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勝てば官軍 弐 【呪術修正物語】  作者: 桜山 風
第三章 勝利
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第十三話

[秘密の首領]の姿を胸に、俊樹は右手を握る。

 間合いを読み、足を踏み出した。


 今、彼はナイフを持っていない。だが同じ構えで同じ動作を繰り出す。拳の側面が、無防備に突っ立っている永井の首筋を打った。頸動脈へ打撃を受けた彼は膝を着き、そのまま地面に伏せる。


「   」


 自分で自分のやったことが信じられない。しかし、拳には確かな感触が残っていた。その感動に浸る間もなく俊樹は他の四人に取り囲まれた。


「てめえ!」


「よくも、永井さんを!」


「お前みたいなやつが、このぉ!」


「XXXXXX!」


 よろけたところに殴る蹴るの暴行を受ける。


 手でかばった視界の隅で、永井が立ち上がるのが見えた。


「……なめた真似をしてくれるじゃないか」


 静かな絶望が俊樹の身に広がっていく。


 そこに、明るい声が響いた。


「一対五とは卑怯なり! 我、義によって助太刀いたす!

 いざ尋常に勝負、勝負!」


「なんだよ、てめえは」


「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、

 近くば寄って目にも見よ。

 我こそは上総(かずさ)の国の住人、丹羽武吉が三男、武明なり!」


「鎌倉武士でもあるまっ」


「XXX!」


「ほげ!」


 永井を含む三人が倒れた。尻を押さえた彼らの後ろに路場がいる。


「てめ、後ろからとはひ」


 最後まで言わせずに、路場は向う脛(ずね)を蹴飛ばした。


「前からやれば良いってわ」


 とがめた相手に、路場は回し蹴りを入れる。


 しかし、一撃必殺とはいかない。

 五人目が倒れたときには、先にやられた者が起き上がっている。


「暴力は嫌いなんだが、やむを得ないな」


「ああ」


 不利な状況でも丹羽と路場は逃げず、戦う姿勢を崩さない。

 俊樹もそれに励まされ、震える手でファイティングポーズをとる。


 五対三の乱闘を、庭園にいる他の学生たちは無視していた。


 強いものが弱いものを、多数派が少数派をいじめるのは恒星学園ではごく当たり前のことだ。


 秩序維持のための身分制と多数決を尊重する教育方針がいつのまにか、理事長の支配体制を盤石とするために歪んでしまったからだ。むしろ、基本的人権を尊重した平等な対応を求めるものは学園社会の安定を崩す異端者として嫌われていた。だから俊樹に助太刀する丹羽と路場の行動を彼らは理解できなかったのだ。


 そんな恒星学園気質を熟知しているので、寺田は別の視点から説得を試みる。


「この五人組は、均分団だ! 

 こいつらは俺たちを個別に拉致して暴力を用いた教育を行い、

 恒星学園大学に均分主義を浸透させていこうとたくらんでいる!」


 それでも学生たちは動かない。


「ふーん」


「だからどうした」


「個別ってことは、

 独りぼっちの外部生や、

 内部生でも孤立したいじめられっ子が対象だろう? 

 いつも俺は仲間と一緒に行動しているから平気さ」


「俺だって」


「勝手にすればいい。俺は知らん」


「めんどくさい。かかわりたくない」


 彼らの事なかれ主義も寺田は理解しているので、次には具体的な危機を提示する。


「噂は誇張されて伝わるものだ! 

