第十話
9月8日火曜日。
礼文から手紙で呼び出された俊樹は、銀座の事務所から研究所まで車を操縦させてもらった。免許取りたてなので少々危なっかしいが、後部座席にいる礼文の指示のおかげで、なんとか事故も起こさずにたどり着けた。
礼文に門の鍵を開けてもらい、彼は敷地内の駐車場に車を止める。
建物に向かって歩きながら、礼文は俊樹に話す。
「さきほど言ったように、
ここで行われている研究は極秘だ。
だから健二くんや香くんにも、まだ話してはならない」
「はい。
少し心苦しいですが、
いずれ適切な時期に
[秘密の首領]さまは情報を公開するようおっしゃってくださるでしょう。
それまで辛抱します」
「私は以前
『なにか隠し事があるからこそ、歪んだ形で自己顕示欲が現れるのだ。
行動原理が歪んでいれば、結果にも悪い影響が出る。
それは君だけの問題ではない。
周囲にいる健二くん、香くんなど、
君を信頼している仲間たちにも被害が及ぶだろう』と君に忠告した。
しかし、今は逆に秘密を作れと命令している。
これについて何か思うところはあるか?」
「いえ、ありません。
[秘密の首領]さまの御言葉をオレは学びましたから。
《矛盾しているように見えても、それには深い意味がある》
《低い段階の魂ではわからないことでも、
修行を積めば理解できるようになるのだ》
と小冊子に書かれています」
「よろしい」
礼文は満足げな笑みを浮かべる。
「では、髪を下ろせ。
今日、君は[真世界への道]幹部としてではなく、
恒星学園における情報収集者として、会話術を学ぶのだ」
「はい……」
言われたとおりにすると、俊樹の表情はやや曇った。
体操を行っている少年たちの横を通り過ぎ、礼文と俊樹は無人の集会室に入った。まず俊樹の目に入ったのは壁に貼られた30枚ほどの人体図だ。リアルなものではなく、輪郭線が謄写版で印刷されている。その内側を赤鉛筆で着色してあるが、塗りつぶされている部位と範囲は一枚ごとに異なっている。多く塗られたものは壁の上部に、少ないものは下部にと貼り分けられていた。
その横を通り過ぎ、礼文は一つの机の前に俊樹を導いた。そこには画用紙と原稿用紙が並べられていた。
「指導員が来るまで、それを読んでいてくれ。
私は執務室で他の仕事をしてくる」
「はい、わかりました」
礼文を見送ってから、俊樹は椅子に座り、まず原稿用紙を手に取る。
それに書かれた文章は整っていて、てにをはの間違いもない。崩し字を使わずにきっちりと楷書で記された文は、真面目な中学生が作成したもののようにみえた。だが内容はあまりにも荒唐無稽に感じられる。
「ええ? 人に同化して傷を瞬時に癒す細胞?」
画用紙にかかれているのは、その細胞を顕微鏡観察した絵らしい。裏返すと、〈根府川〉と署名がある。原稿用紙の文章とも同じ人物が作成したもののようだ。
「そんな、空想科学小説でもあるまいし……
でも、礼文さまが俺に嘘をつく理由なんてないだろうし……」
悩んでいる俊樹の耳に、ドアを開ける音が届く。
入室したのは、半袖の開襟シャツに夏ズボンをはいた中肉中背の男だった。まだ暑いのに、なぜか彼は白手袋をはめていた。七三に分けた前髪は眉毛を隠すくらいに少し垂れ、黒縁の眼鏡をかけている。チョビ髭のせいか年齢がわかりづらい。
「やあ、お待たせしました。
この度、指導係を仰せつかった犬田黒助と申します。
どうぞよろしく」
その落ち着いた物腰から、俊樹は自分よりもやや年上の人だと推測した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
挨拶をかわし、さっそく本題に入る。細胞の件も気になるが、まずは悩みの解決を俊樹は優先した。
「オレはせっかく重要な任務を仰せつかったのに、
それを実行することができないでいるのです。
この試練を乗り越えるために、知恵をお貸しください」
「礼文さまから事情は聴かせてもらいました。
僕は昔働いていたところで
接客と営業の教育を受けていましたので、
その経験からアドバイスさせていただきます。
まずは僕を対象として、
話しかける練習をしてみましょう。さあ、どうぞ」
「……あ、あの……」
