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やべえ客がきた!


 「いらっしゃいませ!」



 潤は、トレードマークであるニコニコ笑顔で入り口のドアを開けた。


堺市にある、駅から徒歩5分の小さな美容室『BIRD HOUSE』。潤が一人で切り盛りする、セット面が二つだけの完全予約制プライベートサロンだ。


 43歳ながらも日頃からジムに通って体型を細マッチョに仕上げたり、肌にも気を遣うなど清潔感のある容姿を常に気にしているため実年齢より若く見える。髭をきれいに揃えたそのダンディな風貌は優しい紳士といったところだ。不器用さはあるも人の懐に入る愛嬌と、放っておけない情の厚さだけでここまで生きてきたと言える。



 そんな潤の店に、今日の午後、お世辞にも「歓迎すべき」とは言えない足音が響いた。


「あ~、ちょっと予約の時間遅れてもうたけど大丈夫やんな?」

入ってきたのは、新規の顧客である佐藤さとう 香澄かすみ52歳。

厚化粧が目につき、その低い声と話し方は気が強い気配を漂わしている。


派手なブランドもののバッグをカウンターにドンと置き、悪びれる様子もなくスマホをいじっている。予約時間は30分も過ぎていた。


「佐藤さんですね! お待ちしてました。次のお客様まで少し時間がありますから大丈夫ですよ。どうぞこちらへ!」

潤は嫌な顔一つせず、いつものニコニコ笑顔で席へ案内した。

しかし、トラブルの火蓋がきられるのはここからであった。


「今日はどうされますか? カットと久しぶりのカラーとお聞きしてますが」


「そうそう。肩下まで5センチぐらい切る感じで…

せやな、カラーはなんか適当に若返る感じで頼んどくわ。


あと、これ、預かっといてや」


佐藤が差し出してきたのは、なんと6個入りの箱に入ったアイスクリームだった。


「えっ、アイスですか?」


「そう、そこのスーパーで安かったからね。ハーゲンダッツ好きなんよ。冷凍庫あるでしょ? 入れといてや。あ、それからカラー中にお腹空くやろうし、お茶と、何か食べるもんちょうだい。ちゃんとしたやつやで。」

潤は一瞬フリーズした。


(ちゃんとしたやつって何やねん!美容室はカフェちゃうがな。自分で買ったハーゲンダッツをなぜ食べへんねん!)


そもそも他人の冷凍食品を預かる義務もない。常識的に考えれば「当店ではちょっと……」と断る場面だ。


だが、潤の脳内コンピューターは一瞬で切り替わりプロのスイッチが入る。


「了解です! アイスは店の奥の冷凍庫に入れてきますね。じゃあ、カラー中は僕のおやつのとっておき、出しちゃいます!」

(ふう、やれやれ俺の3時おやつを献上するかあ…)



 そして施術開始から時は流れ…

潤は器用に佐藤の髪をブロッキングしながら、バックヤードから自家製のプリンと、こだわりのコーヒーを運んできた。


「おっ、気が利くやん!」


佐藤は当然のような顔で潤の楽しみにしていたプリンを口に運ぶ。感謝の言葉はない。

(まあ今度からはストックも兼ねて多く作っておこう。ってめちゃくちゃ旨そうに食べるなこの人。

太っているのもあるせいか可愛く見えてきたがな…イノシシみたいやんか)


 そのイノシシみたいな佐藤は施術中、口からヘヴィマシンガンという名の「毒吐き」が続いていたがこんな感じだった。

「だいたいやで、うちの旦那、50過ぎてんのに全然稼ぎが良くなくてやで、息子も就職浪人やし。

あ、ちょっと! 冷たいがな! 雑に塗らんといてや、あんた!」

「あ、すみません! 薬剤が頭皮に触れると一瞬ヒヤッとしますよね。少し温めてから塗りますね」

潤は常に笑顔を絶やさず、イノシシのような佐藤に相槌を打ち続けた。


どんなに理不尽な文句を言われても、「へえー、それは大変でしたね」「佐藤さん、毎日頑張ってらっしゃるからですよ」と、彼女の言葉の裏にある「寂しさ」や「ストレス」をすくい取るように話を聞いた。


