↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界江戸転移小説「怪しい旅人たちと関所代官」  作者: 伝説の男前


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/55

第33話 型と間―名優と名乗る男の、一拍遅れた驚き―

ヨハネス・フェルトが霧の中へ消えてから、二月が過ぎた。


その二月のあいだに、直也の中で、何かが静かに入れ替わっていた。


これまで、直也は、自分を「判断を放棄した者」だと思っていた。判断できないから通す。責任を負えないから通す。何者でもないから通す。そう考えることで、直也は、自分の立場を、辛うじて支えていた。


だが、ヨハネスが、それを剥がしていった。


――裁く覚悟のある人だけが、あれを言えます。


あの言葉が、二月のあいだ、毎日、直也の中で鳴っていた。


自分は、裁いていた。ずっと裁いていた。通すという形で、裁いていた。裁かないという言葉で、裁いていることを、自分から隠していた。


そのことに気づいてから、直也は、旅人の顔を見るとき、以前とは違うものを見るようになっていた。


以前は、「この者は何者か」を見ていた。


今は、「自分はこの者に、何を差し出すのか」を見ていた。


見るという行為が、こんなにも疲れるものだとは、知らなかった。


冬の入り口の、風の強い日だった。


昼下がり。関所の前の街道を、一人の男が歩いてきた。


その男を、直也は、遠くから見ていた。


――美しい。


それが、最初に浮かんだ言葉だった。


年の頃は、三十半ば。背が高く、姿勢がよい。着物は、旅装としては上等な部類だが、豪奢というほどではない。落ち着いた鼠色の紬。帯は濃い藍。


だが、その着こなしが、ただごとではなかった。


歩くたびに、裾の割れ方が、同じなのだ。


十歩見ても、二十歩見ても、裾が同じ角度で割れ、同じ角度で戻る。風が吹いても、その角度が崩れない。風が吹いた瞬間に、腰がわずかに動いて、裾を元に戻している。


そんなことを、無意識にできる人間は、いない。


いるとすれば、それを職業にしている者だけだ。


「代官殿。あれは」


田中が、隣で目を細めた。


「役者でございましょうか」


「そう見えるな」


「江戸の役者が、なぜ、こんな街道を」


「歩きたかったのかもしれん」


直也は、そう言った。


その男は、関所の前で足を止め、深く一礼した。


その一礼が、また、美しかった。


「お役目、ご苦労に存じます」


その声も、よかった。低く、しかし遠くまで通る。喉ではなく、腹から出ている声だ。


「通行を、お願い申し上げます」


男は、そう言って、往来手形を差し出した。


直也は、それを受け取った。


手形は、整っている。江戸の芝居小屋の印がある。名は「二代目・嵐里之丞」。


「役者どのでしたか」


「はい。江戸にて、いささか」


男は、そう言って、控えめに微笑んだ。


その微笑にも、崩れがなかった。左右の口角が、同じだけ上がった。


「二代目嵐里之丞。……不勉強で、存じ上げませんでした」


「小さな一座でございます。お耳に入らぬのも、無理はございません」


「上方への旅ですか」


「はい。しばらく、京、大坂で修業をと」


その受け答えに、破綻はなかった。


言葉遣いも、正しい。江戸の役者が、地方の関所役人に対して使う敬語として、過不足がない。


直也は、その手形を、もう一度見た。


そして、顔を上げた。


「里之丞どの」


「はい」


「その手、拝見できますか」


男の眉が、わずかに動いた。


「…手、でございますか」


「はい」


男は、素直に、両手を差し出した。


美しい手だった。指が長く、爪が整えられている。


だが、直也が見たのは、そこではない。


掌だった。


掌の、指の付け根に、硬い皮ができていた。四本の指の付け根に、横一文字に。


「これは」


「刀を、握りますので」


男は、そう答えた。


「舞台で、立ち回りを」


「なるほど」


直也は、頷いた。


そこまでは、辻褄が合っていた。


だが、直也は、その硬い皮の位置を、もう一度、見ていた。


刀を握ってできる胼胝は、この位置にできる。それは、正しい。


だが、この男の胼胝は、左手の方が、明らかに厚かった。


日本の刀は、両手で握る。右手が上、左手が下。力を入れるのは左手だが、それでも、両手に胼胝はできる。左だけがここまで厚く、右がここまで薄いのは――


弓か。


あるいは、片手で長いものを、繰り返し振る動作か。


「里之丞どの。立ち回りは、どの流派の型で」


直也は、そう聞いた。


「…市村流にて」


「そうですか」


直也は、頷いた。


市村流という流派を、直也は知らない。この時代の芝居の流派など、知るはずもない。


だから、この問いは、答えを得るためのものではなかった。


問いを投げた瞬間の、相手の「間」を見るためのものだった。


そして、その男は、答える前に、〇・五拍、止まった。


知らないことを聞かれた人間が止まるのではない。


答えを選んだ人間の、止まり方だった。


直也は、手形を返した。


「里之丞どの。少々、奥でお待ちいただけますか。帳面と照合いたします」


「…承知いたしました」


男は、また、美しく一礼した。


奥の部屋へ通す途中、山本が、廊下の角で、盆を落とした。


わざとではなかった。ただ、風で障子が鳴り、山本が驚いて、手元が狂ったのだ。


湯呑みが、板張りの上で、派手な音を立てて割れた。


直也は、その瞬間、男を見ていた。


男は、驚いた。


肩が跳ね、目が見開かれ、息を呑み、そして、「おお、驚いた」というふうに、胸に手を当てた。


完璧な驚き方だった。


――一拍、遅い。


直也の体は、音がした瞬間に、勝手に竦んでいた。田中も、竦んでいた。人間の体は、音より先に反応する。頭で「驚こう」と決める前に、肩が動く。


この男の肩は、音を聞いてから、動いた。


聞いて、判断して、それから、驚いた。


「里之丞どの」


直也は、そう呼びかけた。


「あなたは、今、驚きましたか」


男の動きが、止まった。


「…は」


「驚いた形は、拝見しました。ですが、驚いたのですか」


長い沈黙があった。


山本が、割れた湯呑みを拾う手を止めて、直也を見た。田中が、息を詰めているのが、背中でわかった。


そして。


男が、笑った。


それは、これまでの微笑ではなかった。左右の口角が、揃わなかった。片方だけが、歪に上がった。


「……ばれるとは、思っていなかった」


その声が、変わっていた。


低さは同じだ。だが、抑揚が違った。日本語の抑揚ではなかった。単語の頭に、わずかな強さが乗る話し方だった。


「三十七年やってきて、驚き方で見破られたのは、初めてだ」


男は、そう言って、姿勢を崩した。


崩した瞬間に、あの美しさが、すべて消えた。


そこにいたのは、疲れた、猫背の、痩せた中年の男だった。


「名は」


直也は、聞いた。


「ダニエル・オルセン」


男は、そう答えた。


「ロンドンで、四十年、舞台に立っていた。……そう言っても、この時代の人間には、何のことかわからんだろうが」


「わかります」


直也は、そう言った。


「私も、そちら側の人間ですので」


ダニエルの眼が、初めて、大きく見開かれた。


今度は、一拍の遅れが、なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。