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婚約破棄?どうぞご自由に。無能な王太子に捨てられた公爵令嬢ですが、父が王国を見限って独立したので私は優雅に旅に出ます  作者: 翡翠


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第5話 公王の名と、その娘という存在

 ラウゼンの街の夜は、昼とは違う賑わいを見せていた。


 灯りに照らされた石畳。

 静かに音を奏でる楽団。

 そして、整えられた礼装に身を包む人々。


 私たちは、街の有力商会が主催する夜会へと招かれていた。


「……ずいぶんと本格的ですわね」


「“ささやか”とは何だったのかしら」


 セレスティナが苦笑する。


 確かに、規模としては王都の中級貴族の夜会と遜色ない。


「情報収集の場でもあるのだろう」


 ルシアンが周囲を見渡しながら言う。


「公国独立の件で、各方面が動いているはずだ」


「なるほど」


 私は軽く頷いた。


 そういう意味では、ちょうどよい機会かもしれない。


 ◇


 会場に入った瞬間。


 ――空気が、変わった。


 視線。


 無数の視線が、一斉にこちらへ向けられる。


「……やはり、知られておりますわね」


「当然だ」


 ルシアンが小さく答える。


「昨日の今日で、しかもあの規模の出来事だ。知られていない方がおかしい」


 ひそひそと交わされる声が、耳に入る。


「――あれが」

「公王の……」

「間違いない、エーヴェルハルトの……」


 公王。


 その呼び名に、わずかに意識が向く。


 そういえば、正式にそうなりましたわね。


 けれど。


 実感は、あまりない。


「アリアベル様」


 主催者の商会長が、深々と頭を下げた。


「この度はお越しいただき、誠に光栄に存じます」


「ご招待、感謝いたしますわ」


 形式的な挨拶を交わす。


 だが、その直後。


「すでに、各国から問い合わせが来ております」


 商会長が小声で告げた。


「問い合わせ?」


「はい。エーヴェルハルト公国との取引について、優先的に窓口を確保したいと」


 ……早いですわね。


 昨日の今日で、ここまで動くとは。


「各国とも、公王陛下のご判断を非常に高く評価しております」


 別の人物が会話に加わる。


「“感情ではなく、構造で国家を切り離した”と」


 周囲の者たちも頷く。


「王国側は、完全に後手に回っているとの見方が大勢です」


「……王国は、すでに“選ばれる側”から外れた」


 その言葉に、空気が確定する。


 そして。


 視線が私に集まる。


「公王のご息女であるあなた様は――各国にとって最も注視すべき存在でございます」


 ……大げさですわね。


 ◇


 ――その頃。


 王城。


「……これは報復ではない」


 宰相の報告が一段落したところで、低い声が静かに響いた。


 いつの間にか、その場に立っていた男――


 エーヴェルハルト公王。


 その存在だけで、空気が変わる。


「誤解のないよう申し上げておくが、我が国は王国を“敵”として扱っているわけではない」


 王太子が顔を上げる。


「な、ならば――」


「不良な取引先を切っただけだ」


 淡々とした一言。


 しかし、それは国家の命脈を断つ言葉だった。


「……理解が及んでいないようだな」


 公王はわずかに視線を動かした。


「よかろう。数値で示そう」


 誰も口を挟めない。


「我がエーヴェルハルト公爵家が王国に在った際、その軍事力は王国総戦力の四割に匹敵する」


 空気が凍る。


「……四割、だと……?」


「正確には常備戦力の三割強、動員時には四割を超える。西方防衛の実態は、我が家単独で担っていた」


 王太子の顔が引きつる。


「兵数で言えば、我が領の正規兵および騎士団で約三万。対して王国側に残る各貴族の私兵は、最大でも数千単位に過ぎん」


 逃げ場のない現実。


「質も同様だ。訓練度、装備、統率。いずれも比較にならん」


 公王は一切声を荒げない。


「加えて」


 一拍。


「我が家は穀倉、交易、金融の結節点を担っていた」


 宰相ですら、言葉を挟まない。


「王国に流通する資金の相当割合は、我が領を経由していた。信用もまた同様だ」


 それはつまり。


 王国は“回っていた”のではない。


 回されていたのだ。


「……つまり」


 王妃が静かに問う。


「軍事、経済、金融。すべてにおいて中枢であった、と」


「その通りだ」


 即答。


「それを失った」


 それだけで、結論だった。


 沈黙。


 誰も反論できない。


「王国が戦争を望むのであれば」


 公王が淡々と続ける。


「受けて立とう」


 その言葉に、空気が張り詰める。


「だが覚えておけ」


 静かな声。


「戦う前に崩れるのは、どちらか」


 それは威圧ではない。


 事実の提示だった。


 そして。


「我が家の祖は、初代国王の王弟である」


 場が再び凍る。


「ゆえに、建国の折に取り決められている」


 一拍。


「――王国が腐敗したとき、我らはこれを離れる、と」


 王妃の瞳がわずかに揺れた。


「今回の件は、その履行に過ぎん」


 静かに言い切る。


 それは反逆ではない。


 正当な権利の行使。


「……以上だ」


 公王はそれだけ言うと、興味を失ったかのように視線を外した。


 ◇


「……ねえ、アリアベル」


 夜会の片隅で、セレスティナが小声で言う。


「あなたのお父様、やっぱり規格外よね」


「そうかしら」


「そうよ」


 私は軽く笑った。


「まあ、お父様ですもの」


 それ以上でも、それ以下でもない。


「あなたも大概だけどね」


「褒め言葉として受け取っておきますわ」


 そのとき。


「やはり、予想通りですね」


 イシュレルが静かに言った。


「公王は“恐れられる存在”ですが」


 一拍。


「あなたは、“選ばれる存在”です」


 私は少しだけ目を細めた。


 ……よく分かりませんわね。


 けれど。


「――せっかくの旅ですもの」


 私は微笑む。


「楽しまなければ損ではなくて?」


 その言葉に、空気が柔らぐ。


 だが同時に。


 その場にいた全員が理解していた。


 この少女は。


 ただの公女ではない。


 ――世界が、選びに来る存在だと。

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