模擬戦
「冥狼などという呪われた悪獣と契約を交わすとは……! クライド、お前は一族の面汚しに留まらず、ついに魂まで闇に売ったか!」
翌朝、村の中央広場は怒号と困惑の渦に包まれていた。
クライドの右腕に刻まれた不気味な黒の紋章、そして彼から放たれる禍々しい魔力は、隠し通せるものではなかった。村人たちからは軽蔑や嫌悪といった感情を乗せた目を向けられ、遠巻きに彼を非難する。
古来より、この村において『冥狼』は天狼に劣る、堕落した悪の象徴――そう教え込まれてきたからだ。
その喧騒を割って、一人の男が前に進み出た。
「そこをどけ、出来損ないが」
低く威圧的な声の主は、カリム。
昨日、演練場でクライドを容赦なく打ち負かした、あの十歳の少年の兄だった。十八歳にして、村では五本の指に入る実力者である。彼の背後には、すでに幻影の域を超え、実体化しかけている巨大な天狼が、牙を剥いてクライドを威嚇している。
「天狼に選ばれなかっただけでなく、十歳の我が弟にすら勝てなかった腹いせに、禁忌の力に手を出すとは……どこまで落ちぶれれば気が済む?」
カリムは腰の長剣を引き抜き、切っ先をクライドの鼻先に突きつけた。
「冥狼など、天狼の足元にも及ばぬ劣等種。お前が手に入れたものが、いかに脆く、愚かな泥船であるか……俺の剣で分からせてやる。おい、出来損ない。今すぐ武器を取れ。模擬戦だ」
周囲の村人たちから「そうだ! やっちまえ、カリム!」「一族の規律を教えてやれ!」と、カリムを煽る声が上がる。
クライドは、かつてなら萎縮していたであろうその怒号を、冷めた目で見つめていた。
(劣等種、か。何も知らない癖によくもまぁ⋯⋯)
彼が静かに腰の木剣を構えた、その時だった。
『――おい、クライド』
脳内に直接、地響きのようなネビュリムの低い声が響いた。その声は、明らかな不快感と、煮え滾るような怒りに満ちていた。
『あの有象無象どもは、今、我が力を「劣る」と言ったか? 輝くだけの腑抜けた白犬の眷属風情が……この我を、格下扱いしたな?』
(ネビュリム……)
『小僧、あの生意気な羽虫の首をへし折れ。我が力を貸してやる。奴の全身に、恐怖を刻み込んでやれ!』
どうやらカリムの横柄な態度と、天狼一辺倒の村人たちの言葉は、誇り高き冥狼の逆鱗に触れたようだ。
ドクン、とクライドの右腕の紋章が脈打つ。
次の瞬間、クライドの身体から溢れ出たのは、光を吸い込むような「漆黒の魔力」だった。演練場の地面が、凍りつくように黒く染まっていく。
次の瞬間、カリムが動いた。
天狼の身体強化を受けたその踏み込みは、目にも留まらぬ速さ。一瞬でクライドの間合いに踏み込み、鋭い一撃を振り下ろす。
ガキィィィン!!
激しい金属音が響く。
だが、弾き飛ばされたのは――カリムの側だった。
「な、に……っ!?」
カリムの目が見開かれる。クライドは一歩も動かず、ただ片手で掲げた木剣で、カリムの渾身の一撃を完璧に受け止めていた。いや、受け止めたのではない。圧倒的な力で、弾き返したのだ。
「なんだ、村で五本の指に入るというのは、その程度か?」
クライドの瞳が、ネビュリムと同じ不気味な紅色に染まる。
「なめるなァッ!」
カリムは顔を真っ赤にし、背後の天狼の力を全開にした。光の弾丸と化したカリムが、神速の連撃を繰り出す。
しかし、クライドにはそのすべてが止まって見えた。
ネビュリムから流れ込む闇の力は、クライドの五感を極限まで研ぎ澄まし、肉体を「超越者」の域へと引き上げていた。
避けるまでもない。
クライドは一歩前に踏み出すと、カリムの放った剣筋の「隙」へ、無造作に木剣を突き出した。
ドガァァッ!!
「が、はっ……!?」
木剣の腹がカリムの腹部にめり込む。天狼の光の障壁など、漆黒の魔力の前には紙切れ同然だった。カリムの身体が、まるで礫のように吹き飛び、広場の石壁に激突する。
「カ、カリムが……一撃で……!?」
「バカな、あり得ん! あいつは昨日まで、十歳の子供にすら負けていた出来損ないだぞ!?」
静まり返る広場。村人たちの顔からはクライドに対する侮蔑の笑みが消え、恐怖が伝染していく。
カリムは口から血を吐きながら、必死に立ち上がろうとするが、その身体はガタガタと震えていた。彼の背後にいたはずの天狼の幻影は、クライドから放たれる冥狼のプレッシャーに完全に気圧され、尾を巻いて消え失せていた。
クライドは、倒れ伏すカリムの前にゆっくりと歩み寄り、冷徹に見下ろし告げる。
「冥狼が天狼に劣るだと? 逆だよ、カリム。光が強ければ影も濃くなる。お前たちがぬくぬくとお伽話に浸っている間、この力は深淵で牙を研ぎ続けていたんだ」
木剣を肩に担ぎ、クライドは呆然と立ち尽くす村人たちを一考の価値もなしとばかりに見回した。
「言ったはずだ。俺を出来損ないと呼んだこと、全員に後悔させてやるとな。……これは、その始まりに過ぎない」
恐怖に震える静寂の中、少年の右腕の紋章が、妖しく、そして誇らしげに黒い光を放っていた。




