第18話 呼び方と正体―900年の流浪者が問う人間の本質―
鈴木美咲を逮捕してから、直也は、その夜、眠ることができなかった。
900年。それは、想像を絶する時間だ。
その900年を、時間の流浪の中で過ごしてきた女性が、今、この関所にいる。その女性は、21世紀の日本では「25歳」であり、現在は「925歳」である。その矛盾した年齢が、直也の心を揺さぶっていた。
その夜、直也は、鈴木美咲のもとを訪ねることにした。
鈴木美咲は、窓際に座って、月を見つめていた。
「眠れませんか」
直也は、「お嬢さん」という呼び方を使わずに、聞いた。
「眠れない」
鈴木美咲は、素っ気ない返答をした。その返答は、「おばあさん」と呼ばれた時のような、空洞な声だ。
「『お嬢さん』」
直也は、その呼び方を使った。
「眠れませんか」
その時点で、鈴木美咲の全身が、変わった。その声が、深く、温かくなった。
「…眠れない。眠りたくない。ここで眠ることは、900年の流浪を続けることになる」
鈴木美咲は、その言葉を述べた。
「…あなたの本当のお名前は、何ですか」
直也は、「お嬢さん」という呼び方を使って、聞いた。
「…鈴木美咲。25歳の時に、『寿命の病』にかかりました。医者から『3ヶ月で死ぬ』と言われました」
鈴木美咲は、その言葉を述べた。
「その3ヶ月の間に、ある組織が、私に接近しました。『我たちは、あなたを死なせたくない。代わりに、時間の流浪の中に送り込みたい』と言いました」
鈴木美咲は、続けた。
「その時、私は、『死ぬ』ことと『時間の流浪の中で生きる』ことの、どちらを選ぶか、迷いました。最後に、『生きる』ことを選びました。だから、私は、時間の流浪の中に送り込まれたのです」
「…その組織は、何ですか」
直也は、聞いた。
「…わかりません。その組織は、『時間改変機関』と呼ばれていましたが、それ以上のことは、わかりません。ただ、ある日、突然、『あなたの時間流浪が、終了します』と言われました」
鈴木美咲は、その言葉を述べた。
「『終了します』。…何が終了するのですか」
「…わかりません。その組織は、『あなたの時間流浪は、900年続きました。それで十分です。あなたは、ある時代に留まって、その時代で、人生を終える権利を持っています』と言いました」
その時点で、直也は、気づいた。
鈴木美咲は、「時間流浪」を終える選択肢を与えられているのだ。つまり、この江戸時代に留まって、人生を終える権利を持っているのだ。
「…では、あなたは、このままここに留まるつもりですか」
直也は、聞いた。
「…わかりません」
鈴木美咲は、答えた。
「900年、流浪し続けた人間が、ある時代に『留まる』ことができるのか。その『留まる』ことの意味が、わかりません。この江戸時代に『留まった』としても、私は、『何をするのか』『どう生きるのか』『何のために生きるのか』。それらが、わかりません」
鈴木美咲の言葉は、深い絶望を伴っていた。
「…あなたを逮捕したことは、正しかったのか、わかりません」
直也は、その言葉を述べた。
「あなたは、この江戸時代の秩序を破壊しようとしていない。あなたは、ただ、存在しているだけです。だが、『ただ存在する』ことは、罪なのか。『何もしない』ことは、逮捕されるべき行為なのか」
その問いは、直也自身への問いでもあった。
「…あなたを通します」
直也は、最後に、その言葉を口にした。
「…なぜですか」
鈴木美咲は、穏やかに聞いた。
「なぜなら、あなたは、『判断の対象』ではなく、『流浪の対象』だからです。あなたを逮捕することは、あなたの『流浪の選択肢』を奪うことになります。ですが、その『流浪の選択肢』は、あなた自身の権利です。私が奪うべきではありません」
直也は、続けた。
「あなたが、このまま江戸時代に留まるのか、それとも、別の時代へ流浪するのか。その選択は、あなた自身が下すべき選択です。私は、あなたの『選択を見守る者』です。あなたを『逮捕する者』ではなく、『見守る者』です」
その時点で、鈴木美咲の眼に、わずかな涙が浮かんだ。
「…わかりました」
鈴木美咲は、そう言った。
「あなたの判断は、『正しい』のか『間違っている』のか、わかりません。ですが、あなたの『見守る』という立場は、ある種の『優しさ』を持っています」
その日の昼。
鈴木美咲は、許可証を手に、関所を通った。
その時、鈴木美咲は、直也に一言だけ言った。
「あなたは、『判断を放棄した者』です。ですが、その『放棄』の中には、『選択肢を尊重する心』があります。その心は、『人間的』だと思います」
直也は、その言葉に、何も返さなかった。ただ、鈴木美咲の背中を見送った。
鈴木美咲は、昼間の光の中を、去っていった。
その背中は、900年の流浪を続ける背中のように見えた。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
その中に、鈴木美咲の名前を書くことにした。「鈴木美沙」。その名前で。
鈴木美咲という本名を、「鈴木美沙」という別の名前で、江戸時代の記録に残すのだ。
直也は、その夜、月を見つめていた。
江戸時代の月だ。
直也は、その時、気づいた。
自分は、『判断を放棄した者』として、『見守る者』として、この江戸時代に立ち続けているのだ。
その『見守る』ことが、本当に『正しい』のか、わかりません。だが、その『見守る』ことの中には、確かに『優しさ』と『誠実さ』がある。
その『優しさ』と『誠実さ』を、直也は、受け入れることにした。




