第31話 裁く神―旅の説教者が携えてきた信仰の形―
久保田玄斎が去ってから、一月半が過ぎた。
その一月半のあいだ、直也は、久しぶりに、穏やかに眠ることができていた。
久保田との対話は、これまでの転移者たちとの対話とは、何かが違っていた。これまでは、対話のたびに、直也の立場が削られていった。判断する者から、見守る者へ。見守る者から、判断を放棄した者へ。判断を放棄した者から、何者でもない者へ。
だが、久保田との対話では、削られなかった。
なぜか。
直也は、その理由を、一月半かけて考えていた。そして、一つの答えに、辿り着いていた。
久保田は、直也を「問い詰めなかった」のだ。久保田は、自分自身の問題を語り、直也もまた、自分自身の問題を語った。二人は、互いを裁かなかった。ただ、並んで座り、それぞれの恐れを、言葉にしただけだった。
その「裁かなさ」が、直也を、削らなかったのだ。
――では、裁くとは、何なのか。
その問いが、直也の中に、静かに残っていた。
その問いに、答えを持った男が、関所にやってきたのは、秋のはじめのことだった。
午後三時。
その人物は、遠くから見ても、すぐにわかった。
歩き方が、違うのだ。
旅人というものは、疲れている。足を引きずるか、荷を担ぎ直すか、道端の石に腰を下ろすか、そのいずれかをする。だが、その男は、一定の速度で、まっすぐに歩いてきた。疲れているのに、疲れを外に出さない歩き方だった。
年の頃は、五十前後。背は高くない。痩せているが、久保田のような病的な痩せ方ではない。節制によって痩せた体だ。
着物は、灰色に近い、地味なものだった。だが、その地味さが、かえって目を引いた。汚れていないのだ。何日も歩いてきたはずの着物が、丁寧に手入れされている。
そして、首から、細い紐を下げていた。その紐の先は、着物の内側に隠れている。
「通行を願います」
その男は、そう言って、往来手形を差し出した。
その声が、よく通った。低いのに、遠くまで届く声だった。人前で話すことに慣れた者の声だ。
直也は、手形を受け取った。
手形は、整っている。寺の印がある。名は「無庵」。僧名だ。
「お坊さまでしたか」
「僧ではありません」
その男は、即座に、そう答えた。
「僧の形をしておりますが、僧ではありません。私は、伝える者です」
「伝える。…何をですか」
「教えを」
その男は、そう言って、静かに微笑んだ。
その微笑が、奇妙だった。
穏やかなのだ。あまりにも穏やかなのだ。関所で足止めされ、代官に身元を問われている人間の顔ではない。この状況を、あらかじめ想定していた人間の顔だ。
「教え。…どちらの宗派ですか」
「宗派はありません」
「宗派のない教えですか」
「宗派とは、人が作ったものです。教えは、人が作ったものではありません」
その男は、そう言った。
直也は、その言葉を、頭の中で反芻した。
言い回しとしては、成立している。この時代にも、宗派を超えた説法を行う遊行僧はいる。だから、この言葉だけでは、矛盾は取れない。
だが。
「無庵さま。一つ、伺ってもよろしいか」
「どうぞ」
「その、首から下げておられるものは、何ですか」
その男の指が、無意識に、着物の胸元に触れた。
そして、その動きに気づいて、指を止めた。
「…お守りです」
「拝見できますか」
「これは、人に見せるものではありません」
「関所の役目でして」
直也は、静かに、そう言った。
「荷を検めるのと、同じことです。危険なものでなければ、それで終わります」
その男は、しばらく、直也を見つめていた。
そして、微笑んだまま、紐を引き出した。
紐の先に下がっていたのは、木の小片だった。
二本の木を、直角に組んで、細い麻紐で縛ってある。粗い作りだ。自分で削ったものだろう。
十字だった。
直也は、それを見た瞬間、体の芯が冷えるのを感じた。
この時代。江戸時代。
切支丹禁制の時代だ。
十字を持っているというだけで、この男は、死ぬ。この関所で見つかったということは、それを見つけた直也にも、報告の義務が生じる。報告しなければ、直也が罰せられる。
田中が、直也の背後で、息を呑んだのが、はっきりとわかった。
「代官殿」
田中の声が、震えていた。
「…これは」
「田中」
直也は、田中の方を見ずに、そう言った。
「山本を呼んで、表を閉めてくれ。今日はもう、旅人は通さない」
「…はっ」
田中は、そう言って、下がった。その足音が、いつもより速かった。
直也は、その男に、向き直った。
その男は、十字を、胸の前に下げたまま、まだ微笑んでいた。
「隠されなかったのですね」
直也は、そう言った。
「隠すこともできたはずです。手形は整っている。首の紐など、抜いて懐に入れておけばよかった」
「隠しません」
その男は、そう答えた。
「隠せば、助かるかもしれません。ですが、隠した瞬間に、私は、伝える者ではなくなります」
その男は、そう言って、十字から手を離した。
「私の名は、無庵ではありません。ヨハネス・フェルト。かつては、そう呼ばれておりました」
「…どちらから」
「二十一世紀のオランダから。もっとも、私が生まれたのは、この国です。日本人の父と、オランダ人の母のあいだに生まれ、あちらで育ちました」
その男は、そう言った。
「私は、あちらで、牧師をしておりました」
「牧師」
「はい」
「その牧師が、なぜ、この時代に」
その問いに、ヨハネスは、初めて、微笑みを収めた。
そして、静かに答えた。
「殉教しに来ました」
関所の奥の部屋。
ヨハネスは、正座して座っていた。
その背筋が、まっすぐだった。長時間そうしていられる座り方だ。
「殉教しに来た、と申されましたか」
直也は、聞いた。
「はい」
「意味を、教えていただけますか」
「言葉の通りです」
ヨハネスは、そう答えた。
「この時代、この国では、私の信仰を持つ者は、殺されました。数万の人間が、信仰を捨てるか、死ぬかを迫られました。捨てた者もいる。死んだ者もいる。踏み絵を踏み、その後の生涯を、自分を許せないまま生きた者もいる」
ヨハネスの声は、静かだった。
「私は、二十一世紀のオランダで、暖かい教会にいました。誰も私を殺しません。誰も私に、信仰を捨てろとは言いません。日曜に人が集まり、私が話し、皆が頷いて帰っていく。……その繰り返しの中で、私は、わからなくなりました」
「何がですか」
「私の信仰が、本物かどうかが」
ヨハネスは、そう言った。
「安全な場所で持つ信仰は、信仰なのか。誰も奪おうとしないものを、抱いていると言えるのか。……私は、試されたことが、一度もなかったのです」
直也は、その言葉を、黙って聞いていた。
「だから、来ました」
ヨハネスは、そう言って、直也を見た。
「試される場所に。奪われる場所に。ここで、私が、捨てずにいられるなら、私の信仰は本物です。捨てるなら、偽物だった。それだけのことです」
その眼に、狂気はなかった。
そこにあったのは、極めて醒めた、静かな決意だった。
「…あなたを、捕らえます」
直也は、そう言った。
言わなければならなかった。この時代の法において、それ以外の選択肢は、形の上では、存在しない。
「はい」
ヨハネスは、頷いた。
そして、こう言った。
「ありがとうございます」




