第32話 裁かぬ者―信仰を試しに来た男と、判断を捨てた男の夜
第32話 裁かぬ者―信仰を試しに来た男と、判断を捨てた男の夜―
その夜、直也は、眠れなかった。
これまでも、眠れない夜は、何度もあった。だが、その眠れなさの質が、今夜は違っていた。
これまでは、「自分の判断が正しいのか」という問いに、眠りを妨げられていた。
今夜、直也を眠らせないでいるのは、それとは別のものだった。
――あの男は、捕らえられることを、望んでいる。
これまでの転移者たちは、皆、通されることを望んでいた。だから、直也が「通す」と言えば、それで終わった。直也は、彼らの望みを叶える側にいた。判断を放棄することが、そのまま、相手の望みと一致していた。
だが、ヨハネスは違う。
ヨハネスにとって、通されることは、何も試されないということだ。安全なオランダの教会に戻るのと、同じことだ。
つまり――直也が「通す」ことは、ヨハネスにとって、救いではなく、拒絶になる。
はじめて、「通す」ことが、優しさにならない相手が、来たのだ。
直也は、灯りを持って、部屋を出た。
ヨハネスは、眠っていなかった。
灯りもつけず、暗い部屋の中で、正座したまま、目を閉じていた。その姿勢が、昼と、寸分違わなかった。
「祈っておられましたか」
直也は、そう言って、灯りを畳の上に置いた。
「はい」
ヨハネスは、目を開けた。
「代官さまも、眠れませんか」
「ええ」
「なぜです」
「あなたのせいです」
直也は、正直に、そう答えた。
ヨハネスが、わずかに笑った。
「それは、申し訳ないことをしました」
直也は、その向かいに座った。
灯りが、二人のあいだで、小さく揺れた。
「一つ、伺いたいことがあります」
直也は、そう切り出した。
「どうぞ」
「あなたの信じておられる神は、人を裁きますか」
ヨハネスの表情が、少しだけ、変わった。
その質問を、予期していなかったのだ。
「…裁きます」
ヨハネスは、しばらくして、そう答えた。
「最後の日に。すべての人が、その行いに応じて、裁かれます」
「では、裁きとは、何ですか」
「善であったか、悪であったかを、明らかにすることです」
「誰にとって明らかにするのですか」
その問いに、ヨハネスは、口を閉じた。
直也は、続けた。
「人にとってですか。それとも、神にとってですか。神は、はじめから知っておられるのでしょう。誰が善で、誰が悪かを。ならば、神が裁く必要は、ないはずです。知っているものを、改めて明らかにする意味がない」
「…人にとって、です」
ヨハネスは、そう答えた。
「人が、自分が何者であったかを、知るためです」
「では、裁きとは、人が自分を知るためのものなのですね」
「そうです」
「それなら」
直也は、そう言った。
「あなたは、なぜ、他人に裁かれに来たのですか」
ヨハネスの眼が、動いた。
「…どういう意味でしょう」
「あなたは、ご自分の信仰が本物かどうかを、知りたいと言われました。だからこの時代に来て、試されようとしている。……ですが、あなたを試すのは、誰ですか。神ですか。それとも、この時代の役人ですか」
ヨハネスは、答えなかった。
「あなたを捕らえるのは、私です」
直也は、そう言った。
「あなたを責めるのは、この時代の法です。あなたを殺すのは、幕府です。神ではありません。……あなたは、神に試されに来たのではなく、人に試されに来たのです。人に裁かれることを、神に裁かれることと、取り違えておられるのではありませんか」
長い沈黙があった。
灯りの芯が、小さく音を立てて爆ぜた。
「…代官さまは」
ヨハネスが、ようやく口を開いた。
「代官さまは、私を、どうなさるおつもりですか」
「まだ、決めていません」
直也は、正直に答えた。
「あなたが来る前なら、決まっていました。私は、誰も裁きません。誰も捕らえません。皆、通します。……それが、私の、この一年の在り方でした」
「では、私も通せばよろしい」
「通せば、あなたは、何も試されずに終わります」
「そうです」
ヨハネスは、そう認めた。
「ですが、それは、私の問題です。代官さまの問題ではありません」
「いいえ」
直也は、首を振った。
「それは、私の問題でもあります」
直也は、そう言って、少し、間を置いた。
「私は、これまで、通すことを、優しさだと思っていました。裁かないことを、誠実さだと思っていました。相手の自由を尊ぶことだと思っていました。……ですが、あなたが来て、わかりました。私が通してきたのは、通されたい人ばかりだったのです」
「…」
「通されたい者を通すのは、簡単です。何も失いません。相手も喜ぶ。私も傷つかない。それを、私は、覚悟だと思い込んでいた」
直也は、そう言った。
「ですが、あなたは、通されたくない。あなたを通せば、あなたは失望する。……はじめて、私の『通す』が、誰かを傷つけるのです」
ヨハネスは、直也を見つめていた。
その眼から、あの醒めた決意が、少しずつ薄れていくのが、灯りの中でも、わかった。
「…代官さま」
「はい」
「私は、卑怯かもしれません」
ヨハネスは、そう言った。
「私は、自分の信仰を、自分で確かめることができなかった。だから、他人に確かめてもらおうとした。他人の刃を借りて、自分の中身を切り開こうとした。……それは、信仰ではなく、甘えかもしれません」
ヨハネスは、そこで、初めて、姿勢を崩した。
正座していた足を、わずかに横に流した。長く保っていたものが、崩れた瞬間だった。
「私は、四百年前の人々の、苦しみを、羨みました」
ヨハネスは、そう言った。
「彼らが、はっきりと試されたことを、羨んだのです。信仰のために死ねることを、羨んだのです。……それは、彼らの苦しみに対する、侮辱です」
