第2話 夜陰―共産国の元主導者、本当の姿を見つめて―
その夜、直也は眠れなかった。
障子越しに、月明かりが漏れている。江戸時代の夜は、不規則だ。明かりがない。月と星だけが、唯一の照明だ。その中で、人間たちの営みは、ごく限定的になる。
直也は、関所の番人小屋で、座ったままだった。目を瞑っていたが、寝てはいない。その頭の中には、昼間に出会った商人の姿が、ずっと浮かんでいた。
共産主義者。東欧の政権の責任者だった者。
その男が、なぜ江戸時代に来たのか。その答えは、簡潔だった。「理想の世界を作りたかった」。それだけだ。
が、それだけでいいのか。直也は、その問いを抱え続けていた。
40歳まで、自分の親のもとでゲームをしていた男が、いきなり代官になって、100年以上昔の政治体制から逃げてきた者を、通す。その決定は、本当に正しかったのか。
その時だった。
関所の番所の外で、物音がした。
直也の耳は、その音を捉えた。人間の足音。複数ではなく、一人。靴ではなく、足袋のような柔らかい音。つまり、日本人だ。だが、その足音の速さ、リズムに、奇妙な点がある。
忍び足だ。
直也は、すぐに起き上がった。外に出た。夜の空気が頬を撫でた。
関所の中庭に、人影があった。
その人影は、共産国の元主導者だった。男は、昼間に着ていた上質な着物を脱いで、より地味な旅人の格好に変えていた。背に、小さな荷物をしょっている。絹の箱ではなく、行商人が持つような、竹製の背負い籠だ。
「あ…」
男は、直也の姿を見て、足を止めた。その表情に、驚きが浮かぶ。そして、その驚きの後に、複雑な感情が浮かぶ。決意、恐怖、そして、ほんのわずかな安堵。
直也は、そのまま、男に歩み寄った。
「夜間に出発するんですね」
直也の口から出た言葉は、咎めるようなものではなく、ただの観察だった。
男は、少し緊張しながら、答えた。
「昼間は、危ないと判断しました。許可をいただいたから、自由に行き来できるわけではなく、目立つことは避けたい。夜間なら、誰も見ていない。関所を通った記録は残りますが、その後の行動は、秘密のままでいられる」
「なるほど。理に適っています」
直也は、男の周辺を見回った。本当に、何も異常がない。男は、完璧に、忍び足で関所を抜けようとしていた。それは、彼が、ただの商人ではなく、何らかの訓練を受けた人間であることを示していた。
「あなた、商人じゃなかったんですね」
「ええ。政治家です。政治活動というのは、本質的には、秘密裏に行動することが多い。身を隠す方法も、知っています」
男は、その言葉と同時に、直也を見つめた。その眼差しは、鋭かった。政治家としての眼差しだ。相手の考えを読み取ろうとする眼差しだ。
「あなたは、なぜ、僕を通したんですか」
その問いに、直也は、一瞬、答えが出なかった。
なぜ、自分は、その男を通したのか。許可証があったから?それだけなら、昼間に確認した時点で、通すべきだった。だが、自分は、あえて問い詰めた。正体を暴いた。その上で、「通す」という決定をした。
それは、なぜか。
直也は、座った。夜露で冷えた地面に、そのまま座った。男も、その隣に座った。
「…わかりません」
直也は、素直に答えた。
「正体を知ったら、通すなんて、普通、しませんよね。代官なら、もっと問い詰めるだろう。あるいは、逮捕だって、できた。でも、それは、この時代では何の意味もない。あなたは、何かの罪人じゃない。ただ、この時代に迷い込んだ者。別の時間から来た者。それだけだ。だから…」
直也は、また言葉を探していた。
「だから、通した。別に根拠はない。ただの、気まぐれかもしれません」
男は、静かに笑った。その笑顔は、苦い笑みだった。
「気まぐれですか。…そう。それで、いいのかもしれない。人生なんて、大抵は気まぐれの積み重ねだ。それでいて、その気まぐれが、世界を変えることもある。僕の政治活動も、結局は、気まぐれだった。一つの理想を追い求めて、何百万人の人生を変えた。それは、気まぐれでした。」
男の言葉は、重かった。その中には、後悔が、深く刻まれていた。
「…後悔していますか」
直也の問いに、男は、長く沈黙した。その沈黙の時間は、かなり長かった。星々が、その沈黙の中で、ゆっくりと移動していった。
「後悔と、後悔ではない感情が、混在しています。理想は、正しかったと思う。が、その理想の実現の過程で、失われたものが、あまりに多かった。それを思うと、後悔する。だが、同時に、その理想がなければ、ここにもいなかった。それは、後悔とは違う」
「そうですか…」
