第29話 行李の中身―旅の学者が運ぶ見慣れぬ器具―
時田大蔵が去ってから、半月ほどが過ぎた。
その半月は、関所にとって、珍しく穏やかな日々だった。旅人は来る。だが、その旅人たちは、皆、この江戸時代に生まれ、この江戸時代で暮らし、この江戸時代の道を歩いている者たちだった。
直也は、その穏やかさに、少しだけ安堵していた。
「代官さま」
朝、弥生が茶を運んできた。その茶碗の縁が、わずかに欠けている。
「これ、欠けてますよ」
「知ってる。だが、口をつける側は欠けていない。だから使える」
「代官さまは、そういうところが、変わっておられます」
弥生は、そう言って笑った。
田中が、帳面をめくりながら、口を挟んだ。
「代官殿。今月は、七人。全員、地元の者でございます」
「そうか」
「…珍しいことです」
田中の声には、わずかな安堵と、わずかな不安が混じっていた。
その不安が何であるのか、直也にはわかった。
嵐の前の静けさ、という言葉が、この時代にもある。
午前十時。
一人の旅人が、関所の前に立った。
年の頃は、四十半ば。痩せている。頬がこけ、目の下に濃い隈がある。だが、その眼だけは、異様に明るい。何かに没頭している人間の眼だ。
背には、大きな行李を背負っている。その行李が、重い。男の痩せた背中に対して、明らかに重すぎる。歩くたびに、行李の中で、何かがぶつかる音がする。
金属と、硝子の音だ。
江戸時代の旅人の荷物から、この音はしない。
「通行を願う。急ぐ」
その男は、そう言って、往来手形を差し出した。声は早口だった。
直也は、手形を受け取った。
手形は、整っている。京の学問所の印がある。名は「久保田玄斎」。医者か、あるいは本草学者を思わせる名だ。
「久保田先生。…お医者さまですか」
「学者だ。医もやるが、本業ではない」
「ご本業は」
「観測だ」
その男は、即座にそう答えた。そして、答えた直後に、わずかに口を閉じた。
直也は、その一瞬の閉口に気づいた。
「観測。…何を観測されるのですか」
「…星だ。天文だ」
「天文。それは、ご立派な学問です」
直也は、頷いた。
天文は、確かに、この時代にある学問だ。暦を作るために、幕府も天文方を置いている。だから、「天文の学者」という身分は、この時代に矛盾しない。
だが、直也は、その行李を見ていた。
「その行李、重そうですな。運ぶのを手伝わせましょうか」
「いや、結構」
その返答は、あまりに速かった。
「触られると困る。中の器具は、繊細でな。ずれると、較正がやり直しになる」
較正。
直也は、その言葉を、頭の中で繰り返した。
較正。江戸時代の学者は、その言葉を使わない。この時代の学者であれば、「狂う」「合わなくなる」と言うはずだ。「較正」は、器械が数値を示すことを前提とした言葉だ。数値を示す器械が、この時代には、ほとんど存在しない。
「較正、と申されましたか」
直也は、聞き返した。
その男の顔が、一瞬、止まった。
「…目盛りを合わせ直すことだ。異国の言葉を、そのまま日本語に写した」
「なるほど。蘭学ですか」
「そうだ」
その返答も、速かった。
蘭学であれば、辻褄は合う。オランダ由来の器械であれば、この時代にも、少数だが存在する。望遠鏡もある。
だから、直也は、それ以上は追わなかった。
代わりに、別の場所を見た。
その男の、手だ。
指先に、細かい傷が無数にある。それは、刃物の傷ではない。硝子で切った傷だ。そして、爪の際が、薄く黒い。煤ではない。もっと均一な、粉のような黒だ。
「先生。その手は」
「実験で焼いた。よくあることだ」
「では、その爪の黒いのは」
「…薬品だ」
「何という薬品ですか」
「…」
その男は、答えなかった。
沈黙が、関所の前に落ちた。
田中が、直也の横で、わずかに身構えたのがわかった。
「星を観るのに、薬品を使いますか」
直也は、静かに聞いた。
「使うこともある」
「では、どのように」
「…」
再び、沈黙だ。
直也は、その男の目を見た。
その男は、目を逸らさなかった。逸らさないが、瞬きが増えている。頭の中で、何かを組み立てようとしている顔だ。嘘を、その場で作ろうとしている顔だ。
「先生。奥へどうぞ」
直也は、そう言った。
「なぜだ。手形に不備はないはずだ」
「不備はありません。ですが、荷を検めるのは、関所の役目です」
「中を開けるのか」
その男の声が、初めて、鋭くなった。
「開けさせない」
「開けます」
直也は、静かに答えた。
「ですが、私が開けるのではなく、先生ご自身に開けていただきます。中の物が繊細なら、扱いを知る者が触るのが道理でしょう」
その男は、直也を見つめた。
その眼から、鋭さが、少しずつ抜けていった。
「…わかった」
その男は、そう言って、行李を降ろした。
関所の奥。
行李の紐が解かれた。
蓋が開く。
中には、綿と、油紙で、丁寧に包まれた物が、いくつも詰まっていた。その包み方が、異様に丁寧だ。旅の荷ではなく、輸送のための梱包だ。
その男は、一つずつ、包みを解いていった。
出てきたのは、硝子の管だった。細く、長い。両端が、金属の口金で塞がれている。その金属は、鉄でも銅でもない、灰色の、鈍く光る金属だ。
次に出てきたのは、木の箱だった。表面に、目盛りが刻まれている。その目盛りは、江戸時代の尺貫法ではない。等間隔に刻まれた、まったく別の体系の目盛りだ。
そして、最後に、その男は、一つの包みを、解かなかった。
「これは、開けたくない」
「なぜですか」
「…光を当てると、駄目になる」
田中と山本が、顔を見合わせた。
直也は、その包みを見つめた。
「先生」
直也は、そう呼びかけた。
「星を観る器具は、光を集めるものです。光を当てると駄目になる器具は、星を観る器具ではありません」
その男は、動かなかった。
「先生のご本業は、天文ではありませんね」
「…」
「先生は、どちらから、いらっしゃいましたか」
長い沈黙があった。
その沈黙の間に、山本が茶を運んできた。その茶を、その男は、両手で受け取った。その受け取り方が、丁寧だった。
その男は、茶を一口飲んだ。そして、湯呑みを、両手で包んだまま、口を開いた。
「…令和だ」
その男は、そう言った。
「令和七年の、日本の、大学の研究室から来た。名は、久保田で合っている。玄斎は、こちらに合わせて付けた」
その男は、そう言って、湯呑みを置いた。
「私は、物理学者だ」




