第30話 観測と干渉―物理学者が持ち込んだ問いと関所の夜―
その夜。
直也は、久保田の部屋を訪ねた。
牢ではない。関所の奥の、客間として使っている部屋だ。この関所には、そもそも、まともな牢がない。小さな関所だからだ。
久保田は、灯りの下で、行李の中身を、一つずつ拭いていた。
その手つきが、丁寧だった。子どもを扱うような手つきだった。
「まだ起きておられましたか」
「器具が湿気を吸う。拭かないと、明日には駄目になる」
久保田は、顔を上げずに、そう答えた。
直也は、その向かいに座った。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。布が硝子を擦る、小さな音だけが、部屋に響いていた。
「先生」
直也が、先に口を開いた。
「その器具は、何を測るのですか」
久保田の手が、止まった。
「…この時代の、空気を」
「空気」
「正確には、空気の中に含まれるものを。二酸化炭素。塵。硫黄。金属。そういったものが、どれだけ含まれているか」
久保田は、そう言って、硝子の管を、灯りにかざした。
「私は、気候の研究をしていた。過去の気候がどうだったかを知るには、氷床のコアを掘るか、木の年輪を読むか、堆積物を調べるしかない。どれも、間接的な推定だ。誤差が出る」
久保田の声が、少しずつ、速くなっていった。
「だが、もし――もし、その時代に行って、直接、空気を採取できたら」
久保田は、直也を見た。
その眼が、また、あの異様な明るさを帯びていた。
「誤差がなくなる。推定ではなく、実測になる。産業革命以前の、真の基準値がわかる。それがわかれば、現代の変化の大きさが、正確に測れる」
「…それは、大事なことなのですね」
「大事だ」
久保田は、即答した。
「私の時代では、気候が壊れかけている。夏に人が死ぬ。作物が採れなくなる。海面が上がって、住めなくなる土地が出ている。それを止めるには、まず、どれだけ壊れたかを、正確に知らなければならない」
その言葉に、嘘の気配はなかった。
これまでの転移者たちとは、違う。Jacobは権力を、Shunyaは利益を、Claudeは美を求めていた。この男が求めているのは、数値だ。
「では、なぜ、隠されたのですか」
直也は、聞いた。
「隠す必要のない話に聞こえます」
久保田の顔が、曇った。
「…話せば、止められると思った」
「誰に」
「あなたに。あるいは、誰かに」
久保田は、硝子の管を、そっと置いた。
「私は、この時代に、何も持ち込んでいないつもりだった。何も売らない。何も教えない。何も変えない。ただ、空気を瓶に詰めて、持ち帰る。それだけだ」
「では、何が問題なのですか」
「観測は、干渉だ」
久保田は、そう言った。
「私が、そこに立っているだけで、その場所の空気は、私の呼気で汚れる。私が歩けば、土が動く。私が誰かと話せば、その人の一日が変わる」
久保田は、続けた。
「私は、この半年で、四つの宿に泊まった。二十人ほどと言葉を交わした。一人の子どもに、飴を買ってやった。……その飴が、その子の虫歯になるかもしれない。その虫歯で、その子が早く死ぬかもしれない。その子の子孫が、生まれなくなるかもしれない」
「先生」
「馬鹿げていると思うか」
「いいえ」
直也は、そう答えた。
「…思いません」
直也は、その言葉を、正直に言った。
「私も、同じことを考えてきました。少し、形は違いますが」
久保田が、顔を上げた。
「代官殿は、何を考えられた」
「私は、ここで、多くの旅人を通してきました」
直也は、そう言った。
「通す、というのは、何もしないことのように見えます。ですが、通した結果、何かが起きたら、それは私が通したから起きたのです。何もしないことは、何かをすることです」
「…そうだ」
久保田は、頷いた。
「そうなのだ。だから、私は、動けなくなった」
久保田は、両手を、膝の上に置いた。
「本当は、もっと多くの地点で採取するべきだった。だが、動けば動くほど、干渉が増える。だから、私は、必要な数の三分の一しか、採れていない。三分の一では、論文にならない。誤差が大きすぎる」
