プロローグ
人里離れた山々の狭間、そこには古より「天狼」と呼ばれる神聖な狼と血の契約を結び、生涯の相棒として共に生きる一族がいた。
その村では、天狼と契約を交わすことが『一人前の戦士』として認められることの絶対条件だった。村の子供たちは、誰もが十五歳を迎える頃に天狼を召喚し、その祝福を得て戦士としての第一歩を踏み出すのだ。
だが、十五歳の成人を過ぎても、未だに背後に狼の影を持たない少年がいた。
「ハァ……ハァ、ハァッ!」
木漏れ日の差し込む演練場に、鈍い音が響き渡る。
少年が握る木剣は、いとも容易く弾き飛ばされ、地面に突き刺さった。彼を地面に這いつくばらせたのは、自分よりも五つも年下――まだ十歳にも満たない、幼い少年だった。
「天狼の加護を得た俺の筋力には、いくら踏ん張ったって勝てっこないんだよ」
少年の背後には、淡い光をまとった天狼の幻影が揺らめいている。周囲で見守っていた村人たちから、冷ややかな視線と嘲笑が浴びせられた。
「また負けたのか。十五にもなって契約すらできん出来損ないが、いくら剣を振ったところで無駄だというのに」
「一族の恥晒しめ。大人しく村の雑用でもしていればいいものを」
少年は唇を噛み締め、拳が血に染まるほど強く握りしめた。出来損ない。落ちこぼれ。何を言われても、言い返す言葉はなかった。
少年の名はクライド。
天狼に選ばれず、契約ができない。ならばせめて、己の腕一本で、剣技だけでも村一番になって見せる。そう誓って、クライドは誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで、手の皮が擦り切れて骨が軋むまで木剣を振り続けてきた。
しかし、現実は才を持たない者には非情だった。
天狼と契約した者が得る身体強化、そして獣の放つ神聖な魔力の前には、凡人が血の滲むような努力で積み上げた剣技など、木の葉のように容易く吹き飛ばされてしまうのだ。
(このまま、俺は見下されたまま終わるのか……?)
嫌だ。⋯⋯いくら才が無いと言われても諦めきれない。
この時、クライドの胸の奥では、熱く、どす黒い炎が揺らめいていた。彼の望みはただ一つ。出来損ないと蔑んだ者たち全員を黙らせ、誰もが認めざるを得ない「大英雄」となること。そのためなら、火の中にだって飛び込めるし、泥を啜ったって構わない。
そんなある日、クライドに絶好の好機が訪れる。
一部の年長者しか立ち入りを許されない、村の奥にひっそりと佇む石造りの書庫。その日、裏庭の雑用を押し付けられていた彼は、見張りの戦士たちが「天狼の儀式」の準備で席を外したわずかな隙を突き、禁忌とされるその場所へと忍び込んだのだ。
ひんやりとした空気の漂う書庫の最奥。
結界の呪符が剥がれかけ、誰も見向きもしなくなった朽ちかけた書棚の隙間に、それはあった。
獣の干し皮で装丁され、何十年、あるいは何百年もの埃を被った、ずっしりと重い一冊の古書。
ページをめくると、煤けたインクで、一族の創世の歴史が綴られていた。
だが、そこに記されていたのは、村の誰もが幼い頃から聞かされてきた「光り輝く天狼が一族を導いた」という美しいお伽話などではなかった。それとは真逆の、一族がひた隠しにしてきた「禁忌の真実」だったのだ。
――光輝く白き力を持つ『天狼』あれば、深淵に潜む黒き闇の力を持つ『冥狼』あり。
冥狼。それは光を拒み、闇の力を持つとされる忌むべき狼。村の教えでは「呪われた悪獣」として徹底的に排除され、語ることすら禁じられた存在だった。
だが、クライドにとって、それが天狼だろうが冥狼だろうが知ったことではなかった。
誰も自分を認めない世界で、力を得られる手段が目の前にある。それだけで、彼が行動を起こすには十分だった。
「……冥狼召喚の儀」
その日の深夜。クライドは村外れの荒れ果てた洞窟へと足を運び、古書に記された通りに魔法陣を描いた。
静寂が支配する闇の中、彼は自らの手の平を切り裂き、血を陣の中心へと滴らせる。
「出でよ……!」
クライドの叫びと同時に、洞窟内の温度が急激に下がったのを感じる。
魔法陣から溢れ出たのは、光ではなく、不気味な「漆黒の霧」だった。
ゴオオォッ、と地鳴りのような音が響き、霧の向こうから巨大な一対の『瞳』が現れる。
それは血のように昏く赤い、底知れぬ深淵の眼光だった。
『――我を呼ぶのは、貴様か? 小さき命よ』
姿を現したのは、影そのものを引き裂いて作られたかのような、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼。
冥狼――ネビュリム。
放たれる圧倒的な威圧感と、肌を刺すような死の気配に、クライドの心臓が警鐘を鳴らす。だが、彼の瞳から闘志が消えることはなかった。
「俺はクライド。お前と契約をしにきた、ネビュリム」
『ふん……天狼に拒まれた出来損ないの分際で、我ら冥狼の力を求めるとは。面白い。だが、光の獣どものように、生ぬるい絆で力を貸すと思うなよ?』
ネビュリムは低く唸り、クライドの眼前にその巨大な顎を近づけた。
『我ら冥狼と契約する者は、相応の『対価』を支払ってもらう。小僧、お前が我に差し出すものは何だ?』
「何が望みだ」
『――命だ。我が力を得る対価として、お前の『寿命』を喰らう。それでもなお、闇に染まる覚悟があるか?』
寿命。それは人間にとって、最も尊く、取り戻せない等価交換の極み。
普通の人間であれば、そこで怖気づき、契約を諦めるだろう。
しかし、クライドは嘲笑うように口元を歪めた。
「たった、それだけのことか」
『何……?』
「村の出来損ないとして、惨めに、長く生きる人生に何の価値がある? 俺は、誰もが認める大英雄になるんだ。そのためなら、命を賭けるくらい安いもんだ!」
クライドは一歩も退かず、ネビュリムの紅い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳に宿る狂気とも言える執念に、冥狼は一瞬、目を見張る。
そして、ネビュリムは愉悦に満ちた低い笑い声をあげた。
『ククク……ハハハハ! 良い、実に良いぞ、人間! その渇望、その狂気、まさに我ら冥狼が乗せるに値する器だ!』
黒い霧が激しく渦巻き、クライドの右腕に絡みつく。
それは皮膚を焼き焦がすような激痛を伴い、彼の右腕に「漆黒の狼の紋章」を刻み込んでいく。
『契約は成った、クライド。お前の命の灯火、我が牙として使い果たしてくれよう!』
激痛に耐え、クライドは自身の右腕を天に掲げた。
その手には、これまでとは明らかに違う、世界を揺るがすほどの「闇の力」が脈打っていた。
「ここからだ……俺を、出来損ないと呼んだ村の奴ら全員に、俺を認めさせてやる」
こうして、命を対価とした契約を交わした少年クライドと冥狼ネビュリムの後に語られる伝説が始まった。




