第22話 判断と政治―妻が見つめた代官の立場の価値―
妻の正体を知った後、直也は、その夜、眠ることができなかった。
妻が、この江戸時代に来ているのだ。妻が、内閣総理大臣であるのだ。妻が、「あなたの判断を観察する」ために、この関所に来たのだ。
その事実は、直也の心を完全に揺さぶっていました。
その夜、直也は、妻のもとを訪ねることにしました。
妻は、窓際に座って、月を見つめていました。その姿勢は、これまでの転移者たちと同じだ。だが、その背中には、「政治家としての気概」が感じられました。
「眠れませんか」
直也は、聞きました。
「眠れない。眠りたくない。ここで眠ることは、観察を放棄することになる」
妻は、そう答えました。
「…なぜ、あなたが、この江戸時代に」
直也は、その問いを発しました。
「あなたを見るためです」
妻は、素直に答えました。
「21世紀の日本で、あなたは『何もしない者』でした。40代のニート。何の成果も上げていない。何の貢献もしていない。だが、この江戸時代では、あなたは『判断を下す立場』に立たされた。その立場で、あなたが『何をするのか』。それを知りたかった」
妻の言葉は、深い。その深さは、「妻としての感情」と「政治家としての分析」の両方を含んでいました。
「…あなたは、政治家です」
直也は、その言葉を述べました。
「政治家は『判断を下す者』です。その判断が『正しい』のか『間違っている』のか。その判断により『多くの人間が影響を受ける』のです。…ですが、あなたは『判断を放棄している』」
妻は、続けました。
「あなたは『転移者たちを見守っている』と言っている。だが、その『見守る』ことは『判断を放棄する』ことなのです。その『放棄』により『悪も許している』のです」
妻の指摘は、直也に、深い傷をもたらしました。
「…政治家は『判断を放棄する』ことができません」
妻は、その言葉を続けました。
「政治家は『判断を下す』ことが『義務』です。その『判断』が『正しいのか間違っているのか』は『後の歴史』が証明する。だが、『判断を放棄する』ことは『政治家ではない』ことを意味するのです」
「…では、我は『政治家ではない』のですか」
直也は、その問いを発しました。
「そうです」
妻は、素直に答えました。
「あなたは『政治家』ではなく『見守る者』です。その『見守る者』という立場は『政治的な立場』ではなく『宗教的な立場』に近い。『すべてを受け入れる』『すべてを許す』『すべてを見守る』という立場」
妻は、その言葉を続けました。
「だが、その『見守る者』という立場には『価値』がある」
その時点で、直也は、妻の言葉に注目しました。
「『価値がある』。…どのような価値ですか」
「政治家は『判断を下す』ことで『苦しむ』。なぜなら『その判断により誰かが傷つく』ことを知っているから。だが『見守る者』は『苦しまない』。『判断を放棄している』から」
妻は、その言葉を述べました。
「ですが、あなたが『苦しんでいる』のを見ました。田代義久が来た後、あなたは『苦しんでいた』。『判断を放棄しながら悪を許すことの苦しみ』を感じていた」
妻は、その言葉を続けました。
「その『苦しみ』こそが『重要』なのです。『見守る者』でありながら『苦しむ』ことができる者は『政治家より尊い』」
「…なぜですか」
「なぜなら『完全に判断を放棄した者』は『無責任』です。だが『判断を放棄しながら苦しむ者』は『その苦しみで責任を負っている』。『判断という形式ではなく苦しみという形式で責任を負っている』」
妻の言葉は、深い哲学を含んでいました。
「…では、あなたを逮捕しますか」
直也は、その問いを発しました。
「…いいえ」
妻は、穏やかに答えました。
「あなたを逮捕することは『見守る者としての立場を奪う』ことになる。その『立場』を奪うべきではない。その『立場』には『苦しみを通じた責任』が含まれているから」
その時点で、直也は、気づきました。
妻は、直也の『判断を放棄する立場』を『政治家的判断』よりも『尊い』と評価しているのです。
「…あなたを通します」
直也は、最後に、その言葉を口にしました。
「…わかりました」
妻は、その言葉を受け入れました。
「だが『一つだけ約束してください』」
妻は、その言葉を続けました。
「『苦しんでください』。『判断を放棄しながら苦しむ』というあなたの立場を『忘れないでください』。その『苦しみ』こそが『あなたの責任の形式』なのです」
その日の昼。
妻は、許可証を手に、関所を通った。
その時、妻は、直也に一言だけ言いました。
「あなたの『判断を放棄する立場』は『見守る者の立場』です。その『見守る』ことの中には『苦しみを通じた責任』がある。その『責任』を『忘れないでください』」
直也は、その言葉に、何も返さなかった。ただ、妻の背中を見送った。
妻は、昼間の光の中を、去っていった。その背中は、「政治家から見守る者へと転換した者」の背中のように見えた。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
その中に、妻の名前を書くことにしました。「佐藤恵子」。その名前で。
妻という本人の名前を、「佐藤恵子」という別の名前で、江戸時代の記録に残すのだ。
直也は、その夜、月を見つめていました。
江戸時代の月だ。
直也は、その時、気づきました。
自分は、『判断を放棄した者』として、『見守る者』として、この江戸時代に立ち続けているのだ。
その『見守る』ことの中には『苦しみを通じた責任』がある。
その『責任』を、直也は、引き受けることにしました。
『判断を下さないこと』という形式ではなく『苦しむこと』という形式で、その『責任』を、直也は、引き受けることにしました。




