第156話 屍を越えて
アノンの亡骸をそっと床に横たえ、私は立ち上がった。
涙はもう流れていない。私の瞳に宿っているのは、殺意。かつて「破星」と呼ばれた時代の、凍てつくような殺意へと、強引に精神を押し込める。
精神融合していなかった昔の冷徹な力でしか、私には、この父をとても討てそうにはない。
仲間はみんな逝ってしまった。地球を救うという大義にその命を燃やし尽くしたのだ。
そして、この父もまた、その為に自らの死を望んている。
心がある状態で、昔のようにふるまえば、私の心は……
どうなるのだろう。
たとえ私の精神が壊れようと、仲間たちの思いを成し遂げるために、今は破星の冷徹さこそが必要なんだと、自分で自分に言い聞かせる。
私は覚悟を決めて、懐から、血に汚れた一つの黒い端末を取り出した。
亡きナンバー2――レイラから託された『要塞管理端末』。
「……父であり、師であり、今は人類の未来を阻む最大の敵であるあなたに。引導を渡す。それが、貴方の本当の望みなのでしょう、ゼロ」
星の代行者と化した総帥が、無機質に、首をわずかに傾げた。その銀色の回路模様が走る顔面には、かつてのゲーレン総帥の面影が、皮肉なほど精緻に残っている。
「私はナイン。そして貴方はゼロ。隕石迎撃のための特務機関『ゲーレン機関』の創設者にして、すべてを賭けて、星に反逆したシナリオライター。……『ゼロ』、それこそが、の機関内個体認識ナンバー」
『敵個体の生体反応に、極度のストレス係数を検知。……お前に勝ち目はない。無意味な抵抗だ』
何重にも重なり合った合成音声が、総帥の喉を震わせて響く。
「いいえ。これからが、貴方が私に叩き込んだ『生存技術』の、本当の極限よ」
私は端末の液晶を指先で弾き、バックグラウンドで眠っていた、ある一つの強制コマンドを呼び出す。
それは、合理性の極北であり、最短距離で殺すという人類の狂気。
『何をする気だ。人間という脆弱なシステムが、星の意志に勝てる道理などない』
総帥の背中から、ナノマシンが結晶化した六枚の放熱翼が爆音と共に展開した。超加速の予備動作。物理的な間合いを一瞬で詰め、私の指先を端末ごと消し飛ばす算段だ。
「――始めましょう、最後の授業を!」
ドォォォォンッ!!
二つの影が、同時に爆ぜた。
人間を超越した速度での、完全な物理的激突。
総帥の繰り出す拳は一撃で音速の壁を突破し、発生した過圧衝撃波だけで、周囲の分厚い隔壁を飴細工のように拉ぎ、瓦礫を粉砕する。
私は、その超音速の拳を紙一重で回避した。
しかし、回避したはずの空間の空気が、異常な高圧で私の体を圧迫する。総帥の放ったのは魔法ではない。ナノマシンによって細胞密度を極限まで高められた肉体が放つ、純粋な質量と運動エネルギーの暴力――旧世界の古武術『浸透勁』の科学的再現だ。
私の身を捻り回避するが、今度は死角を完璧に突いて、総帥の容赦のない蹴りが放たれた。
ナノスーツの分子密度をミリ秒単位で最大硬化させ、衝撃を受け流そうとしたが、圧倒的な運動エネルギーがそれを強引に貫通する。
バキキ、と私の体内で肋骨が数本へし折れる鈍い音が響いた。
「がはっ……っ!」
肺から強制的に空気が搾り出され、私は砲弾のように吹き飛ばされる。だが、意識が遠のく前に、空中で回転し、壁を蹴って体勢を整え滑るように床へ着地した。
しかし、代行者はその軌道すらも完全に先読みしていた。
着地した私の眼前に、すでに銀色の残像が肉薄している。息を吸う暇すら変えず、総帥の鋭利な手刀が、私の頸椎を粉砕せんと突き出された。
(――後退は不可能。前へ出ろ!)
