第33話 型と間―名優と名乗る男の、一拍遅れた驚き―
ヨハネス・フェルトが霧の中へ消えてから、二月が過ぎた。
その二月のあいだに、直也の中で、何かが静かに入れ替わっていた。
これまで、直也は、自分を「判断を放棄した者」だと思っていた。判断できないから通す。責任を負えないから通す。何者でもないから通す。そう考えることで、直也は、自分の立場を、辛うじて支えていた。
だが、ヨハネスが、それを剥がしていった。
――裁く覚悟のある人だけが、あれを言えます。
あの言葉が、二月のあいだ、毎日、直也の中で鳴っていた。
自分は、裁いていた。ずっと裁いていた。通すという形で、裁いていた。裁かないという言葉で、裁いていることを、自分から隠していた。
そのことに気づいてから、直也は、旅人の顔を見るとき、以前とは違うものを見るようになっていた。
以前は、「この者は何者か」を見ていた。
今は、「自分はこの者に、何を差し出すのか」を見ていた。
見るという行為が、こんなにも疲れるものだとは、知らなかった。
冬の入り口の、風の強い日だった。
昼下がり。関所の前の街道を、一人の男が歩いてきた。
その男を、直也は、遠くから見ていた。
――美しい。
それが、最初に浮かんだ言葉だった。
年の頃は、三十半ば。背が高く、姿勢がよい。着物は、旅装としては上等な部類だが、豪奢というほどではない。落ち着いた鼠色の紬。帯は濃い藍。
だが、その着こなしが、ただごとではなかった。
歩くたびに、裾の割れ方が、同じなのだ。
十歩見ても、二十歩見ても、裾が同じ角度で割れ、同じ角度で戻る。風が吹いても、その角度が崩れない。風が吹いた瞬間に、腰がわずかに動いて、裾を元に戻している。
そんなことを、無意識にできる人間は、いない。
いるとすれば、それを職業にしている者だけだ。
「代官殿。あれは」
田中が、隣で目を細めた。
「役者でございましょうか」
「そう見えるな」
「江戸の役者が、なぜ、こんな街道を」
「歩きたかったのかもしれん」
直也は、そう言った。
その男は、関所の前で足を止め、深く一礼した。
その一礼が、また、美しかった。
「お役目、ご苦労に存じます」
その声も、よかった。低く、しかし遠くまで通る。喉ではなく、腹から出ている声だ。
「通行を、お願い申し上げます」
男は、そう言って、往来手形を差し出した。
直也は、それを受け取った。
手形は、整っている。江戸の芝居小屋の印がある。名は「二代目・嵐里之丞」。
「役者どのでしたか」
「はい。江戸にて、いささか」
男は、そう言って、控えめに微笑んだ。
その微笑にも、崩れがなかった。左右の口角が、同じだけ上がった。
「二代目嵐里之丞。……不勉強で、存じ上げませんでした」
「小さな一座でございます。お耳に入らぬのも、無理はございません」
「上方への旅ですか」
「はい。しばらく、京、大坂で修業をと」
その受け答えに、破綻はなかった。
言葉遣いも、正しい。江戸の役者が、地方の関所役人に対して使う敬語として、過不足がない。
直也は、その手形を、もう一度見た。
そして、顔を上げた。
「里之丞どの」
「はい」
「その手、拝見できますか」
男の眉が、わずかに動いた。
「…手、でございますか」
「はい」
男は、素直に、両手を差し出した。
美しい手だった。指が長く、爪が整えられている。
だが、直也が見たのは、そこではない。
掌だった。
掌の、指の付け根に、硬い皮ができていた。四本の指の付け根に、横一文字に。
「これは」
「刀を、握りますので」
男は、そう答えた。
「舞台で、立ち回りを」
「なるほど」
直也は、頷いた。
そこまでは、辻褄が合っていた。
だが、直也は、その硬い皮の位置を、もう一度、見ていた。
刀を握ってできる胼胝は、この位置にできる。それは、正しい。
だが、この男の胼胝は、左手の方が、明らかに厚かった。
日本の刀は、両手で握る。右手が上、左手が下。力を入れるのは左手だが、それでも、両手に胼胝はできる。左だけがここまで厚く、右がここまで薄いのは――
弓か。
あるいは、片手で長いものを、繰り返し振る動作か。
「里之丞どの。立ち回りは、どの流派の型で」
直也は、そう聞いた。
「…市村流にて」
「そうですか」
直也は、頷いた。
市村流という流派を、直也は知らない。この時代の芝居の流派など、知るはずもない。
だから、この問いは、答えを得るためのものではなかった。
問いを投げた瞬間の、相手の「間」を見るためのものだった。
そして、その男は、答える前に、〇・五拍、止まった。
知らないことを聞かれた人間が止まるのではない。
答えを選んだ人間の、止まり方だった。
直也は、手形を返した。
「里之丞どの。少々、奥でお待ちいただけますか。帳面と照合いたします」
「…承知いたしました」
男は、また、美しく一礼した。
奥の部屋へ通す途中、山本が、廊下の角で、盆を落とした。
わざとではなかった。ただ、風で障子が鳴り、山本が驚いて、手元が狂ったのだ。
湯呑みが、板張りの上で、派手な音を立てて割れた。
直也は、その瞬間、男を見ていた。
男は、驚いた。
肩が跳ね、目が見開かれ、息を呑み、そして、「おお、驚いた」というふうに、胸に手を当てた。
完璧な驚き方だった。
――一拍、遅い。
直也の体は、音がした瞬間に、勝手に竦んでいた。田中も、竦んでいた。人間の体は、音より先に反応する。頭で「驚こう」と決める前に、肩が動く。
この男の肩は、音を聞いてから、動いた。
聞いて、判断して、それから、驚いた。
「里之丞どの」
直也は、そう呼びかけた。
「あなたは、今、驚きましたか」
男の動きが、止まった。
「…は」
「驚いた形は、拝見しました。ですが、驚いたのですか」
長い沈黙があった。
山本が、割れた湯呑みを拾う手を止めて、直也を見た。田中が、息を詰めているのが、背中でわかった。
そして。
男が、笑った。
それは、これまでの微笑ではなかった。左右の口角が、揃わなかった。片方だけが、歪に上がった。
「……ばれるとは、思っていなかった」
その声が、変わっていた。
低さは同じだ。だが、抑揚が違った。日本語の抑揚ではなかった。単語の頭に、わずかな強さが乗る話し方だった。
「三十七年やってきて、驚き方で見破られたのは、初めてだ」
男は、そう言って、姿勢を崩した。
崩した瞬間に、あの美しさが、すべて消えた。
そこにいたのは、疲れた、猫背の、痩せた中年の男だった。
「名は」
直也は、聞いた。
「ダニエル・オルセン」
男は、そう答えた。
「ロンドンで、四十年、舞台に立っていた。……そう言っても、この時代の人間には、何のことかわからんだろうが」
「わかります」
直也は、そう言った。
「私も、そちら側の人間ですので」
ダニエルの眼が、初めて、大きく見開かれた。
今度は、一拍の遅れが、なかった。