 だから、ここが均分主義者の巣窟なんて話が広まったら、

 絶対に企業も官庁も卒業生を採(と)ってくれなくなるぞ!」


「なんだと!」


「おい、それは本当か」


 思惑通り、乗ってきた。寺田は更に煽る。


「資本主義を敵とし、

 国家体制を転覆しようとするヤカラを

 企業と官庁が内部に迎え入れるわけないだろうが。

 たとえ自分が主義者でなくても、

 採用担当者から見れば

 恒星学園出身ということで一緒くたにされる。

 汚染が広がる前に退治しなければ、

 全員が就職浪人となるぞ!」


 弱者が尊厳を踏みにじられるのは無視できても、自分にとって不利なことは見過ごせなかった。


「俺たちに迷惑をかけるな!」


「害虫は、くたばれ!」


「腐った根性を叩き直せ!」


 口々に叫びながら、学生たちは永井一派に襲い掛かった。


「くそっ、覚えていろ!」


 ありきたりな捨て台詞を吐き、均分団の見習いたちは走り去る。


 後には四人が残された。


「見事な扇動だった。大したもんだ。礼を言うぜ」


「助かった。ありがとう」


 丹羽と路場に頭を下げられて寺田は照れくさそうにしている。


「いや、俺から始まったことだからな。

 怖くて一度は逃げだしたけど、

 同じ大学にいるなら、またいつか襲われる。

 だから一生懸命に知恵を絞ってああ言ったんだ」


 親しげに話す彼らの姿を、俊樹は見上げている。

 それに丹羽が気づいた。


「どうしたんだ」


「あ、足が……立たない」


 まるで生まれたての仔馬のように、彼は自分の体を制御することができなかった。


「もしかして、

 本気で喧嘩をしたのは初めてなのか?」


 俊樹はうなずく。


 いじめられる彼を助ければ自分も同じ目にあう。それを恐れて誰も俊樹と親しくなろうとしなかった。

 孤独な俊樹が辛い現実から逃れようとしてひたる空想は、霧と闇に沈んだ街の路地裏で狩人となった自分が密(ひそ)かに獲物を切り刻む情景だった。


 だから、このような青空のもとで友と肩を並べて強敵へ真っ向勝負を挑み、周囲の支援も受けて、堂々たる勝利を収めることなど、まったく想像したことがなかった。


「初陣の若さまが武者震いか。ならば」


 丹羽は俊樹のそばでしゃがみこみ、両手を後ろに差し出した。


「もうすぐ午後の講義が始まる。教室に騎馬で凱旋しようぜ」


「え、いいの?」


 とまどう俊樹の横に路場が来た。手には俊樹のトートバッグと寺田のカバンを持っている。


「同じベンチにあった。これは君のか?」


「ああ、そうだ。ありがとう」


 カバンを寺田に渡してから、路場は丹羽の後ろにまわる。


「助けてもらった礼だ。俺も入るよ」


 寺田は反対側に移動した。二人は丹羽の手を取り、肩に手を置き、騎馬を組んだ。


 運動会の騎馬戦で、俊樹はいつも馬係だった。手も使って移動し、おっかなびっくり乗馬すると、頃合いを見計らった丹羽が声をあげる。


「せーの、よいこらしょ!」


 視界がぐいっとせりあがる。これまでにない爽快感が俊樹を満たす。


「いくぞう! それ、いちに、いちに!」


 掛け声で足並みをそろえ、四人の若者は疾走した。



   ◆◆◆◆◆◆



 1934年〔光文9年〕4月22日。


 そよ風が俊樹の頭髪をゆらす。その髪型は母の手によるキノコめいたものではなく、当時の一般男性と同じように後頭部を刈り上げた七三分けだ。彼はすでに、散髪や服装について干渉しようとする母の申し出をきっぱりと拒否できるようになっていた。だから両耳につけた青い飾り石を隠す必要もない。


 永井を殴ったその日の放課後、俊樹たちは酒やツマミなどを買って路場の下宿に集まり、祝杯をあげた。


(あれは本当に爽快だった。

 だから礼文さまや犬田さんにも

 次の日に報告しようと思ったんだが)