私はナインとしての冷徹な演算に従い、あえて手刀の軌道へと顔を突き出すように身をよじった。
肉を切り裂く生々しい音が響く。手刀は私の喉元をわずかに掠め、致命傷こそ避けたものの、そのまま横なぎに放たれた第二撃が、私の胸元をナノスーツごと深く切り裂いた。
私の着ていた服が、溢れ出た鮮血で一瞬にして赤く染まってゆく。
「くっ……あ、あぁ……!」
『お前の戦術、体術の癖、思考パターン。そのすべてを私は把握している。お前の腕で、この私を殺すことはできん。……生存技術を教えたのは、他ならぬこの私だからな』
代行者となったゲーレン総帥は、かつての教室でチョークを握っていたころの教官のように、冷酷に、そしてどこか懐かしむように私を見下ろした。
私は苦し紛れに、右ストレートのカウンターを放つ。だが、総帥はそれを最小限のヘッドスリップでいとも簡単に躱し、逆に私の腹部へ強烈な膝蹴りを叩き込んだ。
「ごふっ……!」
再び内臓が破壊されるような衝撃。
すでに骨は折れ、出血は酷い。極限状態の脳内物質が分泌されているため、痛みこそ麻痺しているものの、出血多量による血圧低下で、私の体術のキレは確実に、致命的に悪くなっていた。視界の端が、じわじわと黒いモザイクで侵食されていく。
総帥は容赦なく、機械的な連続技を繰り出してくる。
風を切り裂く手刀が、私の衣服を、肉を、さらに深く引き裂いていく。その激しい猛攻の最中、破れた私の服のポケットから、一冊の小さな古いノートが零れ落ち、血に濡れた床を滑りながら離れた場所へと転がっていった。
精神の力でどれほど痛みを遮断していようとも、少女の華奢な肉体というハードウェアのほうは、すでに限界を迎えていた。
(……これまでか。否、まだだ。まだ、私は死んでいない。生存確率がゼロになるその瞬間まで、足掻き尽くせ! それが生存技術の本質)
相手が総帥では、近接戦闘での勝ち目が極めて薄い事は明らかだった。
勝てない敵に格闘戦を挑むなど、まだ、生存技術が足りない……生存技術とは、戦うことではない、いかなる手段を用いても、立ち塞がる敵を倒し、自分が生き残ることだからだ。
まだ、心のどこかにリオの甘さの残滓が残っている。本当は彼と戦いたくないという。
お前にはあるではないか、相手を即座に沈黙させる方法が。
理性が私を、極限へと追い詰める。
消し去るんだ!
良心もなにもかも要らない、今は破星に戻れ。
相手がたとえ実の親だとしても、何も躊躇するな。
今すぐに、決意しろ。さもなくば、死……
最後の気力を振り絞り、大きく距離を取ると、血まみれの手で『要塞管理端末』を強く握りしめる。
私は、迷う心を捨て相手を倒す事だけに全ての思考を集中する。
『ほう、意図が読めるぞ……ゲーレンの記憶にある、これか』
すると、対峙する代行者――ゲーレン総帥もまた、その右手に全く同じ形状の黒い端末を構えた。
私は直感した。
奴もまた、この端末に仕込まれている『真の機能』を、総帥の記憶から探り出したようだ。
かつて、テロリストと化した仲間を屠った、非人道的な一撃。かつてのナインであれば、確実に選択し実行したであろう最終手段。
代行者もまた、無駄な格闘など経ずとも私を即座に屠ることが可能だと理解したのに違いない。
そして、私と総帥が相対した場合だけの、特別なルール。
今や、私と総帥の二重承認は不要だ。
とすれば、これは、早撃ち勝負。 私が端末でコードを入力し、エンターキーを押すのが先か。奴が先か。
私と代行者は、互いの端末を構えたまま、ぴたりと動きを止め、睨み合った。
一瞬の時が、永遠にも思えた。
どちらかが少しでも動けば、勝負は決する。
その、張り詰めた静寂の刹那だった。
背後で、ダメージの蓄積により限界を迎えていたアノンの大破強化外骨格――ギガント・フォートレスの残骸が、凄まじい大爆発を起こした。
ドガァァァァンッ!! 空間を震わせる轟音。
その凄まじい爆風が、私の黄金の髪を激しくなびかせ、燃え上がる紅蓮の炎が、物言わぬアノンの遺体を、そして私と父の姿を赤々と照らし出す。
その爆発の光が合図だった。
私と代行者は、相手を抹殺するべく、端末への超高速入力を同時に開始した。
機械的な電子音が、爆音のなかに細かく刻まれる。
さらなる誘爆が起こり、熱い爆風が私と代行者の間を吹き抜けてゆく。
その風に揺られ、床に転がっていた、私の血で赤く染まったあの小さなノートのページが、パラパラと、まるで意志を持つかのようにめくられていった。
開かれたのは、ある一つのページ。
かつて、不器用な男が、娘に宛てて遺した、殴り書きのメッセージ。
『――許さなくていい。だが、生きろ』
ただ、それだけの文字だった。
冷徹な『星』のシステムには、何の意味も持たない不合理な文字列。
しかし、その瞬間、星の代行者の指先が、ほんの、ほんの一瞬だけ、凍りついたように止まった。
超高度な構成システムの中に、ゲーレンという人間の情念がもたらした、最大級の『エラー』が走ったのだ。
「……っ!」
処理の、わずか数ミリ秒の遅延。
だが、私は止まらない。
ナインとしての極限の合理性が、そのコンマ数ミリ秒の隙を絶対に見逃さなかった。
私は迷わず、指先で『0番』を押し込み、端末のエンターキーを、親指で強く叩き込んだ。
「こうするしかっ……!」
ドムッ……!!
