてもいいと思います。降りる必要は、ないと思います」


「なぜだ」


「役を降りて素顔に戻る、という考え方が、そもそも間違っているのかもしれません」


直也は、そう言った。


「私は、こちらへ来て、代官になりました。演じているのかもしれません。ですが、一年半、この役の中で、眠れない夜を重ねました。その眠れなさは、役のものではなく、私のものです。……役の中で積んだものは、役が終わっても、消えないのではありませんか」


ダニエルは、直也を見つめていた。


「あなたが里之丞として過ごした三年四月も、消えません」


直也は、続けた。


「ダニエル・オルセンには何もなかったとあなたは言う。ですが、それは、ダニエル・オルセンという役を、あなたが下手に演じていただけかもしれません」


ダニエルの口が、わずかに開いた。


「……素顔も、役か」


「そうかもしれません」


直也は、そう言った。


「そして、それは、絶望ではないと思います。役なら、稽古ができます」


ダニエルは、しばらく、そこに立っていた。


そして、深く、一礼した。


その一礼は、昨日ほど美しくなかった。角度が浅く、戻りが早かった。


だが、直也は、その一礼の方が、はるかによいと思った。


「行く」


「はい」


「……あんた、下手な代官だな」


「よく言われます」


「誰にだ」


「今、あなたに」


ダニエルは、声を出して笑った。


そして、街道を歩いていった。


その裾は、風のたびに、不揃いに割れていた。


その日の夜。


直也は、関所帳を開いた。


「二代目嵐里之丞 江戸の役者 上方修業のため 通行」


そう書いた。


偽名ではない。この男が、三年四月、生きてきた名前だ。


書き終えて、直也は、しばらく、その一行を見ていた。


――あんたも、役者じゃないか。


ダニエルの言葉が、残っていた。


そうかもしれない、と直也は思った。


自分は、代官を演じている。四十過ぎのニートが、代官の顔をして、判断のふりをして、責任のふりをして、一年半を過ごしてきた。


だが。


眠れない夜は、本物だった。


ヨハネスに「それは侮辱です」と言ったときの、口の中の乾きは、本物だった。田代義久を通した翌朝の、胃の重さは、本物だった。


演じている自分の中で、確かに、何かが痛んでいた。


痛むということは、そこに、体があるということだ。


役の中にも、体はある。


直也は、筆を置いて、灯りを消した。


冬の夜だった。


その夜、直也は、あまり深くはなかったが、眠った。

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