第16話 通信と見守り―平安の飛脚が示す世界の広がり―
その男の告白の後、直也は、その夜、眠ることができなかった。
転移者たちの間に、秘密の通信ネットワークが存在する。
その事実は、直也に、ある種の衝撃をもたらしていた。
これまで、直也は、転移者たちを、「個別の者たち」として見ていました。それぞれが、独立した目的を持った、独立した個人として。
だが、その実、転移者たちは、互いに、つながっているのかもしれません。複数の時代から来た者たちが、秘密のネットワークで、つながっているのかもしれません。
その夜、直也は、その男のもとを訪ねることにした。
その男は、窓際に座って、月を見つめていた。
「眠れませんか」
直也は、聞いた。
「眠れない。眠りたくない。ここで眠ることは、我の使命を放棄することになる」
その男は、そう答えた。
「…あなたのお名前は」
直也は、聞いた。
「藤原忠太。平安時代の京都で、飛脚として働いていました」
藤原忠太は、そう名乗った。
「藤原忠太。…では、あなたの計画は、本当に実行されるのですか」
「…わかりません」
藤原忠太は、素直に答えた。
「我の計画は、転移者たちの間の通信を、保つことです。その通信により、転移者たちは、互いの情報を共有し、協力し、時には競争する。その活動の中で、この江戸時代は、変わっていく」
「その変化は、良いものですか。それとも、悪いものですか」
「…わかりません。我には、判断することができません」
藤原忠太の返答は、シンプルだった。
「判断することができません。…なぜですか」
「なぜなら、我は、ただの『媒介者』だからです。我自身は、この江戸時代に対して、特別な目的を持っていません。我の目的は、単に『通信を続ける』ことです。その通信が、何をもたらすのか。それは、転移者たちの判断に委ねられています」
藤原忠太の言葉は、深かった。
「では、あなたを逮捕します」
直也は、その言葉を口にした。
「…わかりました」
藤原忠太は、素直に、その判断を受け入れた。
「あなたは、当然、そう判断するでしょう。我の計画は、確実に、この江戸時代に影響を与える。その影響は、必ずしも良いものではないかもしれない。だから、逮捕は、当然です」
だが、その直後、藤原忠太は、続けた。
「…ですが、あなたは、本当に、その判断が正しいと思いますか」
その問いは、直也の心を揺るがした。
「…」
直也は、答えられなかった。
「考えてください。あなたは、これまで、七人の転移者を『通してきた』。その七人の中には、『より大きな害をもたらす可能性がある者』もいたはずです」
藤原忠太は、その言葉を続けた。
「だが、あなたは、彼らを通した。なぜですか。それは、『判断することができなかったから』ではないですか。『判断する責任を持つことができなかったから』ではないですか」
その問いは、直也に、一つの真実を突きつけた。
「…あなたも、『判断することができない者』なのです」
藤原忠太は、その言葉を述べた。
「あなたは、『判断を見守る者』だと思い込んでいますが、実は、『判断することを放棄した者』なのです。その放棄は、決して『見守る』ことではなく、単に『逃げる』ことなのです」
その言葉は、直也に、深い傷をもたらした。
だが、同時に、直也は、気づいた。
藤原忠太の言葉は、正しい。自分は、『判断を見守る者』ではなく、『判断することを放棄した者』なのだ。
その自覚は、直也に、ある種の解放をもたらした。
「…あなたを、通します」
直也は、最後に、その言葉を口にした。
「…なぜですか」
藤原忠太は、穏やかに聞いた。
「なぜなら、あなたも、『判断することができない者』だからです。あなたと私は、同じ立場にいるのです。『判断することができない者』として」
直也は、続けた。
「あなたの通信ネットワークは、続く。転移者たちは、互いに、つながったまま活動する。その結果として、この江戸時代は、変わっていく。その変化が、良いのか、悪いのか。それは、誰にも、わかりません。だから、あなたを逮捕することができません。なぜなら、あなたを逮捕すること自体が、また別の判断を強要することになるから。その判断を、私は、持つことができません」
直也の言葉は、深かった。
藤原忠太は、その言葉を聞いて、静かに頷いた。
「…わかりました。ありがとう」
藤原忠太は、そう言った。
その日の昼。
藤原忠太は、許可証を手に、関所を通った。
その時、藤原忠太は、直也に一言だけ言った。
「あなたは、確実に『判断することを放棄した者』です。だが、その放棄の中にある『誠実さ』は、ある種の『勇気』に見えます。『判断できないこと』を『正直に認める勇気』です」
直也は、その言葉に、何も返さなかった。ただ、藤原忠太の背中を見送った。
藤原忠太は、昼間の光の中を、去っていった。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
その中に、藤原忠太の名前を書くことにした。「竹田多郎」。その名前で。
藤原忠太という本名を、「竹田多郎」という別の名前で、江戸時代の記録に残すのだ。
直也は、その夜、月を見つめていた。
江戸時代の月だ。
直也は、その時、気づいた。
自分は、「判断を見守る者」ではなく、「判断することを放棄した者」なのだ。
その放棄は、決して『見守る』ことではなく、単に『逃げる』ことなのだ。
だが、その『逃げる』ことの中には、ある種の『誠実さ』がある。『判断できないこと』を『正直に認める』という『誠実さ』が。
その『誠実さ』を、直也は、受け入れることにした。
その『誠実さ』の中で、直也は、毎日を過ごしていくことにした。




