第20話 商売と正義―代官が初めて下した確信的判断の意味―
田代義久を逮捕してから、直也は、その夜、眠ることができなかった。
これまでの転移者たちとは異なり、この男に対して、直也は、「確信を持って」逮捕を決定したのです。
その「確信」は、何に由来するのか。
直也は、その問いに、答えを見つけることができませんでした。
その夜、直也は、田代義久のもとを訪ねることにした。
田代義久は、窓際に座って、月を見つめていた。その姿勢は、これまでの転移者たちと同じだ。だが、その背中には、「不遜さ」が感じられた。
「眠れませんか」
直也は、聞いた。
「眠れない。眠りたくない。ここで眠ることは、我の計画を放棄することになる」
田代義久は、そう答えた。
「…あなたを逮捕したことは、正しかったのか、わかりません」
直也は、その言葉を述べた。
「…なぜですか」
田代義久は、穏やかに聞いた。
「なぜなら、これまで、我は『判断を放棄する』ことで、転移者たちを『見守ってきた』からです。だが、あなたの場合、我は『判断を下した』。その『判断を下す』という行為は、『判断を放棄する』という立場と矛盾しているのではないか」
直也は、その言葉を続けた。
「…あなたが『人身売買は悪い』と判断する根拠は何ですか」
その問いに対して、田代義久は、長く沈黙した。その沈黙は、直也に、ある種の不安をもたらした。
「…答えてください」
直也は、続けた。
「あなたが『人身売買は悪い』と判断する根拠は、何ですか」
「…人間が、苦しむから」
直也は、最後に、その言葉を口にした。
「人身売買により、多くの人間が、苦しむ。その苦しみは、『悪い』ものだ。だから、『人身売買は悪い』と判断する」
その時点で、田代義久は、口を開いた。
「…その根拠は、十分ですか」
田代義久は、その問いを発した。
「『人間が苦しむから、悪い』。…その判断は、『普遍的』ですか。それとも『相対的』ですか」
その問いは、直也の心を揺るがした。
「…何が言いたいのですか」
「簡単です。あなたは、『判断を放棄する』ことを『見守る』ことだと言いました。『判断できないこと』を『正直に認める』ことだと言いました。『相手の自由を尊重する』ことだと言いました」
田代義久は、その言葉を続けた。
「だが、『人身売買は悪い』という判断は、『普遍的』な判断なのですか。それとも『相対的』な判断なのですか」
「…」
直也は、答えられなかった。
「答えてください」
田代義久は、続けた。
「あなたが『人身売買は悪い』と判断する根拠が『人間が苦しむから』であれば、その判断は『相対的』です。なぜなら、『苦しみ』という概念そのものが、『相対的』だからです。我にとって、『苦しむ人間たち』は、単なる『商品』に過ぎません。その『商品』から利益を得ることに、我は『喜び』を感じます。その『喜び』と、彼らの『苦しみ』は、『相対的』に計量されるべきものなのです」
その言葉は、極めて冷徹だ。その冷徹さは、「人間の苦しみを無視する冷徹さ」だ。
「…あなたは『人間の苦しみ』を『商品の価値』と同じレベルで計量している」
直也は、その言葉を述べた。
「その計量は、『人間を人間として扱わない』ことを意味します。その『人間を人間として扱わない』という行為は、『悪い』ものです」
「…その根拠は」
田代義久は、続けた。
「あなたが『人間を人間として扱う』ことが『正しい』と判断する根拠は、何ですか」
その問いに対して、直也は、答えを見つけることができませんでした。
直也の「判断」は、確かに、「根拠のない判断」だったのです。
「…わかりました。あなたを『見守ります』」
直也は、最後に、その言葉を口にしました。
「…なぜですか」
田代義久は、穏やかに聞いた。
「なぜなら、あなたも、『判断を持つ者』だからです。あなたは『人身売買は商売である』と判断する。その判断は『あなた自身の判断』です。あなたと我の違いは、『判断の内容』ではなく、『判断を下す者の本質』の違いなのです」
直也は、その言葉を述べた。
「あなたは『苦しみを軽視する者』であり、我は『苦しみを重視する者』です。その違いは『相対的』です。『普遍的な正義』ではなく、『相対的な判断』の違いなのです。だから、我は、あなたを『逮捕する権利』を持たない。あなたの『判断』を『見守る』ことしかできない」
その時点で、田代義久は、静かに笑った。
「…わかりました。あなたは、本当に『判断を放棄した者』なのですね。その放棄の中では、『善悪』すら『相対的』になってしまう」
田代義久は、そう言った。
「…ですが、それは『見守る』ことではなく、『悪を許す』ことではありませんか」
その問いに対して、直也は、答えることができませんでした。
その日の昼。
田代義久は、許可証を手に、関所を通った。
その時、田代義久は、直也に一言だけ言った。
「あなたの『判断を放棄する』という立場は、『見守る』ことではなく、『悪を許す』ことになり得ます。その『悪を許す』ことの責任を、あなたは、持つのですか」
直也は、その言葉に、何も返さなかった。ただ、田代義久の背中を見送った。
田代義久は、昼間の光の中を、去っていった。その背中は、『奴隷売買』の新しい時代を切り開く背中のように見えた。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
その中に、田代義久の名前を書くことにした。「高林二郎」。その名前で。
田代義久という本名を、「高林二郎」という別の名前で、江戸時代の記録に残すのだ。
だが、その手は、震えていました。
直也は、その夜、月を見つめていた。
江戸時代の月だ。
直也は、その時、気づいた。
自分は、『判断を放棄した者』として、『見守る者』として、この江戸時代に立ち続けているのだ。
だが、その『見守る』ことの中には、『悪を許す』ことも含まれているのではないか。
その『悪を許す』ことの責任を、自分は、どのように引き受けるのか。
直也は、その問いに、答えることができませんでした。




