第28話 現在と浮遊―時間旅行者が問う今この瞬間の重さ―
その男を逮捕してから、直也は、その夜、眠ることができなかったます。
時間を旅する者。その概念が、直也の心に、深く突き刺さっていました。
その男は、「いつの時代にも属さない」のです。その「属さなさ」は、直也の「何者でもなさ」と、極めて類似していました。
その夜、直也は、その男のもとを訪ねることにしました。
その男は、窓際に座って、月を見つめていました。その姿勢は、これまでの転移者たちと同じだ。だが、その背中には、「時間的な浮遊」が感じられました。
「眠れませんか」
直也は、聞きました。
「眠れない。眠りたくない。ここで眠ることは『この瞬間を失う』ことになる」
その男は、そう答えました。
「…あなたはどこから来たのですか」
直也は、聞きました。
「…明治時代から。より正確には『明治20年代から』です」
その男は、答えました。
「我は『その時代で、何かを失った』。その何かを求めて『他の時代を旅している』。だが『その何かが何であるのか』『どこにあるのか』『本当に存在するのか』。その全てが、わかりません」
その男の言葉は、深い喪失感を伴っていました。
「…その何かは『見つかりましたか』」
「…見つからない。『見つかるはずがない』。なぜなら『その何か』は『時間的に存在しない』からです」
その男は、その言葉を述べました。
「我は『明治時代を失った』。だから『その失った時代を求めて旅をしている』。ですが『時間は一方向に流れる』。『失われた時間は、二度と戻らない』。だから『その何かは、永遠に見つからない』」
その男の言葉は、「時間の不可逆性」を示していました。
「…では、あなたはなぜ旅を続けるのですか」
直也は、その問いを発しました。
「…旅を止めると『失った時間を受け入れる』ことになるから。『旅を続ける』ことで『失った時間を否定し続ける』ことができるから」
その男の答えは、極めて苦しみに満ちていました。
「…あなたは『この江戸時代に留まる』つもりですか」
「…わかりません」
その男は、答えました。
「『この江戸時代に留まる』ことは『明治時代を完全に失う』ことになる。『別の時代へ旅する』ことは『この江戸時代を失う』ことになる。『どちらを選んでも、我は失う』」
その男の言葉は、「時間的な無限の喪失」を示していました。
その時点で、直也は、気づきました。
この男は、「直也と同じ立場」にいるのです。「現在という瞬間の中に留まり続ける者」として。だが、この男は「その現在を失い続けている」のです。
「…あなたを逮捕することは『正しい』のですか」
直也は、その問いを自分自身に向けました。
「…あなたを逮捕することは『あなたを一つの時代に留める』ことになります。ですが、あなたは『時間を旅する者』です。あなたを『一つの時代に留める』ことは『あなた自身を否定する』ことになります」
直也は、その言葉を述べました。
「だから、あなたを通します」
直也は、最後に、その言葉を口にしました。
「…わかりました」
その男は、素直に、その判断を受け入れました。
「だが『一つだけ聞きたい』」
その男は、その言葉を続けました。
「あなたは『今この瞬間』を『どのように感じていますか』」
その問いは、直也の心を揺さぶりました。
「…今この瞬間」
直也は、その言葉を繰り返しました。
「…わかりません」
直也は、最後に、その言葉を口にしました。
「我は『今この瞬間』を『感じている』のか『感じていない』のか。『存在している』のか『浮遊している』のか。その全てが『わかりません』」
その時点で、その男は、静かに笑いました。
「…そうですか」
その男は、そう言いました。
「あなたも『時間的に浮遊している』のですね。『代官という身分を持ちながら』『何者でもない者として』『現在という瞬間に浮遊している』。…それは『我と同じ』です」
その日の昼。
その男は、許可証を手に、関所を通った。
その時、その男は、直也に一言だけ言った。
「『今この瞬間』を『完全に感じることは不可能』です。なぜなら『感じた瞬間に、その瞬間は過去になる』からです。『今この瞬間』は『常に喪失し続ける』のです。あなたの『苦しみ』も『その喪失の苦しみ』なのです」
直也は、その言葉に、何も返さなかった。ただ、その男の背中を見送った。
その男は、昼間の光の中を、去っていった。その背中は、「時間を旅し続ける者」の背中のように見えた。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
その中に、その男の名前を書くことにしました。「時田大蔵」。その名前で。
その男という本人の名前を、「時田大蔵」という別の名前で、江戸時代の記録に残すのだ。
直也は、その夜、月を見つめていました。
江戸時代の月だ。
直也は、その時、気づきました。
自分は『今この瞬間』を『完全に感じることができない者』として、この江戸時代に立ち続けているのだ。
『感じた瞬間に、その瞬間は過去になる』という時間の不可逆性の中で、直也は、『常に喪失し続ける』のです。
その『喪失の苦しみ』こそが、直也の『責任の形式』なのです。
だが、その『責任の形式』も、実は『虚構』かもしれません。
その矛盾と葛藤の中で、直也は、『今この瞬間』を『感じながら喪失し続ける』ことになるでしょう。