しかし、本当の事件はシャンプー台で起きた。


 「お湯加減、いかがですか?」

「ちょうどええで……うぅーーむふぅー」


あんなにトゲトゲしていた佐藤が、潤の丁寧なヘッドスパのようなシャンプーに、すっかりリラックスして目を閉じており、イノシシのような声を出している。


悲劇は、潤が仕上げのトリートメントを流し、彼女を起こした時に起きた。

「……あ」


佐藤の着ていた白い高級ブラウスの襟元に、わずか数ミリだが、黒いカラー剤のシミがついていたのだ。

おそらく、彼女が施術中に激しく身振り手振りでイノシシのように身をよじった際、ケープの隙間から薬剤が入り込んでしまったのだと考えられた。


気づいたのは佐藤が先だった。鏡を見た瞬間、彼女の顔が般若のような激おこイノシシに豹変した。

その怖さはもののけ姫に出てくる巨大な猪神のようである。


「ちょっと、これ何やねん!? 私のお気に入りのブラウスやねんけど! 弁償してや! やっぱり個人経営の安い店はあかんわ、技術がなってないわ!」


店内にとげとげしい怒号が響く。完全に佐藤の「常識のなさ」と「八つ当たり」が爆発した形だった。

普通なら、毅然と非を認めつつも事務的な対応に終始するだろう。下手をすれば大喧嘩だ。


だが、この男中山 潤は違った。

彼は深く頭を下げた後、まっすぐに佐藤の目を見た。その目は、怯えでも怒りでもなく、心からの心配に満ちていた。

「佐藤さん、本当に申し訳ありません。大切な、とってもお似合いのブラウスなのに……。でも、大丈夫です。僕に15分だけ時間をください」


「はっ?兄ちゃん、3キロマラソンでもすんの? 15分ってなんや!それで何ができんねん!ウルトラマンが5回死ぬだけや、それともお詫びにカップヌードル5回作ってきますゆうんか!このカップヌードル野郎!」

(ぐっ、我慢我慢。なんでカップヌードルやねん)


「僕、実は独身生活が長くて、染み抜きの技術だけはクリーニング屋並みなんです。僕がこのシミ、絶対に消してみせます。もし消えなかったら、もちろん全額弁償します。信じて、僕に預けさせてください」


潤はそう言うと、ダンディズムの満ちたニコッとした笑みを見せた。その笑顔には、不思議と興奮するイノシシを落ち着かせるような絶対的な愛嬌と人情が詰まっていた。


佐藤は面食らった。激昂する猪突猛進な自分に対して、この男はどこまでも誠実で、どこか憎めない空気をまとっている。


「……フン、15分や。消えへんかったらタダじゃおかんで」


 マジックタイム発動だ。


潤は猛烈な勢いで染み抜きを始めた。


バックヤードから取り出したのは、プロ用の洗剤と、秘密の裏技である重曹と漂白剤。

「頼むよ頼むよ……カモーン!」


心の中で念じながら、歯ブラシでトントンと叩く。ただ作業としてやるのではない。お客さんの笑顔を作るのが潤の信念であり使命だ。それは佐藤の「今日一日を台無しにしたくない」という執念だった。たとえ荒ぶるクレーマーのイノシシであっても。


10分後。潤は濡れた襟元をドライヤーで乾かし、席へ戻った。

「佐藤さん、お待たせしました!」


差し出されたブラウスを見て、佐藤は目を見張った。


どこをどう見ても、黒いシミは跡形もなく消え去り、むしろ洗剤の良い香りでふんわりと仕上がっている。

「嘘!……消えてるやんか」

「やりました! 僕の染み抜きスキル、伊達じゃないでしょ?」


潤は自分のことのように親指を立てて笑った。


その後、潤は心を込めてブロー仕上げを行った。


鏡の中に映る佐藤の髪は、ツヤツヤとした上品な栗茶色に染まり、実年齢より遥かに若々しく、華やかに変身していた。


鏡を見た佐藤は、しばらくじっと自分を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。その表情からは、先ほどまでの刺々しさが完全に消えていた。


「……あんた、大したもんやね。まあ文句ばっかり言って悪かったわ。プリン美味しかったわ、コーヒーは普通やけど」


「とんでもないです! 佐藤さんが綺麗になって、僕も本当に嬉しいです。あ、これ、冷凍庫のアイスです。忘れないでくださいね!」


潤が袋を渡すと、佐藤はふっと吹き出した。

「お会計、いくら?」


「本日はご迷惑をおかけしたので、カラー代は半額にさせていただきますね」


「はっ?何言ってんの。きっちり取りや。その代わり、また再来月も来るから。……その時も、あのプリン作っといてや」


(げっ!!このイノシシやっぱまた来んのかい!特別待遇確定やないかい!)


「はい! 喜んで!」

プロのポーカーフェイスの潤はとびっきりの笑顔でこのイノシシを送り出すのであった。



読んでいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
普段は市販のものを買って自分で染めていますが、お話を読んでいたら久しぶりに美容院でカラーリングしたくなりました。いいお話ですね(^^)
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