直也は、その言葉を、そのまま受け入れた。理解したわけではなく、ただ受け入れた。
「あなたは、若い」
男が、直也を見つめた。
「まだ、40歳。政治家としては、若い。代官としても、経験が足りないはずだ。でも、その眼をしている」
「何の眼ですか」
「人間を、ありのままに見つめる眼。正義も悪も、理想も現実も、そうした対比の中で、人間を見ない眼。ただ、その人間が何であるか、それだけを見つめる眼。…僕は、それを持っていなかった。だから、失敗した」
男は、立ち上がった。
「ありがとう。あなたのそれい眼が、僕を通してくれた。そのことを、忘れません。もし、この江戸時代で、何かを作るなら、あなたのようなありのままの眼を、大事にしたいと思う」
「何を作るんですか」
直也は、立ち上がりながら、聞いた。
「わかりません。今は、逃げることが、精一杯です。だが、いつか、何かを作るでしょう。理想ではなく、現実の中の、小さな幸せ。それを、作ってみたいと思う」
男は、背負い籠を握った。
「では、行きます」
「…待ってください」
直也は、思わず、呼び止めた。
「あなた、名前は」
男は、少し笑った。
「ここでは、何でもいいでしょう。新しい名前をつけてもいい。でも、昔の名前は…」
男は、何か言いかけて、やめた。
「…言わない方が、いいでしょう。あなたも、昔の世界の記録から消したはずだから」
直也は、その言葉の意味を理解した。そのとおりだ。自分は、その男の記録を、関所帳には書かなかった。単に「通行許可」とだけ書いた。そこに名前はない。
つまり、その男は、公式には、この関所を通っていないのだ。
「わかりました。では、お疲れ様でした」
直也は、そう言って、その男に背を向けた。
男は、夜の中を、静かに歩き去った。その足音は、だんだん遠くなっていった。
そして、いつの間にか、完全に消えた。
明け方、直也は、まだ関所にいた。
部屋に戻ることなく、その場に座ったまま、朝焼けを待っていた。空が、ゆっくりと、黒から紫に、紫から赤に、赤から白に変わっていった。
朝の光が、関所を照らした時、弥生が、直也を見つけた。
「代官殿。…夜通し、ここにいたのですか」
直也は、弥生の声に気づいて、起き上がった。体中が痛かった。年をとった。江戸時代に来て、さらに年をとった。
「昨晩、関所を通った者がいるかどうか、確認していた」
直也は、嘘をついた。完璧な嘘ではなく、部分的な真実を混ぜた嘘だ。
「いいえ。昨晩は、誰も通りませんでした」
弥生は、首をかしげた。
「そうですか。では、気のせいですね」
直也は、その嘘に頷いた。
その朝、直也は、関所帳を確認した。共産国の元主導者の記録は、そこに存在しなかった。つまり、その男は、公式には、この関所を通っていないのだ。
だが、直也は知っている。その男は、確かに、この関所を通った。そして、その後、去った。
その足跡は、記録には残らない。だが、直也の記憶には、鮮明に残っている。
直也は、その時、何かに気づいた。
自分は、この江戸時代で、何かを始めようとしているのだ。
転移者たちと、この江戸の秩序の間に、何かの橋を架けようとしているのだ。
それが何であるか、自分自身、完全には理解していない。だが、その道の上を、自分は歩み始めているのだ。
午後になると、また旅人が来た。
今度は、若い武士だ。年は20代。顔に傷がある。その傷は、最近のものではなく、古い傷だ。刀の傷か。何らかの戦闘の痕跡だ。
「通行を願う」
その武士は、許可証を出した。許可証は、あるが、その印鑑が、奇妙だ。その印鑑は、江戸時代の代官のものではなく、もっと古い、戦国時代のものに見える。
直也は、その許可証を眺めた。
「これは…」
直也の目は、その許可証の矛盾に、すぐに気づいた。江戸時代は、関所の制度が統一されている。だが、この許可証は、その統一された制度に、合致していない。
「この許可証、いつのものですか」
「…」
武士は、答えなかった。その代わりに、その手が、刀の柄に触れた。警戒の色が、その瞳に浮かぶ。
直也は、その時点で、その武士もまた、転移者であることを確信していた。
「いらっしゃい」
直也は、そう言って、その武士を、関所の奥に案内した。
新しいエピソードが、始まろうとしていた。
直也は、その武士を見つめながら、思った。
今日から、これが、自分の日常になるのだ。秘密を持った者たちが、次々とやってくる。その秘密を暴く。その秘密を暴いた上で、通す。
それが、40代ニートから江戸時代の代官になった、間宮直也の、新しい人生だ。