久保田は、そう言って、笑った。乾いた笑いだった。
「私は、干渉を恐れて、目的を果たせていない。ここに来た意味が、ほとんどない」
灯りが、細くなった。
直也は、油を足した。灯芯が、また明るくなった。
「先生」
直也は、そう呼びかけた。
「その飴を買ってもらった子どもは、喜びましたか」
久保田が、目を丸くした。
「…喜んだ」
「では、それでよいのではありませんか」
「それは、科学の話ではない」
「はい。科学の話ではありません」
直也は、頷いた。
「ですが、先生が気にしておられるのは、科学の話ではないでしょう。虫歯で死ぬかもしれない、子孫が生まれないかもしれない。それは、計算ではなく、恐れです」
久保田は、答えなかった。
「私は学者ではないので、先生の学問のことは、何もわかりません」
直也は、続けた。
「ですが、一つだけ、思うことがあります。先生は、干渉を恐れて動けなくなった。私は、判断を恐れて、判断しなくなった。……どちらも、恐れているだけで、責任を取ったことにはならないのではありませんか」
久保田は、しばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「…痛いところを突く」
「すみません」
「いや」
久保田は、首を振った。
「その通りだ。私は、恐れているだけだ。恐れることを、慎重さと呼び替えて、何もしていない」
久保田は、行李の中の、開けなかった包みを見た。
「これは、感光板だ。空気中の粒子を、写し取る。光を当てると、駄目になるというのは、本当だ」
久保田は、その包みに、手を置いた。
「あと三十地点。あと三十地点、採れれば、意味のある数になる。だが、三十地点動けば、私は、三十回、この時代に触れる」
「触れてください」
直也は、そう言った。
久保田が、顔を上げた。
「…なぜ」
「先生が触らなくても、この時代は、勝手に動きます」
直也は、そう言った。
「私は、ここで一年、旅人を見てきました。皆、何かを持ち込んで、何かを置いていきます。先生が三十回触れたところで、この時代は、そんなに壊れません。そんなに弱くありません」
直也は、続けた。
「そして、もし壊れたら、それは、通した私の責任です。先生の責任ではありません」
久保田は、長い間、直也を見つめていた。
「代官殿は、それを背負うのか」
「背負う、というほど、立派なものではありません」
直也は、そう答えた。
「ただ、通した以上、その先で何が起きても、私は知らんとは言わない。それだけです」
翌朝。
久保田は、行李を背負って、関所の前に立った。
田中が、往来手形に、通行の印を押した。
「久保田玄斎どの。京より、天文の学」
田中が、そう読み上げた。
直也は、その横で、頷いた。
「行ってらっしゃい」
「…世話になった」
久保田は、そう言って、頭を下げた。
そして、歩き出す前に、一度だけ振り返った。
「代官殿。一つ、聞かせてほしい」
「はい」
「あなたは、この時代の人間ではないな」
田中と山本が、動きを止めた。
直也は、少しだけ考えて、答えた。
「往来手形は、ございませんが」
「ないだろうな」
久保田は、笑った。
「なら、あなたも、干渉している側だ。同じだな」
「そうですね」
直也も、笑った。
「同じです」
久保田は、朝の道を、歩いていった。
その背中は、来た時よりも、少しだけ、軽く見えた。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
「久保田玄斎 京 天文の学 通行」
そう書いた。
偽名ではない。本人が、この時代で名乗った名だ。今回だけは、直也は、名を作らなかった。
弥生が、茶を持ってきた。
「代官さま。今日は、早くお休みになった方が」
「そうだな」
直也は、そう言って、筆を置いた。
「弥生」
「はい」
「飴を買ってもらった子どもは、喜ぶと思うか」
「…なんですか、それ」
弥生が、けげんな顔をした。
「喜ぶに決まってるじゃないですか。子どもですよ」
「そうか」
直也は、頷いた。
「そうだな」
その夜、直也は、久しぶりに、よく眠った。




