第13話 魚と秘密―漁師に偽装した暗号運び屋の言葉―
佐藤健太が関所を去ってから、二週間が経った。
その二週間の間に、直也は、眠ることが少なくなっていた。毎晩、直也は、佐藤健太を通したことについて、考え続けていた。
本当に、あの判断は正しかったのか。
本当に、自分は「判断」をしているのか。それとも、単に「逃げている」のか。
その問いが、直也の心を、毎晩、蝕んでいた。
午前11時。
新しい旅人が、関所にやってきた。
その人物は、50代後半の男だ。顔は、日焼けしている。その日焼けは、長年、太陽の下で働いてきた者のそれだ。着物は、簡素だ。漁師のそれだ。護衛がついていない。一人での旅だ。
「通行を願う」
その男は、許可証を差し出した。その声は、低く、深い。その声の中には、何か知恵を持った人間の痕跡が感じられた。
直也は、その許可証を受け取った。
許可証は、整っている。江戸の漁師組合の印鑑が押されている。その組合の名前は、「東京湾漁協」だ。
直也は、その名前を見て、すぐに違和感を感じた。
「東京湾漁協」。その名前は、江戸時代では存在しない。「東京」という地名は、江戸時代では使われていない。さらに、「漁協」という組織は、近代以降のものだ。
だが、その許可証の形式は、正しい。印鑑も、正しい形式だ。つまり、その男は、許可証を偽造したのだ。あるいは、別の時代から、その許可証を持ってきたのだ。
「東京湾漁協。…いい名前ですね」
直也は、その名前に注目した。
「各地へ魚を配送されているのですか」
「はい。新鮮な魚を、江戸から各地へ配送しております」
その男の返答は、即座だ。だが、その内容は、許可証の偽造という事実と相反している。
「では、この『東京湾漁協』という組合について、教えていただけますか」
直也は、その問いを発した。
「…」
その男は、答えなかった。
「いつからの組合ですか。どのような事業を主に行っているのですか。その組合の主人は、何という人物ですか」
直也の質問は、立て続けに続いた。
「…」
再び、沈黙だ。その沈黙は、認めるものだ。
「では、あなたの本当のお名前は」
「…」
その男は、答えなかった。
「では、関所の奥に来ていただけますか」
直也の声は、穏やかだったが、この数週間の不安と疲労が、わずかに表れていた。
その男は、観念したようだ。素直に、直也の後に続いた。
関所の奥の部屋で、その男は座らされた。
田中と山本が、同席している。
「あなたの本当の身分は何ですか」
直也は、聞いた。
「…漁師です。本当に」
その男は、答えた。
「江戸の漁師として、ここ20年、魚を配送してきました」
「では、『東京湾漁協』という許可証は」
「…許可証です。別の時代から持ってきた」
その男は、素直に答えた。
「別の時代。…あなたは、転移者ですか」
「そうです。21世紀の日本から来ました」
その男は、その言葉を述べた。
「21世紀で、私は、情報機関の職員でした。その機関の業務は、暗号化された情報を、様々な場所に運ぶことです。その技術を用いて、この江戸時代に来ました」
その男の告白は、これまでの転移者たちとは異なっていた。その告白には、ある種の「実務性」が感じられた。
「暗号化された情報。…何が目的ですか」
「…江戸時代の権力者たちの間に、情報ネットワークを構築することです」
その男は、その言葉を述べた。
「その情報ネットワークにより、この時代の支配構造を、より効率的なものにすることです」
「より効率的な支配構造。…つまり、あなたは、この江戸時代を支配するつもりですか」
「いいえ。支配ではなく、『統一』です。現在の江戸時代は、各藩が、独立した支配を行っている。その独立した支配の間に、情報ネットワークを構築すれば、より統一された支配が実現できる。その統一により、この時代の人々の生活は、より安定したものになる」
その男の理屈は、確かに一貫していた。だが、その一貫性の中には、極めて危険な考え方が隠れていた。
「その『統一』により、この江戸時代の秩序が破壊される可能性はないのですか」
「…あります」
その男は、素直に答えた。
「その破壊の可能性を承知で、私は、この計画を進めています」
その時点で、直也は、気づいた。
この男は、これまでの転移者たちと異なり、「明確な目的」を持っていた。その目的は、「この江戸時代を改変する」というものだ。その改変は、確実に、この時代の秩序に影響を与える。
だが、同時に、直也は、別のことにも気づいた。
自分は、この男に対して、どのような判断を下すべきなのか、わからないということだ。
これまでのように、「気まぐれで判断する」という言葉では、説明できない。これまでのように、「人間的な判断」という言葉でも、説明できない。
直也は、その男を見つめた。
その男の眼は、直也の眼を見つめ返していた。その眼には、「あなたの判断を見たい」という強い欲望が感じられた。