とたんに頭が真っ白になった。自分の目的はすでに話した。それ以外、初対面の相手にどんな話題を持ち出せばよいか俊樹にはわからない。
彼がうろたえる様子を犬田はじっと観察している。
てっきり叱られると思ったが、
「なるほど。このような症状になるのですね。
では、その解決策を見つけていきましょう。
こちらから質問するので、
俊樹さんはそれに答えてください」
「は、はい」
優しく対処してくれたので、俊樹はひとまず安心した。
質問と回答を繰り返すうち、俊樹の心はほぐれていく。はい、いいえだけでなく、そう答えた理由も説明できるようになったころ、犬田は次の段階に進む。
「どうも、俊樹さんは少し人見知りの傾向があり、
付き合いのない相手と
当たり障りのない世間話をかわすのが苦手なようですね。
でも、まったく会話ができないわけではなく、
なにか目的があればそのことを相手に伝えることができる。
これを突破口としましょう。
大学生というのは試験対策ノートの貸し借りというものをすると
話に聞いたことがあるのですが、
恒星学園でもそのようなことは行われていますか?」
「はい。
オレも昔は永井とその取り巻きのために
作成させられていました」
「では、それを撒き餌として使いましょう。
あなたのノートを貸してあげるといって、
情報提供者とコネを作るのです」
「それが、その……
あいつらは新しい奴隷件資金源として
月沢という外部生を獲得したので、
最近オレにはノートを求めてきません。
たまにいやがらせをして遊ぶ程度です。
ノート取りを強制されなくなったし、
[真世界への道]の活動もあるしで……
実はほとんど授業に出ていません。
出席日数はギリギリで、
講義を受けても疲れから居眠りをしてしまうこともよくあります。
そんなわけで自分用のノートを作っていなかったので
前期の試験はさんざんでした。
夏休み中に補講と追試も受けましたが、
それは一時しのぎ。
来年一月の期末試験の範囲には前期分も含まれていますし、
後期も同じように勉強がうまくいかなければ留年、
それが二度続けば放校になります。
だから、この際
きっぱり退学して自由を得ようかなと思っていたところです」
「なるほど。
しかし、礼文さまから言いつかった任務のためには
退学なんてもってのほか。
またぞろ補講を受けて追試に挑む手間も惜しい。
最短時間で合格点をとる必要がありますね」
「……はい。
しかし、いまさら悔やんでもどうしようもなくて……」
「いえ、
これこそ[秘密の首領]さまが与えてくれたチャンスです。
『留年してしまいそうだから、試験対策ノートを貸してほしい』と
頼んで回ってください。
これだけ切実な目的があれば、
俊樹さんの人見知りも克服できるでしょう」
「ええっ!
そんな、ずうずうしい。
まともに口きいたこともない相手に頼むようなことじゃありませんよ!
絶対に断られます!」
「断られてからが、本格的な営業の始まりです」
そういって、犬田は微笑んだ。柔和な表情だが、俊樹には彼を地獄に送りこもうとする悪魔の笑みに見えた。
「世の中には
頼みを断ると何か悪いことをしたような気分になる人がいます。
そんな人を探すんですよ。
たとえ一回は断れたとしても、
何度も何度も頼まれているうちに耐えきれなくなる。
英文学部には何人いるんですか?」
「……40人です……」
「そのうち、俊樹さんをいじめている奴らは何人?
外部生は何人? 」
「永井の取り巻きは5人……外部生は3人」
「俊樹さん本人も引くと、残りは31人ですか。
では、明日中に[目的]を達成してください。
そのうちにやる、一日に4,5人ずつ声をかけて慣れていく。
なんて甘い心構えではだめですよ」
「え、その……急すぎて……あの、できれば」
弱気になる俊樹の肩をつかみ、犬田は目を合わせた。
「絶対に明日やるんです。やりぬくんです」
メガネレンズを通してだが、その強い眼光は俊樹の心を突きさす。
「は、はい」
「声が小さい!」
至近距離で叱られた俊樹は、思わず首をすくめた。
「姿勢が悪い! 立って。背筋を伸ばして」
「はい!」
反射的に立ち上がり、俊樹は言われたとおりにした。
「さあ、腹の底から声を出し
[秘密の首領]さまに誓うのです!」
「はい!
