第12話 復讐と許容―元いじめっ子を前にした代官の究極の判断―
佐藤健太の告白の後、直也は、その夜、眠ることができなかった。
それまでの五人の転移者との対話の中で、直也は、ある種の「距離」を保つことができていた。その距離は、「代官としての立場」から生まれるものだ。だが、佐藤健太の場合、その距離は、完全に失われていた。
その夜、直也は、佐藤健太のもとを訪ねることにした。
佐藤健太は、窓際に座って、月を見つめていた。その姿勢は、これまでの転移者たちと同じだ。だが、その背中には、これまでの転移者たちにはなかった「傲慢さ」が感じられた。
「眠れませんか」
直也は、聞いた。
「眠れない。眠りたくない。このような状況で眠ることは、甘えることになる」
佐藤健太は、そう答えた。
「…なぜ、あなたは、僕を一人にしてくれたのですか」
佐藤健太は、窓から目を離して、直也を見た。その眼には、驚きが浮かんでいた。
「あなたが、あのニート代官だとは」
佐藤健太は、その言葉を述べた。
「いじめの対象だった直也。あれから30年。あなたが、江戸時代の関所の代官になっているなんて」
佐藤健太は、笑った。その笑いは、冷たい笑いだ。
「…あなたは、僕のことを、覚えていますか」
直也は、聞いた。
「覚えている。直也。毎日、毎日、あなたをいじめていた。弁当を隠したり、便所に落としたり、殴ったり。その全てが、楽しかった。あなたが、苦しむ顔が、楽しかった」
佐藤健太は、その言葉を述べた。
その言葉は、直也の心に、深い傷をもたらした。その傷は、30年前の傷と同じだ。だが、その傷は、同時に、別の感情ももたらした。
その感情は、「復讐」だ。
「では、あなたを逮捕します」
直也は、その言葉を口にした。
その言葉の中には、これまでの「冷静な代官」としての判断ではなく、「被害者としての復讐欲」が混ざっていた。
「そうですね」
佐藤健太は、素直に、その判断を受け入れた。
「あなたは、当然、そう判断するでしょう。ここで、あなたは、僕を逮捕することで、中学時代の復讐を遂行することができます。その復讐は、当然です。その復讐は、正当です。…だが…」
佐藤健太は、その言葉を続けた。
「…あなたは、本当に、その復讐を遂行したいのですか」
その問いは、直也の内部を揺るがした。
「…」
直也は、答えられなかった。
「考えてください。あなたは、これまで、五人の転移者を『通してきた』。その決定は、全て、『気まぐれ』だと言いました。その気まぐれの判断で、五人が、この江戸時代に放たれた。…だが、その五人の中に、僕がいたら、どうしていたのですか」
佐藤健太は、その問いを続けた。
「もし、僕が、Jacob のような『秘密組織の幹部』として登場していたら、あなたは、同じように『気まぐれで』僕を通していたのですか。それとも、特別に、逮捕していたのですか」
その問いは、直也に、一つの真実を明らかにした。
直也は、佐藤健太を逮捕したいのではなく、「佐藤健太だから」逮捕したいのだ。その「だから」には、個人的な感情が含まれている。
「…あなたがいじめっ子だから、逮捕したいのですか」
直也は、その問いを自分自身に向けた。
「もし、あなたが、別の誰かであれば、『気まぐれで通す』と決定していたのですか」
その問いに対して、直也は、答えを見つけることができなかった。
その夜、直也は、決断を下すことができなかった。
翌朝も、直也は、決断を下すことができなかった。
その昼、直也は、最後に、佐藤健太のもとを訪ねた。
「…あなたを、通します」
直也は、その言葉を口にした。
「…なぜですか」
佐藤健太は、驚きで眼を大きくした。
「…なぜなら、あなたを逮捕することが、復讐になるから。そして、その復讐は、代官としての判断ではなく、個人的な感情に基づいているから」
直也は、その言葉を述べた。
「これまで、僕は、五人の転移者に対して、『気まぐれで判断する』ことを自分に許してきた。その気まぐれで、全員を通してきた。…だが、あなたの場合、その『気まぐれ』が、実は、『個人的な感情』に基づいているのだと気づいた」
直也は、続けた。
「もし、僕が、あなたを逮捕するなら、それは、代官としての判断ではなく、いじめられっ子としての復讐になる。その復讐は、この江戸時代の秩序を守るためではなく、僕自身の過去の傷を癒すためのものになる。…だから、通します」
佐藤健太は、その言葉を聞いて、何も言わなかった。
その日の昼、佐藤健太は、許可証を手に、関所を通った。
その時、佐藤健太は、直也に一言だけ言った。
「…弱いな。あなたは、本当に弱い」
直也は、その言葉に対して、何も返さなかった。ただ、佐藤健太の背中を見送った。
佐藤健太は、昼間の光の中を、去っていった。
その日の夜。
直也は、関所帳を開いた。
その中に、佐藤健太の名前を書くことにした。「山田太郎」。その名前で。
佐藤健太という本名を、「山田太郎」という別の名前で、江戸時代の記録に残すのだ。
だが、その名前を書く手は、震えていた。
直也は、その夜、初めて、自分の判断に対して、疑問を抱いた。
本当に、佐藤健太を通すことが、正しかったのか。
その疑問は、これまでの「不安」とは異なっていた。その疑問は、より深く、より根本的だ。
直也は、その月を見つめていた。
江戸時代の月だ。
直也は、その時、気づいた。
自分は、「人間的な判断」という言葉に、自分の弱さを隠していたのではないか。
「気まぐれで判断する」という言葉の中に、自分の逃げを隠していたのではないか。
その疑問が、直也の心を、深く蝕み始めた。