 翌日、俊樹は新聞の号外をみて驚愕した。


 1931年〔光文6年〕9月18日午後10時20分ごろ。


 俊樹たちが大いに楽しんでいたその時刻に、満州でとんでもないことが起きていたのだ。


 大日本帝国が所有する南満州鉄道の線路が爆破された。鉄道と周辺地域を警備する関東軍は、この事件を中原民衆国軍の仕業と断じ、軍事行動を起こした。


(あのころの新聞では

 連日、中原民衆国と大日本帝国の対立が報じられ、

 現地では日本の商品を排斥するという問題も起きていた。

 在留邦人は暴行を受け、

 現地を調査旅行していた陸軍大尉さんたちまでもが

 殺されるというひどい状態だった)


(それなのに

 政府は外交ルートできちんと対応できず弱腰な姿勢だったくせに、

 欧米の要求に応じて軍事予算を減らそうとしていた)


(だから、前線で戦う関東軍は我慢できなくなったんだろうな)


(日本人をいじめる

 中原民衆国人をやっつけたいと望んでいたにも関わらず、

 関東軍はずっと政府に押さえつけられていた。

 しかし、本気を出して戦ったら勝てたんだもの。

 すごく、気持ちよかっただろうなあ。

 あの日のオレのように。

 そして、うっとうしい飼育員を踏み殺したゾウのように)


(まあ、重大事件に話題をさらわれたせいで、

 オレの初陣を自慢する機会が失われたけど、

 それはいいや。

[秘密の首領]さまに理解していただければオレは満足だ)


 俊樹はあらためて、周囲を見回す。


 健二、香、丹羽、根小田。


 彼らも吉報を待ち、講堂前に集結している。


 後から加わった寺田も同様だ。


 残念なことに犬田は追放され、路場も続いて失踪した。


 しかし、俊樹は[真世界への道]の方針を批判しない。むしろ彼独自に解釈した結果、あの二人は特命を帯びて別行動をとっていると誤解している。


《矛盾しているように見えても、それには深い意味がある》


《低い段階の魂ではわからないことでも、 

 修行を積めば理解できるようになるのだ》


 礼文がでっちあげた教えが、俊樹の疑う心を麻痺させてしまった。


 それに加えて、礼文の打ち出す行動指針が、すべて成功を収めていることも俊樹の信頼を厚くしている。


 妻の弟である寺田を通じて恒星学園の学生を食い物にしようと目論んでいた稲毛貢。彼は今、[真世界への道]が進めている[樹状販売]に協力し、実家の製本印刷工場で[天恵絵札]を生産していた。



 ――これは、ミイラ取りがミイラになる物語――



 富鳥義光総裁が理事長に依頼された、恒星学園の意識改革も順調だ。


 寺田が提唱した均分主義排除運動を行うのは[真世界への道]の下部団体だ。


 国民に先駆けて超克細胞を投与された彼らは、天狼団と名付けられた。彼らは両耳に超克細胞を統御する働きがある黒い飾り石[Kontrolle Stein]を装着している。コントロレシュタインと発音するのは面倒なので、彼らは略して統御石(コン)と呼んでいる。


 天狼団は恒星学園の言論を支配するのみならず、他大学の均分主義集会に突撃することもある。むろん反撃されるが、超克細胞のおかげでいくら負傷しても回復する彼らと、生身の敵とが戦えば勝敗は明らかだ。


 リーダーは内田だが、彼は後方で指揮を執る。実際に先頭に立って戦うのは月沢だ。彼は[自我反省]を行い、過去に犯した罪を運動に邁進(まいしん)することで償おうとしている。


 それについて、俊樹は異議を唱えない。月沢も永田の犠牲者であることを彼は理解しているからだ。俊樹は稲毛の仕事を手伝うかたわら、オート三輪と呼ばれる貨物自動車を操縦し天狼団の人員移送要員として働くこともある。