派手な爆発音ではなかった。
体内爆弾が炸裂し、内臓と骨格、そしてゲーレンに寄生する星の中枢システムをも、内側から物理的に粉砕する、鈍く、重い音。
「ガ、アァ、あ……っ……」
代行者の背中から生えていた銀色の翼が、根元からガラスのように砕け散った。
その両目から放たれていた不気味な赤い光が、急速に光量を失い、減衰していく。
神の力が剥ぎ取られ、ただの老いた男の肉体へと戻っていく総帥が、糸の切れた人形のように、膝から床へと崩れ落ちた。
私は、破れたナノスーツの間から血を滴らせながら、激しく肩で息をし、倒れ伏す父を見下ろした。
総帥は口からどす黒い血へどを吐き出しながら、仰向けに転がっていた。
その瞳からは、すでに星の無機質な虚無は消え去り、かつて私を厳しく、しかし確かに導いてくれた、あの穏やかで鋭い理性の光が宿っていた。
「……見事だ、我が、娘よ……」
掠れた、しかし、紛れもない、私の知る師の声だった。
彼は、自分がなぜ敗北したのか、その理由をすべて悟っているようだった。
「躊躇いなく……生存のために、親を殺したな。……それでいい。それこそが、私の教えた、生存技術の、極致だ……」
総帥は、痙攣する右腕を最後の力を振り絞って持ち上げ、私の方へ向けて、不器用に親指を立てた。
それは、一人の優れた軍人に対する最大の称賛であり、そして、実の娘に対する、彼なりの不器用な『愛と赦し』の形だった。
「お前はもう……誰の教えもいらない。……行け、リオ。その手で人類の明日を、掴み取れ……」
ガクリ、と。
掲げられていた腕が、力なく床へと落ちた。
希代の軍略家であり、狂気の科学者。地球の真の独立のために、その生涯のすべてを冷徹な鬼として捧げ、そして最後まで不器用すぎた、私の父親――ゲーレン。
彼は、満足げな、微かな微笑をその口元に浮かべたまま、二度と動かなくなった。
静寂が、部屋を包み込む。
アノンの機体の燃え盛る火の粉だけが、パチパチと音を立てて降ってくる。
私は、端末を握りしめたまま、父の亡骸の前に、ただ、ぽつんと立ち尽くしていた。
勝った。私は、生き残った。
神のシステムを捩じ伏せ、地球破壊のカウントダウンを止め、さらには父に憑依した星を、父もろとも爆殺した。
だが、その勝利の代償として、私は――。
戦いが収束し、極限までナインに寄せていた心が、揺り戻してゆく。
周囲を見渡せば、どこまでも冷たい鉄の床に横たわる、アノン、そして父の死体。
レイラも、アノンも、総帥も、もう誰もいない。
ただ、赤黒い血の海の中に、ただ立っている孤独な私。
「……う、ああぁぁぁぁぁぁッ!!」
それは、勝利の凱歌などでは、決してなかった。
自分の生存圏を守るために戦ったはずなのに、親友、ずっと見守り愛してくれた男、そして偉大な父を、すべて失ってしまった。
私は一人だ。
私は、冷たくなった二人の亡骸を交互に見つめながら、暗闇のなかで、ただひたすらに、魂を掻きむしるような嗚咽を上げ続けるしかなかった。
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