「そうですね」
直也は、そう答えた。
慰めなかった。
その言葉は、ヨハネス自身が言わねばならなかった言葉だったからだ。
「私は、彼らのようになりたかったのではありません。彼らのように、確信を持ちたかったのです。……確信は、外から与えられるものだと、思っていました」
ヨハネスは、そう言って、十字の木片を、掌の上に載せた。
粗く削られた、二本の木。
「これを削ったのは、私です。ここに来て、削りました。手が慣れていないので、うまくできませんでした」
ヨハネスは、それを見つめていた。
「削っているあいだ、私は、幸福でした。誰も見ていない場所で、誰にも試されず、ただ、木を削っていた。……あのとき、私は、何かを信じていたと思います」
灯りが、また、小さく揺れた。
「ヨハネスさん」
直也は、そう呼んだ。
「はい」
「あなたを、通します」
ヨハネスは、目を閉じた。
そして、しばらくして、静かに頷いた。
「…私が、望まないと言ったら」
「望まなくても、通します」
直也は、そう言った。
「これは、あなたの望みを叶えるための判断ではありません。私が、私の責任で下す判断です。……はじめて、そういう判断を、しました」
「なぜ、そうなさるのですか」
「あなたを裁くと、あなたが救われるからです」
直也は、そう答えた。
「あなたは、裁かれることで、自分が何者かを知りたがっている。ですが、私が裁いてしまえば、あなたは、自分で自分を知る機会を、永久に失います。……人に決めてもらった答えは、あなたの答えではありません」
ヨハネスは、動かなかった。
「あなたは、自分で削った木を、幸福だったと言われた」
直也は、続けた。
「誰も見ていない場所で、誰にも試されず、削っていた。……それが答えなのではありませんか。あなたの信仰は、試されて証明されるものではなく、誰も見ていないところで、木を削っていられることなのではありませんか」
ヨハネスの肩が、わずかに震えた。
その震えは、一度きりだった。
「…ずるい人だ」
ヨハネスは、そう言った。
その声が、少し、湿っていた。
「私は、答えをもらいに来たのではありません」
「差し上げていません」
直也は、そう答えた。
「私は、あなたを通すだけです。答えは、これから、あなたが道の上で、ご自分で見つけてください」
翌朝。
霧の深い朝だった。
田中が、往来手形を差し出しながら、小声で言った。
「代官殿。……よろしいのですか」
「よくはない」
直也は、そう答えた。
「だが、そうする」
「あの首の物は」
「私は見ていない」
直也は、そう言った。
「田中。お前も、山本も、見ていない。よいな」
田中は、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「…承知いたしました」
ヨハネスは、荷を背負い、関所の前に立った。
首の紐は、着物の内側に、しまわれていた。
「隠されるのですね」
直也は、そう言った。
「はい」
ヨハネスは、そう答えた。
「隠すことにしました。……隠しても、なくならないものかどうか、確かめてみます。それが、私の試練です」
「よい試練だと思います」
「代官さま」
ヨハネスは、そう呼んだ。
「あなたは、誰も裁かないと言われた。ですが、昨夜、あなたは、私を裁きました」
直也は、驚いて、その顔を見た。
「あなたは、私に『それは彼らへの侮辱です』と言われた。あれは、裁きです。優しくない言葉でした。……私は、あの言葉に、救われました」
ヨハネスは、微笑んだ。
昨日の、あの穏やかすぎる微笑とは、違う笑い方だった。もっと、崩れていて、人間らしい笑い方だった。
「裁かない人は、あの言葉を言えません。裁く覚悟のある人だけが、あれを言えます。……代官さまは、裁いておられます。ご自分で気づいていないだけです」
ヨハネスは、そう言って、頭を下げた。
そして、霧の中へ、歩いていった。
その背中が、五歩ほどで、白く溶けて、見えなくなった。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
筆を持ったまま、長く、動かなかった。
書けば、記録に残る。書かなければ、この男は、この関所を通らなかったことになる。
だが、それは、これまでと同じことではないか。
直也は、筆を置いた。
そして、しばらく考えてから、もう一度、筆を取った。
「無庵 遊行の僧 通行」
そう書いた。
偽名だ。だが、いつもと、意味が違った。
これまでは、相手を守るために、名を変えていた。今日は、違う。今日書いた偽名は、直也自身が、この判断を引き受けた印だった。この一行の嘘は、直也が書いた嘘だ。露見すれば、罰を受けるのは、直也だ。
はじめて、記録が、直也の責任になった。
直也は、帳面を閉じた。
そして、月を見た。
――裁く覚悟のある人だけが、あれを言えます。
ヨハネスの言葉が、耳に残っていた。
自分は、裁かない者だと思っていた。判断を放棄した者だと思っていた。何者でもない者だと思っていた。
だが、そうではなかったのかもしれない。
裁かないという形で、ずっと裁いてきたのかもしれない。通すという形で、ずっと決めてきたのかもしれない。それを、放棄と呼んで、責任から目を逸らしてきただけなのかもしれない。
直也は、その夜、眠れなかった。
だが、その眠れなさは、これまでのものとは、違っていた。
自分が何もしていないことに苦しむ眠れなさではなく、自分が何かをしてしまったことに震える眠れなさだった。
それは、久しぶりに、生きている人間の眠れなさだった。