 ――そして――



 俊樹の回想は、二か月前に研究所を訪れたときのものとなった。


 あの研究所はもともと染物工場の従業員寮に付け足して建設されたものだった。その隣にある工場に俊樹は入る。


「やあ、いらっしゃい」


「お待ちしていました」


 彼を待っていたのは塚本博士と根府川、そして数人の少年だ。


 布から余分な染料を洗い落とすために設置された大きな水槽のそばで俊樹は足を止めた。


 排泄物が交じった汚水の中を俊樹は覗きこむ。そこに永井たち四人が、あおむけに沈んでいる。


 水面から10センチほど下にいる彼らの両腕と両脚はコンクリートで固められ、起き上がることはできない。露出した永井の手先と足先だけがむなしく動いている。


 それでも彼が溺死しないのは、体を覆う赤い絨毛(じゅうもう)のせいだ。


 超克細胞で形成されたそれは酸素を取り入れ二酸化炭素を排出する、鰓のような働きをしている。その下には厚い脂肪層が形成され、体温が水に奪われるのを防いでいた。いわば毛皮が血に染まったアザラシのような姿に、彼は変化している。


 これは[真世界への道]総裁である富鳥義光の要求に従ったものだ。超克細胞研究にあたっている塚本医学博士と助手の根府川は海水と同濃度の塩水に永井たちを浸し、海の中でも溺れず低体温症をおこさない兵士の開発を行った。


「よし、作業開始」


 塚元の命令を受け、少年の一人がレバーを操作した。

 底の排水口が開き、汚水が流れていく。

 水面は下がり、沈められていた永井たちの顔が現れた。


「げほ! げほ!」


 気管に入った水を吐き出してから、永井は大きく息を吸いこむ。


「伊吹! 俺が悪かった、許してくれ!」


 苗字を呼ばれるのは久しぶりだ。だから、俊樹の返事は少し遅れた。


「……いや、まだだ。まだオレの気はすまない」


 淡々とした口調で彼は告げる。


「そんなことを言わないでくれ! 

 ここから解放してくれよ!」


「お前がオレをいじめたのは小学一年から大学二年までの15年間だ。

 まだまだ償(つぐな)いは続く」


「お願いだ! 助けてくれ! 

 いじめているつもりなんてなかった。

 ただ、じゃれていただけ、悪ふざけがすぎただけだったんだよ! 

 お前と俺はご近所さんの幼馴染じゃないか。

 小学校に入る前は、お互いの家を行き来して庭で遊んでいただろう。

 その縁を思い出してくれ。頼むよ!」


「だめだ」


 訳知り顔で、塚元が永井に口添えする。


「彼もいろいろ努力をしているんだ。

 見てみろ、あの体を。

 最初は絨毛も少なかったからすぐ溺れてしまったし、

 脂肪も薄かったから水温をわざわざ上げてやらなければならなかった。

 食事も普通食からだんだん切り替えていって、

 いまでは生魚を丸ごと食べるだけで体がもつようになっている。

 塩分の排出も涙腺からできるようになったから、

 もう真水を飲ませる必要もない」


 言葉の通り、永井の眼からはウミガメが産卵するときのように液体が流れていた。


「次は、足だな。

 イルカのように高速で泳げる大きなヒレができれば

 海中を自由に泳いで敵艦を襲撃できるようになる。

 そのうえで掌に吸盤を形成すれば艦側を這い登れるようになり、

 総裁様の求める[船幽霊部隊]用の兵士が完成する」


「そうですか」


 塚本にうなずいてから、俊樹は永井に命令した。


「博士のおっしゃるとおり、足ヒレを形成しろ。

[真世界への道]に貢献するなら、償いの期間を減らしてやるぞ」


「わかった! 頑張る! 

 頑張るし、苦しくても我慢するから、許してくれ! 