明日、試験対策ノートを入手するため、
オレは同級生たちに嘆願してまわります!」
絶叫してから、俊樹は犬田に目を向けた。なぜか、彼は意表を突かれたような顔をしている。
「あ、あの。オレ、なにか変なことを言いましたか?」
「いや、上出来です。
僕の予想を超えて、俊樹さんは良い誓いを立てました」
「?」
「話の流れに飲まれていれば、
『31人全員に声を掛けます!』と誓ったでしょう。
しかし、それは手段に過ぎない。
断られることに慣れるという意味もありますが、
今回の目的はノートを入手して試験に一発合格をし、
時間の浪費を防ぐということ。
手段と目的を取り違えて無駄な努力をするなど、
もってのほかです」
「あ、それでは誰かにノートを貸してもらえれば、
そこで声掛けは終わりにしていいんですか?」
「そうですね。
確保できたのに他の人からも借りようとしたら、
まるでそのノートを信用していないようで
相手に良い印象を与えませんから」
「……よかった……」
「まあ、[秘密の首領]さまの加護を祈ってください。
それでは、僕はこれで」
紙束をまとめて立ち去ろうとする犬田を俊樹は引き止めた。
「すみません……
ここで行われている研究のことでお尋ねしたいんですが」
「ああ、原稿用紙に書かれた内容に疑問を持ったんですね」
先ほどとは異なる、いたずらっ子のような笑みを犬田は浮かべた。
手にした紙束を机に置き、それとは別の机に彼は右手をのせる。
「では現物をお見せしましょう」
胸ポケットから左手で万年筆を抜き、犬田はペン先を自分の右手に深く突き刺した。万年筆を机に置き、左手で傷口を広げて見せる。インクと血の混じった液体が滴った。
「ほら、この通り」
傷口は瞬く間に塞がっていく。
「お判りになりました……か?」
血とインクを鼻紙で拭き取った犬田の表情は少し得意げだったが、それは一瞬だけだ。
「え、それは」
俊樹がトートバックから出したジャックナイフを見て、彼は後ずさる。
「あの、厚かましいお願いで申し訳ないんですけれど」
俊樹はナイフの刃を開いた。
「手品という可能性を否定するため、
オレに切らせてもらえませんか」
「けんっ、けふけふ」
その名の通りに犬が咳こむような笑い声をあげてながら、犬田は紙束から更に離れた位置に移動した。机にハンカチと鼻紙を敷いて、その上に右手を置く。
「ずいぶん慎重な性格ですね。
さあ、どうぞ。血や傷口に触れな」
彼の言葉が終わるのを待ちきれず、俊樹は行動を起こす。
「では失礼して」
ヒュン
ナイフは正確な軌道で犬田の頸動脈を狙った。
その刃を、犬田は床に倒れこんでかわす。同時に椅子を俊樹に向けて蹴り飛ばした。
思わぬ反撃をくらい、俊樹はよろける。
斜めに転がった犬田は立ち上がりざまに素早く別の椅子を取り、それを俊樹に突きつけて盾とした。
「いきなり、なにをするんですか!」
「……すいません。
傷が治るんだったら死なないし、
別にかまわないかなって思って……
独学で練習した技を実際に試してみたかったんです」
「かまってくださいよ!
首を切られたら、ものすごい勢いで血が吹き出るんですよ!
掃除をする身にもなってください!」
「ああ、それは礼文さまにも言われたことがあります」
「まったく、もう」
苦笑しながら、犬田は椅子を下ろした。ハンカチと鼻紙の位置を整えてから右手を置き、反対の手で前腕を指し示した。
「はい、ここ。ここを切ってくださいね。
それから、
さっきも言いかけましたが血や傷口に触らないでください。
まだ研究段階なので投与する対象は事前に審査する必要があるんです。
勝手に細胞を分け与える権限を僕は持っていません」
「わかりました。では改めて」
ゾリ
よく手入れされたエッジは皮膚を裂き、肉を4センチほど削いだ。
「痛てててて」
血を滴らせながら、長細い切り身が下に垂れる。
「もうちっと遠慮してくださいよ」
「……すごい……」
犬田の声も耳に入らず、俊樹は切り身を引き寄せながら塞がっていく傷口を凝視する。
「いいなあ、オレも欲しいなあ。
これなら警官に撃たれても戦闘不能にならない。
敵を殺して、殺して、殺し続けてやる……って」
つい、過激な本音を漏らしてしまったことに気づいた。俊樹は慌てて犬田の顔色をうかがう。だが、そこに非難の色はない。
「敵と徹底抗戦する覚悟を決めているとは、
さすが[真世界への道]幹部ですね」
頸動脈を狙われたときは動揺していたが、すでに犬田は落ち着きを取り戻している。そして襲われた際には実践的な体術をみせてくれた。
「でも、今は静かに勢力を拡大していく時期です。
たとえ嫌なことがあっても耐えしのび、
最終決戦まで力を温存してください」
「はい。自重します」
俊樹は彼を[真世界への道]の発展のために働く有能な人物として尊敬し、その言に従った。
犬田黒助の本名が新田音矢であること、そして彼が本来の目的としていることを俊樹は知らない。
次回に続く




