第8話 帰還する弟と、公国の意思
エーヴェルハルト公国――王城。
かつて“公爵邸”と呼ばれていたその場所は、わずか数日で完全に姿を変えていた。
人の出入り。
書類の山。
各地から届く報告。
それはすでに、一貴族の屋敷ではない。
――国家の中枢だった。
◇
「……ずいぶんと騒がしいな」
低く落ち着いた声が、廊下に響いた。
その場にいた侍従たちが、一斉に振り返る。
「お帰りなさいませ、アルヴェイン様」
深々と頭が下げられる。
現れたのは、一人の青年。
黒髪に整った容貌。
そして、どこか冷えたような視線。
アリアベルの弟――アルヴェイン・フォン・エーヴェルハルト。
長く多国留学していた彼が、帰還したのだった。
「父上は?」
「執務室にて、閣僚会議の最中にございます」
「……そうか」
短く答える。
だがその足は、迷いなく執務室へ向かっていた。
◇
「――以上が現時点での状況でございます」
宰相の報告が終わる。
室内には、公王、公妃、そして数名の中枢人物。
重い沈黙が流れる中。
「失礼いたします」
扉が開いた。
全員の視線が一斉に向く。
「……戻ったか」
公王が淡々と告げる。
「はい、父上」
アルヴェインは一礼した。
その動作は完璧で、無駄がない。
「状況は」
「概ね把握しております」
即答だった。
公妃がわずかに目を細める。
「随分と早いのね」
「帰路の時点で情報は集めておりましたので」
簡潔な答え。
そして。
「……姉上は」
一瞬だけ、声が変わった。
「あの子なら、旅に出ておりますよ」
公妃は穏やかに答えた。
「そうか」
それだけ。
だが、その一言にわずかな安堵が混じる。
◇
「では、改めて確認する」
公王が口を開いた。
「現状について、どう見る」
試すような問い。
アルヴェインは一歩進み出た。
「結論から申し上げます」
間を置かない。
「――王国は、すでに詰んでおります」
室内にわずかな緊張が走る。
「理由は三点」
指を一本立てる。
「第一に、兵站依存の過多」
二本目。
「第二に、信用基盤の喪失」
三本目。
「第三に、意思決定の遅延」
すべて即答。
「特に第三は致命的です。王太子は現状を理解しておらず、王妃および宰相は理解しているが、統制が取れていない」
宰相がわずかに視線を向ける。
「加えて」
アルヴェインは続ける。
「各貴族がすでに“自己判断”に移行しております。これは国家としての統合が崩れ始めている兆候です」
沈黙。
だがそれは否定ではない。
「……続けろ」
公王が促す。
「はい」
「軍事面では、我が公国が抜けた時点で戦力バランスは崩壊しております。仮に王国が戦争を選択した場合――」
一拍。
「勝敗以前に、戦線維持が不可能です」
断言。
「経済面も同様。物流が遮断された時点で、市場機能は時間の問題で麻痺します」
「金融は?」
公妃が問う。
「すでに移行が始まっております。公国側通貨・手形への依存が進めば、王国通貨は実質的に価値を失います」
完全な分析だった。
◇
「……つまり」
公王が静かに言う。
「戦うまでもない、と」
「はい」
アルヴェインは迷いなく答えた。
「王国が崩壊するのを待つだけでよろしいかと」
冷静すぎる結論。
だが。
「それでは不十分だ」
公王は即座に否定した。
「……承知しております」
アルヴェインも頷く。
「重要なのは“その後”です」
「そうだ」
公王の視線が鋭くなる。
「我らは単に離脱したのではない」
一拍。
「――新たな中心となる」
その言葉に、空気が引き締まる。
「そのためには」
アルヴェインが続ける。
「周辺諸国との関係構築が最優先かと」
「すでに動いている」
宰相が淡々と告げる。
「各国とも、我が国を“安定した取引相手”として認識し始めております」
「当然でしょう」
アルヴェインは即答する。
「そして」
わずかに間を置く。
「――姉上が、その象徴として機能しております」
公妃が微笑む。
「ええ。あの子は、どこへ行っても人を惹きつけるもの」
「……ええ」
アルヴェインは小さく頷いた。
その表情に、わずかな柔らかさが浮かぶ。
「問題はありません」
きっぱりと言い切る。
「姉上がいる限り、公国の評価は下がらない」
それは確信だった。
◇
「……よかろう」
公王が静かに告げる。
「では、お前は何をする」
試すような問い。
アルヴェインは一切迷わない。
「姉上の護衛に向かいます」
即答だった。
室内に、わずかな沈黙。
「理由は」
「単純です」
アルヴェインは淡々と続ける。
「姉上に万が一があれば、公国の価値は半減する」
一拍。
「それに」
ほんの僅か。
声が柔らぐ。
「――不愉快ですので」
公妃がくすりと笑った。
「相変わらずね」
「合理的判断です」
表情は変わらない。
だが。
それを信じる者は、ここにはいない。
「許可する」
公王が短く告げる。
「はい」
アルヴェインは一礼した。
その目は、すでに次を見ている。
◇
その頃。
「……次はどこへ参りましょうか」
私は地図を眺めながら呟いていた。
その背後で。
静かに。
確実に。
ひとつの影が動き始めていた。
――過保護な弟が、こちらへ向かっているとも知らずに。