 きっとだぞ!」



――これは、(幼馴染の)友を信じて苦難に耐える(永井貞夫の)物語――



 半魚人もどきにされた永井は俊樹に許しを請うているが、それに効力はない。俊樹は頼まれたとおりの演技をしているだけだ。


 永井たちは彼らの父親に家を傾かせる厄介者だと認定されてしまった。彼らは以前から遊興費として現金を勝手に持ち出したり、母や姉妹のアクセサリーや着物を質に入れたり、それをとがめた彼女たちに暴力を振るうなどの悪行を積んでいた。加えて取り締まり対象である均分主義者となったことがダメ押しとなり、それぞれの家長たちは厄介者の処理を裏の業務とする戸越弁護士事務所に依頼した。そこと縁のある富鳥義光が彼らを受け入れて実験台としたのだ。


 隔離環境で時間をかけて教育した親衛隊の少年たちとは違い、大人になってから引き取った永井たち四人には忠誠心を期待されていない。彼らは義光と礼文が憎む均分主義現実派の手下であるから、なおさらだ。


 そのうえ、永井たちの実家からは処分を依頼されているので、[船幽霊部隊]を作る前に一人二人なら殺しても構わないと塚元は考えた。だから労働力として必要な親衛隊や犬田にはできなかった、耐久性を比較調査するための実験が彼らに行われた。


 最初に投与されたのは犬田の改良神代細胞だ。


 動けないように手足を分厚いコンクリートで固定してから火であぶられ、体を切り刻まれ、電流を流される。彼らは生身ならば息絶えるような苦痛を与えられた。しかし、改良神代細胞の回復力のせいで、四人とも死によって解放されることはなかった。


 彼らにとって残念なことに、犬田の細胞がもたらすのは傷の迅速な回復だけで神代細胞本来の怪力は出ない。


 だから、四人がいくらもがいても手枷足枷を破壊することができなかった。


 抵抗をあきらめて、いくら暴行されても呻くだけになったところで超克細胞が投与される。入れ替えが可能なことは、親衛隊の一員である平塚を実験台としてあらかじめ証明済みだ。そのケースと同じように、運動性能に劣る改良神代細胞は縄張り争いに負けて体外に押し出された。


 これで四人は怪力をふるい枷を壊すことが可能になったのだが、無力感を学習してしまった彼らは今までと同じように脱力して横たわるだけだった。


 そこまでは塚元が期待していた通りだが、彼の予想を超えて精神が蝕まれてしまう。


 死ねない体にされた自分たちは永遠に責めさいなまれることを理解し、絶望した永井たちは心を閉ざした。そのため脳がエーテルエネルギーを生み出す量も減っていき、気づいたときには体を変化させるどころか生命維持がやっとというレベルに落ちてしまっていた。


 これでは[船幽霊部隊]作成に支障をきたす。困った塚元は犬田に知恵を借りた。


 すべては伊吹俊樹の復讐であり、彼が満足すれば罪は許され、永井たちは解放されるかもしれない。そのように犬田に言いくるめられた彼らは、[船幽霊部隊]研究に協力的になった。しかし、塩水に漬けられるなどの苦痛は伴うため、結果としてまたエーテルエネルギーの産生量は落ちる。偽りの希望に信憑性を与えるために、俊樹が呼ばれたのだ。彼は犬田に指導された通りの演技をたびたび永井たちに見せた。


 最初のうちは全員がその設定を信じ、体に変化が起きていた。しかし、稼ぎ手である父に死なれて貧乏になった俊樹には、このような大きな施設で多勢の研究員を雇った実験を行う資金がないことに彼らはやがて思い至った。


 再び絶望した三人の皮膚からは超克細胞が分泌され、体表面を結晶が覆いつくした。それは犬田の改良神代細胞の根源である水晶が、失恋したせいで結晶内に引きこもったのと同じ症状だ。


 だが、永井だけは違った。あまりにも過酷な環境が彼の精神に影響を及ぼしたのか、非現実的な希望に縋りつき、それを真実だと思いこんだのだ。精神が正常ならもっと早く体を変化させることができるのだが、他に適切な候補者はいない。だから妄想症のおかげで一人だけ残った実験体に、塚元は期待を寄せている。


 水槽の清掃が終わり、排水口は閉じられた。水面下で苦しそうに泡を吐き出す永井を俊樹は見下ろすが、とくに感慨はない。


 彼との確執(かくしつ)はあの日、ナイフに頼らず素手で永井を殴ったことで解消された。





  次回に続く。



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