第17話 呼び方と反応―老婆の正体を問う言葉の力―
藤原忠太が関所を去ってから、二週間が経った。
その二週間の間に、直也の生活には、ある種の安定が訪れていました。
「判断を放棄した者」として生きることが、思ったよりも、静かで、穏やかなものであったからです。
その静寂の中で、直也は、毎日を過ごしていました。
午後3時。
新しい旅人が、関所にやってきた。
その人物は、80代と見られる老婆だ。髪は白く、顔は深い皺に覆われている。着物は、質の良い旅人のそれだ。帯も、上等なものだ。足元の草履も、新しい。つまり、この老婆は、相応の財力を持っている。
だが、その老婆の姿勢は、奇妙だ。その老婆は、関所の前に立ちながら、何もしない。許可証を出さない。何も言わない。ただ、そこに立っている。
直也は、その老婆に近づいた。
「通行を願いますか」
直也は、聞いた。
「…」
その老婆は、答えなかった。その老婆は、直也を見つめているが、何も言わない。その眼は、空洞のようだ。生気がない。
「おばあさん」
直也は、その呼び方で、再び聞いた。
「通行を願いますか」
「…」
その老婆は、依然として、答えなかった。その老婆の眼には、変化がない。空洞のままだ。
直也は、その奇妙さに注目した。
その老婆は、「おばあさん」という呼び方に、反応しなかった。それは、わざとなのか、それとも、そのような呼び方に反応する能力を持たないのか。
「ご婦人」
直也は、別の呼び方で、呼んでみた。
「通行を願いますか」
その時点で、その老婆の眼が、わずかに変わった。その眼には、わずかな生気が戻ってきた。
「…はい」
その老婆は、ようやく、答えた。その声は、か細いが、確かに存在している。
「では、許可証をお見せください」
直也は、聞いた。
その老婆は、許可証を取り出した。その許可証は、質の良い布に包まれている。その布を解くと、中から、古い許可証が現れた。
その許可証は、江戸時代のものではなく、もっと古い、戦国時代のものに見える。その形状が、江戸時代の統一された許可証システムに合致していない。
直也は、その許可証を見て、すぐに違和感を感じた。
「この許可証。…いつのものですか」
「…」
その老婆は、答えなかった。
「『ご婦人』」
直也は、その呼び方を再び使った。
「この許可証について、教えていただけますか」
「…戦国時代のものです。500年以上前のものです」
その老婆は、ようやく、答えた。
「500年以上前。…では、あなたは、転移者ですか」
「…」
その老婆は、答えなかった。
「『お嬢さん』」
直也は、別の呼び方で、呼んでみた。
「あなたは、転移者ですか」
その時点で、その老婆の全身が、変わった。その老婆の眼には、確かな生気が戻ってきた。その体は、わずかに震えた。
「…はい。転移者です」
その老婆は、その言葉を述べた。
「『お嬢さん』という呼び方をされると、私は、何でも答えてしまいます。その呼び方をされると、私は、自分が『お嬢さん』だと思い込んでしまうのです」
その老婆の言葉は、深い。その深さは、単なる「転移者の告白」ではなく、「自分自身の本質についての告白」に見えた。
「…では、あなたの本当の身分は何ですか」
直也は、「綺麗なお姉さん」という呼び方を使って、聞いた。
その老婆の眼が、さらに開いた。その眼には、今までの「空洞さ」が、完全に消えている。
「…私は、時間を流浪する者です。21世紀の日本で、『寿命の病』にかかり、死ぬはずでした。ですが、ある組織が、私を、時間の流浪の中に送り込んだのです。その理由は、『あなたを、完全に死なせたくない。代わりに、時間の中を流浪させたい』という理由でした」
その老婆の告白は、これまでの転移者たちとは全く異なっていた。
「時間の流浪。…何が目的ですか」
「…目的はありません。ただ、流浪しているだけです。この江戸時代に来たのは、偶然です。この江戸時代で、私は、何もしません。ただ、存在しているだけです」
その老婆の言葉は、深い絶望を伴っていた。
その老婆は、「何もしない転移者」なのだ。その老婆は、この江戸時代の秩序を破壊することもなく、支配することもなく、ただ、存在しているだけなのだ。
関所の奥の部屋で、その老婆は座らされた。
田中と山本が、同席している。
「あなたの本当の名前は何ですか」
直也は、「綺麗なお姉さん」という呼び方を使って、聞いた。
「…鈴木美咲。21世紀の日本で、25歳の時に、『寿命の病』にかかりました。その後、組織の実験を受け、時間の流浪の中に送り込まれました。それから、私は、900年以上、流浪し続けています」
その老婆は、その名前を述べた。
「鈴木美咲。…では、あなたを逮捕します」
直也は、その言葉を口にした。
その時点で、鈴木美咲の眼が、変わった。その眼には、わずかな光が浮かんだ。
「…わかりました」
鈴木美咲は、素直に、その判断を受け入れた。




