第1話 目覚め―40代ニートのはずが代官になっていた―
昨日の記憶がない。
目が覚めたのは、木の柱に触れた感触からだった。冷たく、古い。自分の掌が触れている柱は、和室の、それも相当に年季の入った木だ。畳の匂いがする。ただし、新しい畳ではない。古い、土っぽい香りだ。
名前は間宮直也。40歳。自称フリーランス、実質ニート。3年間、実家に住み着いて、親からの仕送りで暮らしている。昨日も朝から夜中までゲームをしていたはずなのに、どうしてこんなところに――。
「代官殿、朝のお時間です」
声が飛び込んできた。女性の声。若い。雑賀弥生という名前が、誰かから聞いた記憶が、直也の脳裏に浮かんでくる。不思議と、その名前と顔が一致している。関所の女中だ。そう脳が告げている。
直也は起き上がった。枕は高く、布団は厚く、素材は木綿だ。20世紀のものではない。間違いなく、江戸時代の寝具だ。
「ああ。…朝か」
返事をすると、弥生は障子を開けた。夜明けの光が差し込む。窓の向こうに見えるのは、田畑だ。遠くに、山の輪郭が見える。空気が違う。匂いが違う。すべてが違う。
「本日も、多くの旅人が関所に立ち寄るでしょう。早めにご飯をお済ましください」
弥生の声は職業的で優しい。これが彼女の日常なのだ。毎日こうやって、代官を起こす。代官とは誰か。その答えも、脳裏に浮かぶ。
それは、自分だ。
間宮直也は、確認した。関所帳をめくり、自分の名前を見つけた。
「間宮直也 享年40 江戸中期 甲州街道脇の関所代官」
記録は完全だった。着任は3年前。それ以前の履歴はない。あるはずがない。昨日までは現代日本にいたのだから。
馬鹿らしい。こんなことあるはずがない。だが、関所の役人たちは、自分を代官として接している。弥生は、朝食を出すときも敬語を使っている。台所の者たちも、そうだ。
「どうなってんだ…」
呟きながら、直也は目の前の朝食――粥と漬物と味噌汁――に箸をつけた。味は、確かに本物だ。こんなのシミュレーションではない。仮想空間ではない。すべてが、疑いようもなく、現実の江戸時代だ。
まず何をすべきか。パニックになるのは簡単だが、それは後だ。今は、状況を理解することだ。自分は、どういうわけか、江戸時代の関所代官になっている。30代までゲーム漬けだった男が、いきなり地方官吏だ。
だが、その時点で直也に、一つの利点があった。彼は、実は相当な観察眼を持っていた。
ゲームの中で、彼は細部にこだわる人間だった。NPCの会話の矛盾を探す。ストーリーの穴を見つける。キャラクターの行動パターンを分析する。それは、現実を観察する眼でもあった。
朝食を済ませた直也は、関所の中を歩いた。
甲州街道の関所。そこまで大きくはない。役人は4人。女中が2人。その他、雑務をこなす者が数人。規模としては、中程度の関所だ。
「今日の旅人の予定は?」と直也は役人の田中に聞いた。
「さあ、代官殿。朝の時点では、まだ何も報告はありませんが、朝のこの時間帯、大抵は商人や行商人が関所に立ち寄ります。本日も、その程度でしょう」
田中は、5年来この関所にいるベテランだ。その頭の中には、関所の日常が入っている。幸いなことに、直也はその日常を知っていた。いや、脳に刻み込まれていた。
不思議なことに、直也は、間宮直也という身体を手に入れると同時に、その人物に関するすべての記憶を手に入れていた。関所の配置、役人の名前と顔、書類の管理方法。すべてが、自分の記憶のように存在していた。
つまり、自分は、その時点で「間宮直也」という人格を完全に背負っていたのだ。
昨日まで「直也」というニートが、今日から「代官間宮直也」になった。その転換は、見事なくらい完璧だった。
直也は、関所の片隅に座る木の椅子に腰を下ろした。そこから、関所の入口を見守ることができる。行き交う旅人たちを観察することができる。
午前11時を少し過ぎたころ、最初の旅人がやってきた。
商人だ。40代か、50代か。顔に皺が刻まれ、髭も濃い。着物は良いものだ。絹か、上質な木綿か。色は紺。帯も地厚で、上品だ。足元の草履も新しい。
「関所の通行です」
商人の男は、関所を通す許可証を取り出した。紙質も良く、判も複数押されている。商家の印鑑、地域の代官のサイン、そして――直也の前任者の署名。
田中が、確認した。
「ご商売ですな」
「はい。江戸から駿河方面へ、商品を運んでおります。毎月この時期は、この道を通っています」
男の返答は丁寧だが、自然だ。見た感じは、よくある商人だ。ただし……。
直也は、男の言葉遣いに注目していた。
「江戸から駿河方面へ」という言い方。正しい。「この時期は」という表現も、正しい。「商品を運んでおります」という敬語の使い方も、不自然ではない。
が、何かが引っかかる。
耳を澄ますと、その男の「は」の発音が、少し奇妙だ。現代日本語でいえば、「ハ」行の音が、わずかに異なる。方言か。いや、違う。もっと本質的な違いだ。
さらに、男の語尾だ。「おります」という丁寧形を使っている。江戸時代の商人が、この言い方をするか。もちろん、する。だが、この男の「ます」の部分の音が、わずかに外国的だ。アクセント位置が違う。
直也は、頭の中で、その違いを分析していた。
現代日本語の「おります」は、イントネーションが緩やかだ。が、この男の「おります」は、どこか、教科書的な、正確すぎる発音だ。江戸時代の言葉遣いを、完璧に学習した者の発音。自然な方言として、その言葉が出てきたのではなく、意識して、その言い方を使っているのだ。
そう確信した直也は、男を見つめた。
「ご商売ですな。…どこの商家ですか」
直也の質問は、さりげない。普通の代官であれば、許可証さえあれば通すはずだ。だが、直也は、この男の正体を知りたかった。
商人の男は、目を少し細めた。警戒の色が浮かぶ。
「江戸の、大きな商家です。名前を言うと、さらに目立ってしまいますので…」
曖昧な返答だ。男は、何かを隠している。
「そうですか。では、その商品は、何ですか」
直也は、続けて問うた。
「絹です。江戸から駿河へ、質の良い絹を運んでいます。駿河の商人へ、納めるのです」
「江戸は、絹の一大生産地ですね。なぜ、江戸で買った絹を、駿河に運ぶ」
「駿河の商人の要望です。特定の質の絹が…」
男の返答は、だんだん、短くなってきていた。警戒心が高まっている。直也の質問が、その男の何かに触れたのだ。
直也は、椅子から立ち上がった。
「お持ちの荷物を、確認させていただけますか」
「…代官殿。これは…」
「関所の権限です。通行の際には、荷物の確認が必要な場合がある。この場合、その必要があると判断しました」
直也の声は、穏やかだが、権威を帯びていた。その態度に、商人の男は、観念した。
「わかりました」
男は、連れていた下人に指示を出した。荷物が下ろされた。竹で編んだ箱。その中を開けると、確かに絹が詰まっていた。黄色く染まった絹。高級品だ。
直也は、その絹に触れてみた。
「これは…」
その瞬間、直也の脳裏に、何かが閃いた。その絹の質感。その色合い。これは、江戸時代の絹ではない。化学染料を使った絹だ。20世紀のものだ。
いや、もっと新しいかもしれない。
直也は、その男を見上げた。
「あなた、本当は、何をされていますか」
問い詰めの声が、関所の空気を張り詰めさせた。
男の顔が、ほんの一瞬、何かが崩れ落ちた。それは、長い間、演じ続けていた顔が、ついに砕けた瞬間だった。
「……」
男は、何も答えなかった。
直也は、その男を関所の奥の部屋に案内した。田中と、もう一人の役人を同席させた。
「あなたの身分は何です。本当の。この絹も、本当の質は何ですか」
直也の質問は、冷徹だった。
男は、長い沈黙の後、口を開いた。
「…僕は、共産主義の理想に生きた人間です」
男の日本語が、その瞬間、急に自然になった。アクセントが消えた。それでも、どこか、外国的な思想体系が、その言葉に乗っている。
「かつて、東欧の政権の責任者でした。ですが、その理想は、崩壊しました。だから、僕は、この時代に転移した。すべてをリセットして、新しい理想の世界を作ることができないか、と思ったのです」
男は、それ以上は言わなかった。
直也は、理解した。この男は、「転移者」だ。異なる時代から、この江戸時代に来た者だ。もう一つ、理解したことがあった。
この世界には、多くの秘密がある。自分は、それらの秘密の中心に、置かれている。
代官として。
直也は、深呼吸をした。そして、こう言った。
「あなたが何者であろうと、この江戸の関所では、関係ない。許可証がある。荷物に問題がない。なら、通す」
男は、目を見張った。
「…本当に?」
「ですが」
直也は、続けた。
「あなたが何者かは、もう知っている。この関所を通ったあなたが、何かをすることになったら、その時は、別だ」
男は、静かに頷いた。
「ありがとうございます。…あなた、正体を見破られた者を、この時代で初めて見ました。通してくれたのも、初めてです」
「あなたたちの秘密は、ここでは守られます。だが、この時代の秩序を乱すようなことはしないこと。それだけです」
直也の言葉は、深い意味を持っていた。本人も、その意味をはっきり理解していなかった。だが、このニート代官は、その瞬間、何かを決めていたのだ。
この江戸時代に来た、時間を超えた者たちを、見守る立場に、自分は立つ。
男は、再び頷いた。
「…わかりました。あなたを、敵に回すつもりはありません」
そう言って、男は、絹の箱を再び荷物にまとめた。
夕方までに、その男は、関所を通り抜けていった。
その夜、直也は、関所の部屋で、一人考えていた。
この時代で何が起きているのか。なぜ、自分がここにいるのか。その答えは、恐らく、どこにもない。
だが、一つだけ、確かなことがある。
この江戸の関所には、やってくる。秘密を持った者たちが。転移者たちが。それぞれの理由を背負って、この時代に迷い込んだ者たちが。
直也は、そうした者たちを、見守ることにした。
暴かず、ただ観察する。
正体を知りながら、何事もなかったかのように、通す。
それが、このニート代官が、江戸時代で見つけた、仕事だった。
やがて、夜明けが来た。
新しい夜が明けて、また新しい旅人が、やってくるはずだ。
直也は、その時に備えることにした。




